ふねしゅーの地球紀行
    2003年8月
               



●2003年8月31日

 カタク → ヤンジョウ(充のナベブタを六で置き換えた字・州)(156.6km) 
 ペダルの調子が悪い。以前からたびたび音鳴りはあったのだが、このところ雨が多かったせいか、さらにイカレテきた。クランクのがたつきがひどくなってきた。
 済寧の街の迂回路、平たい貨船の並ぶ河を渡る。ふと思い当たるフシがあり、地図を確認すると、京杭運河。北京と杭州を結ぶ途方もなく長い運河だ。現在も利用されていることを考えると、万里の長城以上にすごいのかもしれない。


  ●2003年8月30日

 開封 → カタク(草冠に河・沢)(130.3km) 
 雨止まず。もう一泊も考えるが、日程的にビザ期限がきつくなるので出発。排水という概念がこの国にはないのか、ドブがなく、水が溢れて道が池になっている。
 午後、雨はおさまり、ついに山東省、海沿いの省だ。さらに豊かなのだろうと期待していたが、道が工事区間となっていたせいもあるかもしれないが、概して河南省のほうが舗装もよく、街も栄えていたような気がしてがっかりする。


  ●2003年8月29日

 開封(0.0km) 
 雨である。テレビでタイフォンという言葉を聞いた。台風かもしれない。風が強い。
 11時まで宿でゴロゴロしているが、止む気配がない。仕方なく雨の中の観光へ。開封は北宋や金の都が置かれていた古都で、かっては東京という名前だったらしい。東京旅社や東京汽車修理なんて看板を見かける。11世紀に建てられた鉄塔(鉄製ではなく、レンガの色が鉄色にみえる塔だ)と歴代王宮跡 の龍亭を回る。龍亭は湖に囲まれた立地で風情があり、建物が近年の再建と書いてあったため期待していなかったのだが、良かった。
 他にもいくつかの見所はあったが、寺は見飽きたし、入場料は高いし、なによりも雨だし、ネット屋を探す。日本語可のところが見つからない。時間があまったら、そろそろTシャツや短パンの新しいのを物色しようかと思っていたのだが、それも果たせず日が暮れた。


  ●2003年8月28日

 鄭州 → 開封(73.8km) 
 3500年前の商(殷)代遺址が市街地に残っている。ただの土の山である。
 省都鄭州はやはり大都市。半日かけて着いた開封はそれに比べ垢抜けしない街並み。城壁をくぐったあたりで雨が降り始め、しかも宿は停電していた。


  ●2003年8月27日

 少林寺 → 鄭州(94.1km) 
 少林寺拳法で有名な少林寺、ここはダルマ人形のモデル、インド人僧達磨が禅宗を開いた場所でもある。達磨が九年間こもって修行したという洞穴が残っている。
 昼から、青空が広がるいい天気。麓の登封市周辺にも多くの武術学校を見かける。いまどきなぜ武術という感じだが、泊まった部屋に貼ってあった時間割には、英語、礼儀といった授業項目もあり、実際、英語の授業風景もみかけた。親はそのあたりをあてこんで子供を入学させているのかも知れない。
 夕方、鄭州に着く。19時でもうだいぶ暗い。日没が駆け足で早まってきた。


  ●2003年8月26日

 洛陽 → 少林寺(82.3km) 
 洛陽郊外の白馬寺。西暦68年創建の中国最古の仏教寺院。寺そのものは後世の再建だろう。ただ、中国に仏教を伝えたといわれるインド僧カサパマタンガとダルマラトフ2人の土塚が残されていた。
次の目的地少林寺へ向かう道路上、それまでは知らなかったのだが、玄奘の生まれ故郷を通過する。国道から7キロ、ブドウ畑の多い、ガタガタ道の先の田舎村だった。
 坂道。雲の中に突入し、視界がゼロ。そして少林寺に着いた。塔構武術学校内の賓館に泊まる。大勢の子供達が拳術、槍術の稽古をしている。購買部があったり食事が作られていたり、見て回っているだけで飽きなかった。


