ふねしゅーの地球紀行
    2003年6月
               



●2003年6月30日

 コルラ手前 ⇒ コルラ (64.8km) 
 明るくなる4時半すぎから周りは起き出している。早い。
 午前中にはコルラ着。ウルムチ方面、カシュガル方面、そして南部かっての楼蘭の方面をつなぐ 交通の要衝だ。ウルムチ方面、カシュガル方面、そして南部かっての楼蘭の方面をつなぐ交通の要衝 だ。大都市ぶりにまた驚く。
 昼過ぎ、郊外の鉄門関という史跡へ。4世紀に築城され、以降軍事的な関として使われてきたという 場所だ。近くにダムがあり周辺は観光公園として整備され、展望台もあった。
 久しぶりのインターネット。阪神が首位を独走しているらしい..........。


  ●2003年6月29日

 輪台(ロンタイ)先 ⇒ コルラ手前 (138.2km) 
 曇り空。風もあまりなく涼しい。工事区間多く道はデコボコ。途中食事をとった食堂ではカラオケが ずっと流れ店のオヤジが一人で唄っていた。そのあと休んだガソリンスタンドでは、従業員の女の子が 漢族、ウイグル族ともやたら美形で驚いた。しかも杏をもらった。
 いいことの後には悪いことがあり、パンク。ちょうど通りかけた道路工事基地で修理。すでに7時、 しかも雨が降り出してきたので、頼み込んでそこに泊めてもらうことにした。豆腐、ナス、ジャガイモ などの入った鍋の夕食を頂く。テーブルなどはなくみなその辺に腰をおろしたり立ったままで食うの だが、旨かった。


  ●2003年6月28日

 クチャ ⇒ 輪台(ロンタイ)先 (134.9km) 
 昨夜は結局パスポートを強奪されて、今朝出頭。担当の英語を話す女性係官は昨日よりはずっと 柔らいだ物腰だった。でも始末書を書かされ、罰金は逃れて、放免となった。
 9時出発。珍しく追い風。朝の遅れを取り戻し距離が進んだ。


  ●2003年6月27日

 新和 ⇒ クチャ (49.2km) 
 一転して曇空の冴えない天気。クチャに到着してまもなく雨が降り始めた。
 シルクロードの中継点クチャは古代より亀慈国と呼ばれる都市国家が栄え、漢や唐の時代には西域 ないしは安西都護府が置かれた地だ。市街のほど近くに亀慈古城という都護府跡が残っているが、 ただの土の塊で周りはゴミだらけの畑と林。ちょっと興ざめである。遠出すれば仏教石窟などの見所が 点在しているが、なにせ遠く不便なので割愛。
 クチャの町はカシュガルやアクスに比べるとぐっと小さく、ずっとウイグル色が濃い。特に金曜日と いうこともあるのか、バザールの賑わいは中国であることを忘れさせるほどイスラムだった。
 事件は夜。この日、一泊10元(150円)の旅社に泊まっていたのだが、中国ではこの類の安宿は 外国人禁止になっているところが多い。誰かがタレ込んだらしく、寝ようかという頃、公安がのり こんできた。


  ●2003年6月26日

 央塔克庫都克 ⇒ 新和(シンホー)手前 (100.7km) 
 昨夜は12時過ぎまで起きていたので眠い。休憩所のテレビでやけに若い宮沢りえと東幹久の出て いる日本のドラマをやっている。宮沢りえがエレビーターガール役で、舞台は多摩そごう、ぼくの 実家の近所だ。見覚えのある景色も出てきて妙に懐かしい。
 10時出発。すでに殺人光線が降り注いでいる。
 75キロ走って緑地帯に突入。畑や牧草地が続き、ロバ車の行き交う道だ。


