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旅の自己責任論は、若者の好奇心や挑戦心を奪う

旅人は覚悟と勇気を、国家はいざというときの全面支援を




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 イラン東部で誘拐された邦人学生が、8カ月ぶりに解放された。彼が誘拐された現場であるバムは、6年ほど前に、私が自転車で通過した町でもある(オーマイニュースに旅行記「銀色の轍」を連載しているが、くしくも現在連載中の舞台がイランであり、間もなくバムにたどり着く予定である)。

 私が訪れたのは2003年の大地震の前であり、現在とは情勢が違う。旅行者は各国から集まっており、さほどの緊張感は感じなかった。しかし、当時から周辺のケルマン州やバロチスタン州は、アフガニスタンからの難民や麻薬組織が多く、治安は良くないと言われていた。

 だから今回の誘拐事件、まったくのひとごとには思えない。

 最近は、類似の事件が発生するたびに、「自己責任論」が巻き起こっている。ネット上には、「いっそのこと殺されてしまえば良かったのに」という薄ら寒いコメントも散見する。

 しかしその中で私が特に気になったのは、自民党の有力議員の発言である。「外務省が渡航を自粛すべきとした地域(※)の場合、救出に要した費用は本人の負担に」という考えを、笹川堯衆院議院運営委員長が示した。

 これはいかがなものだろうか。

 私は「自己責任」は、ある意味当然だと思っている。しかし、同時に、いざというときに国民を守ってくれる国家でなければ、なんのための国か、と思う。

 私はグアテマラで強盗に遭った。そのときは、下手をすれば死ぬ可能性があると悟り、無性に怖くなった。また、長く旅を続けていれば、旅行中に死んだ人の話、行方不明になったまま帰らない人の話など、飽きるほど聞いた。大きなニュースにならないだけで、そんな出来事は山ほどある。

 また、海外で命を落とす可能性の第1位は、テロでも殺人でもなく交通事故だが、自転車旅行の私にはその心配もあった。私はたぶん、運が良かったから、最終的には無事に帰って来られたのだろう。

 2年半の旅の間に、私は世界各地の日本大使館(または領事館)を訪れた。ビザの手続き上必要な書類をもらうため、あるいは単に日本の新聞を読みたいがためだったが、大使館の存在は非常にありがたいものだった。  イスタンブールでパキスタンのビザを申請するとき、日本領事館の添え状(レター)が必要で、面談があった。インドとパキスタンの関係が緊張していた時期だった。

「正直、情勢がどうなるか、私たちの方でも予測がついているわけではないんですよね。ただ、言えるのは、いざ何か発生したときに、特にあなた方のように自由に旅行している方たちは、どの場所、どこの町にいるか分からない。助けに行きたくても、それができない。そういった点がこちらの方でも困るし、また、何よりあなた方自身が困った事態に置かれてしまうこともあるでしょう」

 もし、この時点で、「何かあっても日本政府は救援しない」、あるいは「救出費用は自己負担」、どちらかを選ぶ書類にサインしろと言われたら、私は前者を選んだだろう。

 しかし、もちろんそんなことはなかった。

 「くれぐれも気をつけてください」との忠言とともに、添え状は発給された。

 旅行者は自分の判断で旅先を選ぶ。誰も自分が事故に遭うつもりで次の目的地を決めはしないが、最悪の覚悟は自分の中で持っている。情報を適切に集める。ヤバイと思ったら、引き下がる。もし、事故に遭ったとすれば、それは旅行者自身の不運、もしくは無謀。それ以上でもそれ以下でもない。

 私が笹川氏の発言で懸念するのは、ある種の覚悟で、人生を賭けて、このような旅をしたいと思う若者の好奇心や挑戦心、あるいは冒険心を、殺してしまわないかということだ。周りの圧力で押しつぶしてしまうような土壌を、作ってはしまわないかということだ。

 私は2月に「旅をしない若者たち」という記事を書いたが、まさしく「かわいい子には旅をさせず」、足かせをはめて箱庭で遊ばせておくことを良しとするかのようである。

 足かせをけ散らしてでも、行動できる若者がいなくなったとき、海外で事件に巻き込まれる日本人はゼロになるだろうか。外務省は仕事が減って嬉しいだろうか。税金の無駄は軽減されるだろうか。その一方で、若いエネルギーは内にこもり、日本はますます閉塞(へいそく)するばかりではないだろうか。

(※この問題を論じるにあたっては、外務省の危険度情報について考える必要がありますが、文字数の都合により、次回記事にします)

(2008年6月19日掲載)

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