  ●2003年8月25日

 洛陽(35.2km) 
 中国三大石窟の一つ、龍門石窟を見に行く。水と緑に恵まれ、しかも霧がかかった景色の中、岩窟に無数の窟が造られ、仏像が刻まれている。三大石窟の中では一番見劣りすると聞いていたが、扉に鍵のかかっていた莫高窟より自由に見学できたし、遜色なく良かった。


  ●2003年8月24日

 三門峡先 → 洛陽(105.0km) 
 一転して霧雨。雨はどんな小雨でも大嫌いだが体力的には楽。
 そして洛陽。西安と並ぶ古都だが、城壁や鐘楼などは残ってなく、近代的な街並みで市域は広い。同室は日本人だった。このあと少林寺へ行くという話をしたら「少林寺のやつらに勝てるんじゃないすか」と言われた。勝てるわけない。


  ●2003年8月23日

 霊宝手前 → 三門峡先(124.7km) 
 項羽と劉邦の争いなどで有名な函谷関を訪れる。川に面した断崖の地にあり、そこから細い谷合に石道が伸びている。一人が守れば万人が通れない、と謳われた険しさだ。現在はその谷のはるか上を高速道路の高架が走っている。時代の差だ。
 今日も又酷暑の陽射し。汗みずく。


  ●2003年8月22日

 華県手前 → 霊宝手前(135.5km) 
 いい天気が続くのはけっこうなことだが死にそうに暑い。しかも坂道の連続。五岳の一つ崋山を通過してから、河南省に入る省界までが特に。河南に入って道が良くなった。リンゴ園が多い。


  ●2003年8月21日

 西安 → 華県手前(98.1km) 
 西安観光の最後を飾る、華清池、始皇帝陵、兵馬よう(桶のきへんをにんべんに変える)。
 華清池はよかった。玄宗皇帝や楊貴妃の使った浴場跡が遺跡として残っていた。
 始皇帝陵。武帝の茂陵より大きいのだろうが、どう違うのか分からず。
 兵馬よう。体育館みたいな巨大な建物の中に、兵士や馬たちがズラッと並んでいる。360度の大画面で兵馬ようの歴史や発見されたときの様子を映画のように紹介する環影館なるものがあった。日本ではよくあるものだが、中国では珍しいのだろう。こんなの作るより入場料を安くしろよと思いつつも、久しぶりに文明的な付帯設備を見たわけで、それなりに面白かった。


  ●2003年8月20日

 西安(0.0km) 
 出発する予定だったが、敦煌で会った菊池君と昨夜再会。せっかくなのでもう一日いることにする。お互い行くところなく、動物園に行くがしけていた。パンダや、孫悟空のモデル「きんしこう」(金・糸を二つ並べた字「糸糸」・けものヘンに候)がいるのだが、檻は分かりにくいところにあるし、賑わってない。中国人には人気がないのだろうかと思った。代わりにゴーカートやコーヒーカップの類、しかもヘボいのがたくさんできていて、動物たちは狭い空間に追いやられていた。


  ●2003年8月19日

 西安(0.0km) 
 昨日で観光は一段落。読書、郵便局、インターネット。繁華街をぶらつき、イスラム地区に入り込む。中国にやってきたはじめ、パキスタンから新疆に入ったときはそこでのイスラム色に異国情緒を感じず、むしろ漢字や中華を新鮮に感じた。しかし、今から思うとウイグルそのものが充分に異世界だった。回族は顔立ちなどは漢族と同じ。ゲバブの匂いや走り回るサイクルリキシャ、イスラム帽、宗教が違うだけで街の雰囲気は随分変わるものだなと思った。


