第87話
「ヘジャブは嫌いよ」、イラン女性と初めて話した夜
ホトベサラという村は、カスピ海沿岸に広がる田園地帯の集落の一つだった。その夜の宿泊場所を探しつつ、とりあえず軽い夕食代わりにケバブを頬張っていた僕に、一人の若い男が話しかけてきた。
「うちに来ないか」
男の名前はホゼフと言った。おずおずと英語を話した彼は、朴訥とした男だった。幹線道から海の方向に向かって十五分ほど、ホゼフの家は林と畑に囲まれた一角にあった。広い庭には鶏が歩き、高床式の二階建ての家、外付けの階段を上った二階の部屋に僕は案内された。部屋の中は絨毯敷き、日本と同じように靴は入口で脱ぐことになっていた。
【イラン/国際リゾート、カンクン】
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イラン・イスラム共和国
(Islamic Republic of Iran) |
家にはホゼフのお母さんがいた。ゆったりとした長袖のシャツとズボン、髪の毛はあらわだった。外を歩くときは頭まですっぽりのチャドル、しかし家の中では気軽な服装。当たり前なのかもしれないが、僕は驚いた。
学生だというホゼフは、英語の教科書を見せてくれた。そこに載っていた会話文を楽しそうに読んでくれた。せっかく大学で英語を習っても、実際に使う機会がないのだろう。僕という会話相手を見つけられたことが嬉しいようだった。
ひとしきり喋ったあと、ホゼフが言った。
「ハマム、ハマム」
「ハマム?」
僕は訊き返した。ハマムというのはお風呂のことに違いないが、こんな田舎の村に公共のハマムがあるのだろうか。そう思ったのだ。
怪訝な僕をホゼフが連れていってくれたのは、近所の家だった。その家にはシャワーがあった。なんのことはない、彼の言ったハマムとはただのシャワーのことだったのだが、自転車旅行をしていると温かいシャワーを浴びる機会もなかなかない。わざわざ近所を訪ねてまでシャワーを使わせてくれた彼の気遣いに僕は感謝した。
シャワーからあがると、ホゼフの友人たちが集まっていた。ちょうど夕食の席が始まろうとしていた。出された食事はパスタ、そしてデザートにスイカがついた。ケバブとサンドイッチばかりの食事に慣らされていた僕は、とても新鮮に感じた。
「もっと食え。これも食え」
例によって男たちは、次々と僕に食べ物を勧めてくれた。
【イラン/国際リゾート、カンクン】
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ホゼフの家に戻ったとき、時刻は夜の十時になろうとしていた。部屋にはホゼフの弟や妹、そして従妹が集まっていた。弟は中学生くらい、妹三人のうち一人がまだ小さな女の子、残りの二人は十代後半か、室内であっても僕がいるためだろうか、頭にヘジャブをまとっていた。もう一人、従妹はやはり妙齢だったが、Tシャツ姿で髪の毛を隠してはいなかった。
「こんにちは。イランへようこそ」
彼女は滑らかな英語で言った。ホゼフには申し訳ないが、彼よりも上手な英語だった。
「サラといいます」
夏休みで地元に戻ってきているのだろうか、テヘランの大学生なのだと言った。
僕はシリアのマアッラーナマンを思い出した。あの田舎の町で、僕はバシルの家に三日間お世話になった。しかし彼の母親や妹と対面することはついになかった。友人の家を訪ねたときも男ばかりであった。それに比べると、このイランで、妹や従妹を紹介されるというのはずいぶん貴重な体験であるように思えた。実際イランに入って一週間、まともに女性と会話をする機会というのは、これが初めてのことだった。
「ヘジャブはよくないわ。私は嫌いよ」
サラは言い切った。これはまた大胆な発言である。イランにおける宗教的な服装の規制というのは大変に厳しい。女性は必ず頭髪を布で覆わなければいけないが、この決まりは異教徒、外国人旅行者に対しても無条件で適用されるのだ。男の僕も、たとえば短パンで外を歩き回るのは好ましくないから、どんなに暑くとも毎日ちゃんと長ズボンを履いていた。
サラは自分の手帳に僕の名前を書いてくれと言い、僕は自分の名前を、いつも必ずそうするのだが、ローマ文字と漢字の両方で書いた。サラは漢字を不思議そうに眺め、目を細めた。代わりに自分の名前をペルシア語で書いてくれた。
【イラン/国際リゾート、カンクン】
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【イラン/国際リゾート、カンクン】
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やがて時計の針は十二時になり、彼女たちが腰をあげようかというとき、僕はおそるおそる、みんなで写真を撮ってもいいかと尋ねた。イスラム圏において女性を被写体にするというのは一種のタブーであり、断られても仕方のないことだと思いつつ、訊いた。
ホゼフが答えるよりに先に、サラがあっさり答えた。
「いいわよ」
ホゼフと、弟と、幼い妹と、サラが並んだ。年頃の二人の妹のうち、一人は写されることを嫌がった。サラは室内に転がっていた麦わら帽子をとっさに手にとった。そして頭にちょこんと載せた。
お洒落のつもりか、おどけているのだろうかとそのときは思ったが、あとになって違うと理解した。写真の中で彼女は頭髪を隠したのである。
<出発から20607キロ(40000キロまで、あと19393キロ)>
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