  ●2003年6月25日

 五団場 ⇒ 央塔克庫都克(オターカクツーカ) (52.6km) 
 ガンガン晴れの今日。体調も回復した。ゆっくり遅めの出発。
 午後、工事基地らしき建物、テント群と一軒の食堂。ここで卵とピーマンの炒め物を食べる。 そのとき一人の男性が英語で話しかけてくる。キョウさんというその男性によると、ここは道路工事 ではなく、タリム盆地に多量に眠ると言われる石油の探索会社らしい。彼らの仕事場は一軒簡素な仮設 小屋にすぎないが、中は空調完備、衛星テレビにノートパソコンもあって驚かされる。
 結局、キョウさんの勧めで、ここに一泊させてもらう。会社の本拠は中国東北部の遼寧省、みな 単身赴任なのだろうか、男の職場という雰囲気。たぶん戦争を題材にしたドラマなどで頻出するのだろ う、「バカヤロー」なんて日本語を冗談で放ってくる。夜は当然のようにビールの栓が次々と開けられ る。腹の調子の戻った直後の暴飲暴食である。


  ●2003年6月24日

 アクス ⇒ 五団場(ウーテュアンジャン) (76.3km) 
 やっぱり腹の調子優れず。休憩を長めにとりつつゆっくり進む。しばらくずーっと緑地の集落帯が 続き、その点は楽。
 ついにその緑地帯を抜け、再び砂漠帯。暑い長い坂を上がって下ったところ、ガソリンスタンドと 商店数軒。一つの店が宿も兼ねていて1泊10元。買ったジュースが半分凍っていてその冷たさが 嬉しい。


  ●2003年6月23日

 阿恰勒(アハラ)先 ⇒ アクス (99.7km) 
 カシュガル以来の都市、アクスへ。近郊は集落が続き、緑も多い。しかし、昨日もらった水が悪 かったのか、お腹の調子があまり良くない。
 やっと着いたアクスは予想以上の都会、日本でいうなら県庁所在地級、高層ビルが立ち並んでいる。
 問題は宿。相部屋で20元という安いところをようやく見つけるが、1時間ほど経ったあと、外国人 は個室のみで40元だ、と突然言ってくる。最初から外国人だと分かっていた筈だろ、と抗議するが 「不是」の一点張り。態度の悪さにむかついたので出て行く。他に安いところなく、空き地に テント泊。


  ●2003年6月22日

 サンシャンコウ先 ⇒ 阿恰勒(アハラ)先 (123.5km) 
 この日も風が強い。天気もよくなく朝晩は肌寒いほど。
 一間房、阿恰勒という村落で休憩、ラグメン。ラグメン以外のものも食べたいのだが、選択肢が ないのだ。阿恰勒の手前で鉄道と交差。アトシュ以来左手をふさいでいた山々が遠ざかり、展望が 変わる。


  ●2003年6月21日

 シカールコラ ⇒ 三シャンコウ先(134.1km) 
 くもりがちの今日一日、涼しい反面、風が強く距離がはかどらない。砂漠の逆風はさえぎるものが なくただ吹きまくるのだから大変だ。
 16時過ぎ、サンシャンコウという大きめの集落でラグメンを食べ休憩。町に着くとやはりほっと する。ここから先、風は比較的弱まってくれた。


  ●2003年6月20日

 カシュガル ⇒ 西克*庫勒(シカールコラ、*の字がどうしてもでない)(163.5km) 
 カシュガルから40キロ余り、アトシュという町までは集落あり。ところどころ緑もあった。そこ から東、視界はぐんと開け、左手に褐色の山、右手に荒野、タクラマカン砂漠北縁の道が始まった。
 カシュガルから70キロ、90キロ、103キロ地点でそれぞれ小集落、売店。そこから先は しばらく何もない。160キロを迎え、前方に湖らしき青い色が見える。気のせいかと思ったが 近づくにつれはっきり湖と分かり、わりと大きな集落がある。今夜はここに泊まる。辺境の田舎村落 だが、ガソリンスタンドや食堂が並び、街道休憩所という雰囲気である。


  ●2003年6月19日

 カシュガル (11.8km) 
 カシュガルの街。表通りは近代化されているが、ウイグル人地区に入ると、ケバブを焼いていたり、 スカーフ姿の女性が大半だったりとイスラム色が目立つ。町の看板や標識はたいてい漢字とアラビア 文字の併記であり、その取り合わせが面白い。西のイスラム文化圏と東の中華文化圏の接点である この地域ならではのことだろう。新疆最大のモスク、エイティガール寺院など、同じ宿の仲山さんと 回る。彼女はカシュガルでさえ漢族度が高まっていることを残念がり、より民族色の濃いことを求め、 南部のホータンへ向かっていった。
 インターネットをしたあと、シルクロード博物館へ。来る人は誰もいないのか鍵がかかっていてわざ わざ開けてもらった。大したことはなかった。明日からの砂漠越えに備えて食糧などを買い、夜は もちろんビールをあおる。