  ●2003年8月18日

 西安(26.2km) 
 連日の観光。このように毎日観光に出かけているのも、われながら珍しいことだ。
 大雁塔。インドから帰ってきた玄奘が、持ちかえった大量の経典を漢文に翻訳したというか場所。玄奘の足跡を、ブッダガヤからナーランダ、ガンダーラ、トルファンなどと逆にたどってきたが、ついにその終着点といえる場所に着いた。
 歴史博物館。展示品は膨大だが印象に残ったのは、奈良時代の和銅開宝がペルシャやシリアの貨幣と共に並べられていたこと。アラブの数字で書かれた6マスの魔方陣などもあった。シルクロードが確かに存在していたことを感じさせられた。
 同室に、韓国人男とオーストラリア人男が来る。日本語の話せる韓国人の彼が別室の韓国人女2人を連れてきたが、みんな英語がだめで共通言語がなく、韓国語→日本語→英語という二段階の通訳。さらに彼女たちの片方が中国語ができ、たまにそれが混じるというややこしさ。それが逆に面白かった。


  ●2003年8月17日

 西安(17.2km) 
 今日は日本と関係のあるところを3つまわる。
 八路軍西安弁務所記念館。対日戦争の間、国民党下にあった共産党の合法機関が置かれた場所である。
 興慶宮公園。玄宗皇帝と楊貴妃ゆかりの宮殿跡であるが、その玄宗に重用された日本人阿倍仲麻呂の碑が建てられていた。
 青龍寺。仲麻呂同様、遣唐使で中国に渡った僧、空海が学んだ寺だ。


  ●2003年8月16日

 カン(緘の糸へんをとった「つくり」の部分)陽 → 西安(55.6km) 
 秦の都が置かれていた古都、カン陽。博物館には当時の品、昨日見てきた茂陵などから出土した馬ヨウ(桶の木へんを手ヘンに変えた字)などがあった。馬ヨウというと、西安東部にある始皇帝陵の兵馬ヨウが有名だが、実に様々な図案のものがあって驚いた。戦いに赴く兵士だけでなく、馬上で楽器を奏でる人、馬に乗って旅遊に出かける婦人、西域ペルシャからやってきた胡人など題材は様々。
 カン陽から西安までおよそ30キロ。西安の中心部は東西5キロ南北3キロの四角形で壮大な城壁に囲まれている。西の安定門から入城。近年の修復だろうが、見上げる巨大な城門。櫓はかつて世界一であった古都の風格を感じさせた。
 ローマを発ったのが2001年10月、イスタンブールが2002年7月、途中いろいろ道草を食ったからではあるが2003年8月やっとかつて長安と呼ばれたこの街に着いた。
 宿に荷を降ろしたあと、碑林博物館へ。莫大な点数の石碑が林のように沢山立っているという由来で碑林と呼ばれるところ、儒家教典が刻されたもの、人物や植物、地図などが刻されたものもあった。全七室、中国の文字文化の質と量にめまいを覚えた。


  ●2003年8月15日

 法門 → カン(緘の糸へんをとった「つくり」の部分)陽(116.9km) 
 朝8時、開門まもない法門寺へ。1800年以上の歴史を有し、インドのアショカ王から送られたという指の仏舎利(ブッダの遺骨)を納める由緒ある寺だ。再建された宝塔の地下に、その仏舎利が発見された唐代の地下宮殿が残されている。ガラス越しだが覗き見ることができた。
 宿に戻ると、おじさんが出発準備を整えていた。街道の分岐まで約7キロを一緒に走る。
 午前中には今にも降りだしそうだった空は徐々に回復してくる。
 楊貴妃が殺された地、そこに墓がある。さらに東へ進むと、漢代歴代皇帝の陵墓群がある。ひときわ大きく、もし知らなければただ山としか思えない武帝の墓。茂陵を訪れる。西域に使者や軍隊を派遣し、河西回廊に4郡を置き、シルクロードを拓いた人物の墓である。 そしてカン陽、西安はもう目の前である。


