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田中康夫氏の講演に学ぶマスコミの閉鎖性と作文の力

 「主語をもって語る、自分の言葉で自分を述べる、これが大事」




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 11月2日、前長野県知事にして新党日本代表を務める田中康夫氏の講演が、政策学校一新塾の主催により、東京都内にて開催された。その模様を報告する。

「さあ、信じられる日本へ! ヤッシー流、日本復活構想」という演題で、6年間の知事時代の経験を軸に、脱ダム宣言についての話や評価制度を取り入れての入札制度改革の話、間伐材を利用した木製ガードレールの話や特別養護施設をめぐる利権の話など、具体例を示しての講演内容は充実したものとなった。

 その中で田中氏が話したことの1つに、報道媒体に対する不満があった。記者クラブの閉鎖性と、政官業の癒着を下支えするマスコミの問題について、次のように語った。

「記者クラブは県の建物に県の予算を割いて、担当職員まで置いていた。私が知事になって、スポーツ紙や県外のマスコミも来るようになったが、事前にクラブにおうかがいをたてなくては入れない仕組みであった」

「不信任案が提出された週末、私は東京のテレビやラジオに相次いで出演した。その間にも、ぶら下がりの取材には答えていたが、個別インタビューの申し出は一切なかった。週が明けて月曜日の午後になって、ようやく取材を申し出てきたのは東京の毎日新聞。地元紙は何も言ってこなかったのに、ただ『田中康夫東京行脚』と批判的に書いた」

「長野県では過去41年間、議会に提出された議案が否決されたことがなかった。私が知事になって否決や修正がどんどん出るようになった。41年間否決なしのほうがよほどおかしいのに、マスコミは議会が“混乱”とこれまた否定的に書く」

「地方紙は外交等の問題では(直接自分たちの利害に関係がないので)威勢のいいことを言うけれど、地元の汚職や癒着の問題については逮捕者が出るまで書かない。政官業の利権分配のトライアングルの現状を、マスコミも追認しているだけだ」

「さあ、信じられる日本へ!」熱弁を奮う田中康夫氏
【「さあ、信じられる日本へ!」熱弁を奮う田中康夫氏】

 先日非政府組織「国境なき記者団」(本部・パリ)が発表した世界の報道自由度の順位によると、日本は51位という低さである(ちなみに韓国より低く、アメリカより高い)。その理由の1つとして、閉鎖的な記者クラブの存在が挙げられていた。私はインターネットでこのニュースを知ったが、大手マスコミにおける扱いは小さかった。

 田中氏はまた、再三に渡って「作文」の重要性を訴えていた。「想像力、洞察力、直感力の3つを備えていないといけない。日本語は主語がない言葉だと言われるけれど、主語を入れて、自分の言葉で自分を述べる、これが大事だ」

「役所の人間は、自分の言葉で語ろうとしない。自分の言葉で語ろうとしないのは、責任を持たないことである。私は知事になって職員に、必ずフルネームで記名するように徹底した」

「身にまとっているブランドや肩書でしか自分を表現できない人が多いが、それではだめ。批判が出ないのはありえないのであって、それに対しきちんと主語をもって語る。矜持と諦観をいかにあわせ持つかだ」

 作文とはすなわち、書く力、表現する力。およびその裏返しとしての、読む力、理解する力のことだろう。それを自らの言葉で行うことが重要であると田中氏は力説した。

 私は今まで氏の著作を読んだことはなく、どちらかというとカタカナ語をむやみに使う軽薄なイメージが好きではなかった。しかし、作文が大事という氏の言葉には強い説得力を感じ、共感した。政治家である以前に作家である氏の偽らざる本音であり、国語力の低下が問題視されている若者および教育への警鐘であろう。

 昨今のいじめ自殺や必修科目未履修問題に関連して、教育に関わる質問が会場からは多く発せられたが、いずれに対しても田中氏は「やはり作文だ。自分の言葉で語ることが大事なのだ」と、くり返し熱弁を奮っていた。

 最後にオーマイニュースに付随した、私の感想を記す。

 1人1人の市民が実名で記事を書く。オーマイニュースの形態は、まさに田中氏の言うところの「作文」の集合体である。講演後の懇親会で、「マスコミ情報のうそを見抜くにはどうしたらいいのか」という質問を投げかけたところ、「行間を読め」との返答をいただいた。一般市民にとって、それは非常に難しい注文であろう。しかしそれができなければ、今の報道の形は変えられないのかもしれない。

 1人1人が主体的に、自分の声で発信していくことが大切であり、それが何千・何万と集まったときに、閉鎖的な記者クラブの体制に守られた大手マスコミをしのぐ、大きな力になるのではないだろうか。
(2006年11月07日掲載)

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