第86話
乾いた高原を駆け、世界最大の湖カスピ海を目指す
トルコ東部から山岳地帯の続くイラン西部。景色はさらに荒涼さを増していたが、さすが産油国である。舗装は路肩まできれいで道は走りやすかった。タブリーズからまっすぐ進めば首都のテヘランへ向かう道だったが、僕は分岐してカスピ海方面へ進路をとった。
イランの道路を走っていて驚いたことは、いたるところでピクニックをしている家族を見かけることだった。特にピクニックに適した、と僕らが思うような園地があるわけではない。ちょっとした川べりや木陰に敷物を敷き、弁当を広げチャイを沸かしていた。景色がいいわけでもなく、すぐそばが道路で、車の排気ガスが吹き付けそうな場所ですらやっているのが不思議だった。
ところどころレンガ土壁造りの田舎集落が現れた。土壁には赤や青の派手な原色で、商業広告なのか、政治的な宣伝文なのか分からないが、なにやら仰々しく文字が書かれていた。緩やかな道を淡々と走っているのは案外暇である。読めたら楽しいのにと思いながら、僕はペダルをこぎ続けた。
ときおり緑の大看板が現れた。アラビア文字で大書されているその単語だけは読めた。
『アッラー』
【イラン/イラン北西部アゼリー地方】
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イラン・イスラム共和国
(Islamic Republic of Iran) |
【イラン/イランの典型的な食事】
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【イラン/サラーブという町の食堂にて】
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サラーブという町で、ガソリンスタンド併設の食堂に泊めてもらった。日本人であると話すと、男たちの一人が何かを言ってきた。意味が分からずにきょとんとしていると、男は紙に簡単な絵を描いた。樹木の絵であった。そしてにっこりと笑った。
(日本は木が多いんだろう。いいなあ)
つまり彼はそう言いたいのだった。たしかにイランは乾いた大地が続く。しかし木が多いから羨ましいというのは、そのことが当たり前の国土に育った僕にとって、とても新鮮な感覚だった。
彼らは夕食に誘ってくれた。ナスとタマネギ、シシトウをとにかく丸ごと焼いて、肉と一緒に薄いパンで巻いて食べるという食事。ナスもタマネギも、外は黒こげ、中は生焼けで、この調理法はいかがなものかと内心思ってしまったが、そんな大雑把な料理もまた、高原の国イラン流なのだ。
「ファルシーは話せるか」
そしてまた、彼らは興味津々に訊いてくる。ファルシーとはイランの公用語、すなわちペルシア語のこと。僕はできないと首を横に振った。「ではトルコ語はできるか」と一人の男が、今度はトルコ語で話しかけてきた。「少しだけなら」と僕は答えた。
僕がトルコ語の数字を口にすると、彼はそれに対応するペルシア語の数字を教えてくれた。イラン北西部はアゼリー人と呼ばれるトルコ系の人々が多く住む。イランに入国してしばらくたつのにまだ片言のトルコ語が役に立つというのは不思議な気もしたが、国境線などには阻まれない大陸の連続性を感じることができるようで嬉しかった。
【イラン/温泉リゾート、サルエイン】
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サルエインという温泉地を訪れた。そこは一大観光地になっていて、名産の蜂蜜を売る露店など、土産物屋がずらりと並び、整備された並木道が続いていた。並木の下にはずらりとテントが張られ、そんなところでも多くの家族が、鍋を火にかけてピクニックを楽しんでいた。
温泉は水着着用であったが、お湯は四十四度くらいと熱く、鉄っぽい色と臭いが効いていて日本人好みの鉱泉であった。脇に洗い場も備えられていた。ほとんどの客はプールの縁で腰掛けぼーっとしているだけで、ごく少数の元気いっぱいな若者たちだけが、飛び込んだり泳いだりしていた。
サルエインを背にし、アゼリー人の町アルダビールを過ぎると、高原地帯としばしお別れだ。標高千五百メートルの高地から、海抜ゼロのカスピ海沿岸まで、実に四十キロのひたすら長い下り坂。交通量は多く、つづら折りのヘアピンが続き、ブレーキレバーを握る指は痺れ、下り坂なのにほとほと疲弊した。肌を撫でる風の生暖かさに違和感を覚えながら、アゼルバイジャンとの国境の町アスタラに到着した。
アゼルバイジャンはトルコ系の国であり、かつソ連邦の一員だった国である。カスピ海に面したアスタラの市街には、キリル文字の看板がちらほらと見られた。とはいえ旅行者が行き交うような国際的な華やかさはなく、出入国管理所も狭い路地を抜けた場所に位置し、全く目立たなかった。ジュースや菓子を売る露店に交じって、両替屋がたむろしているのみだった。
食料の買い出しを済ませ、僕はカスピ海に出た。世界で一番大きな湖であるカスピ海を、是非この目で見てみたかったのだ。打ち寄せる波、なんということはない白い浜辺。それはただ、どう見ても海、さして美しくも風光明媚でもない、ごくありきたりの海の景色だった。
若い男たちが数人、海パン姿ではしゃいでいた。砂浜にゴミが散らかっていた。水着姿の女性などいない。いるはずがなかった。
【イラン/カスピ海方面へのつづら折り】
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【イラン/アゼルバイジャン国境の町アスタラ】
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<出発から20510キロ(40000キロまで、あと19490キロ)>
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