  ●2003年8月14日

 宝鶏 → 法門(121.9km) 
 一日中雨。午後から本降り。こんなにまで降られる日も珍しい。
 太公望が釣りをしながら、のちの周王となる人物を待ったという釣魚台を入口だけ見て、次に五丈原へ。五丈「原」というからには平らな原っぱだと思っていたら、本来は土へんに原という字をあてるらしく、実際は高台。諸葛亮孔明が最後の戦いに赴き、病没した地。孔明廟が建てられている。霧雨の中の見学。晴れていれば眺めの良い戦略的に重要な地なのだろうと想像する。
 19時を回ってから法門に着く。宿をとる。西安に住んでいて自転車で来たという中国人のおじさんに会う。服を洗濯、乾くわけないだろうと思いつつも干す。


  ●2003年8月13日

 宝鶏(39.8km) 
 函谷関などと並び関中四大関と列せられる古大散関を訪れる。秦蜀(西安地域と成都地域)を結ぶ要衝で、項羽と劉邦や孔明もここを通過したという。
 午後、三皇残りの一人、神農を祀った炎帝祠、道教の宗教施設である金台観を回る。


  ●2003年8月12日

 立遠 → 宝鶏(79.1km) 
 10時半、甘粛省から陝西省へ。奇しくも中国新疆入りが6/12、甘粛入りが7/12、そして今日8/12と丁度ひと月刻みだ。
 ここにきて、貧しい中国農村部の姿が見られる。道をとぼとぼ歩き捨ててある食べ物を探している人を見たり、村の施設の掲示板に「四年内脱貧」などという脱貧計画が書かれていたりした。
 昼すぎ宝鶏に着く。書店をまわって地図などを見て、ここから西安までの間の見所確認をする。


  ●2003年8月11日

 天水 → 立遠(114.8km) 
 伏ぎ(義を少し難しくしたような字)廟を訪れる。中国の伝説上の最初の王である三皇の一人。人びとに猟や牧畜を教え、文字を作った人物とされて天水出身だ。伏ぎ像はギョロ目でヒゲ面、河童みたいなウロコ状の服装で、ひょうきんなおっさんという印象。同じく三皇の一人で伏ぎの妹らしい女か(鍋の金へんを女へんに変えた字)も天水生まれだ。そういう存在の故里とされる場所、いよいよ中国の核心部に入ってきたという実感が湧く。
 川に沿った山合いの道、りんご園のほか蜂飼いが多いらしく、蜂の大群がそこらじゅうを飛んでいる。頭を刺された.超痛い。


  ●2003年8月10日

 武山手前 → 天水(116.4km) 
 蘭州を出てから冴えない天気が続き、今日は雨。途中、大像山という山の中腹に大仏の残る石窟を訪れる。参拝道に沿って多くの堂や祠が建ち、遺跡ではなく現役の山寺群だった。
 その後、思いもよらぬきつい峠。雨足も強まる。夕方やっと天水に着く。


  ●2003年8月9日

 臨トウ(さんずいに兆)先 → 武山手前(148.6km) 
 有閑とした農村部がひたすら続く。都市部ではほぼ皆無といえる人民服姿のおじさんを結構見かける。白帽をかぶった男性、黒い薄地のスカーフ姿の女性が目立つのはイスラム教徒の回族の村だ。昼下がり突然アザーンが聞こえてきたときは驚いた。見かけは完全に中国様式で仏寺と変わらないような寺院が、「清真寺」という札でモスクだと判る。


  ●2003年8月8日

 蘭州 → 臨トウ(さんずいに兆)先(128.3km) 
 蘭州から南、峠を越え、山に囲まれた田舎道、村落が続く。
 「控制人口数量、提高人口素質」とか「少生優生、幸福一生」などという標語の大看板をしょっちゅう目にする。新疆では「民族団結、熱愛祖国」なんてものが多かったが。


  ●2003年8月7日

 蘭州(0.0km) 
 名物の牛肉麺を食い、黄河を展望する白塔寺を訪れる。手前に黄河、その次に高層ビルの林立、奥に緑の山。全体的に曇ってケムっている。そこが蘭州らしい気もした。


  ●2003年8月6日

 蘭州西固区 → 蘭州(42.2km) 
 黄河に沿って東西に長細い蘭州。久しぶりの大都会だ。歩いて回るには広すぎる街。金城というシルクロード時代の旧名はあるものの、歴史的遺構に欠け、ひたすらデカイ。
 面白みのある街ではないが、宿の同室がスイス人と韓国人。旅行者との会話も久しぶりだ。


  ●2003年8月5日

 安遠先 → 蘭州西固区(149.8km) 
 一転して好天。雪を残した山並み、幅の狭い谷間には緑の田園。赤茶けた素朴な家並み。川の対岸をじゅずつなぎの列車が走る。
 蔵族(チベット族)自治区天祝の手前で、通算35000キロを記録した。残り5000だ。
 谷あいの荒れた舗装の下り坂。西寧方向への道と合流し、草を満載したトラックがつかえてひどい渋滞。
 そして不意に、黄河が見えた。少し上流には工場の煙突。蛇行していく下流の対岸は蘭州西固区の街並み。黄河はその名の通り土色に濁っていた。


  ●2003年8月4日

 武威 → 安遠先(101.9km) 
 武威を出てしばらく、昼すぎに石浪という町に着く。川に沿って上り坂、高い山に挟まれた谷あいに入っていく。山は今までの褐色ではなく緑に覆われ、川沿いには高い木が茂っている。砂漠地帯が完全に終わったことを実感した。
 午前は青空だったが、午後から曇り、夕立。早速、雨の歓迎である。


  ●2003年8月3日

 永昌手前 → 武威(116.5km) 
 日本をたって八百日。一種の記念日だ。
 沙州敦煌、粛州酒泉、甘州長エキ、そして涼州と呼ばれた武威。シルクロード河西回廊四郡のさいごの一つだ。
 文廟を訪れる。孔子を祠ったこの旅初めての儒教の見所だ。実は、見たかったのは敷地内に展示されている西夏碑。11〜13世紀の間この地を支配した西夏の、感じをより複雑にしたような字の西夏文字が刻まれている。裏面に対訳の漢字文が刻まれていて面白い。
 地球の歩き方には「高層ビルがほとんどない地方都市」と書かれているが、建築中のものも含めて高層ビル林立の武威市街。他のシルクロード都市同様、近年急速に発展しているのだろう。それでも繁華街の南端には巨大な南門が建ち、それに続く中心広場を起点に歩行者天国の買物街では涼しくなる夜にはとりわけ賑わって、シルクロードらしい風情を出していた。


  ●2003年8月2日

 張エキ(手へんに夜) → 永昌手前(133.4km) 
 張エキからしばらく林間牧草地帯が続く。やがて景色が開け荒涼としてくる。ふと気付くと右手に長い土の壁がある。走っても走っても、高さ3メートルくらいのその壁はずっと続いてくる。ところどころ欠けてなくなっていたり、1キロごとくらいに矢倉みたいな大きめの構造物が現れたりする。
 明代の万里の長城である。およそ50キロ、今日は万里の長城と並走する日となった。観光用に石造り、コンクリート造りで整備されたものではなく、レンガや土に干草を混ぜて積み上げられた歳月を感じさせるものだ。その途方もない長さに圧倒される。


    ●2003年8月1日

 張エキ(手へんに夜)(0.0km) 
 張エキ最大の見所として期待していたのが大仏寺。900年前に異民族王朝の西夏によって建立され、元の皇帝フビライがここで生まれたとされる。この町に1年近くも滞在したというマルコ・ポーロ絶賛の古刹。その肩書きを外観するだけでもシルクロードの魅力が凝縮されたような寺だ。
 広い敷地に涅槃仏の横たわる大仏殿やチベット様式の土塔などが集まっていた。変に目新しく改築されることもなく古びたままの重みを感じさせる大仏殿は秀逸。さらに併設で、書物や絵画の展示が多くなされていたが、玄奘の「大唐西域記」に感動した。