  ●2003年6月18日

 布倫口先 ⇒ カシュガル (163.9km) 
 高原地帯が終わり、谷間の下り坂に入る。工事区間がやたらに多く走りづらい。
 検問所脇の食堂で休憩、そしてさらにさらに下る。やがて景色は変わり、広がりのある林間地帯、 そして砂漠平原。再び緑が増えてきて集落が続き、カシュガルに至る。
 再び色満賓館のドミトリーへ。中国で英語を教えているというアメリカ人2人と、旅行者オランダ 人、そして昆明で留学、今は日本語教師を始めたという日本人女性に会う。外国人がけっこういるもの だ。


  ●2003年6月17日

 タシュクルガン ⇒ 布倫口の先 (144.4km) 
 さらばフンジュラブ。片道130キロを往復する気にはなれず、こちら側から中・パキ国境に行く のは止めにした。
 走り出してしばらくは高原の景色。通学途中の子供たちや、牧草を食む牛や羊の群れ。やがて集落 は途切れ、上り坂、4000メートルの峠になる。向こうから来た車から女性が飛び出して吐くのを 目撃。高山病だろう。
 そして下り坂。にわかに天候悪く、絶景で知られるカラクリ湖もイマイチ。夕方になり天気は回復。 行きのバスで氷河に見えた地形は実は砂丘の斜面であることを確認。湖越しに見えてきれいだった。


  ●2003年6月16日

 タシュクルガン(16.8km) 
 カラコルム・ハイウエイ中国側出入国事務所の町タシュクルガン。ここから峠の町までは130キロ ある。
 タシュクルガンは民族色の濃いごくごく小さな町。通り一本と、それに交差するもう一本の道くらい にしか商店街が続いていない。町外れの石頭城という遺跡に登ると、標高3600メートルの高原湿地 帯に広がる遊牧生活を一望できた。主要民族のタジク族の言葉はトルコ語に近く、漢字が通じなかった り、金髪の人を見かけもした。
 そんな超辺境の田舎町でも漢民族の食堂がある。昼に食べたキクラゲと豚肉の炒め物に感動する。


  ●2003年6月15日

 カシュガル 〜 タシュクルガン(2.8km) 
 北京時間10時、新疆時間8時と少し早め、タシュクルガン行きのバスに乗る。乗客は ウイグル・タジク人7割、漢族3割というくらいのかんじ。カシュガルの街を離れると農村風景は がぜん田舎っぽくなった。行き交う人々はたいてい民族帽やスカーフをかぶり、荷物や人を乗せた ロバ車が行き交っていた。
 食事休憩を入れて3時間ほどは順調。そこから長い待機。道路の舗装工事なのだが、片側車線ずつ やればいいものを、両側を一気にやっていて完全通行止め。なんと6時間もそこで待たされる。
 日は長いとはいえ、その日も暮れる。タシュクルガン着11時(以下新疆時間)。疲れた。


  ●2003年6月14日

 〜 カシュガル(9.9km) 
 長い長い列車旅、午後になってカシュガル着。駅から市街までの道もよく、表通りの人民路には ビルが立ち並ぶ。カシュガルも予想以上に近代化された都会だ。宿の同室は日本人と台湾人。 ウルムチよりずっと小規模だがやはり屋台が夜には並び、食べ、飲みまくる。


  ●2003年6月13日

 ウルムチ 〜 (1.1km) 
 ウルムチ駅北京時間15時14分発特快カシュガルイ行。「硬坐」という2等席にあたる席でも 191元(3000円弱)と高い。簡単な荷物検査とそして健康申告カードの記入提出というのがある。 後者はけっこう厳しいというかしつこくて、列車運行中も何度か白衣姿の係員がやって来た。途中で、 向かいに座っていた女性は高めの体温が出たためだろう、幾度も測らされていた。
 とにかく汚くてキツイと悪評のあった中国の列車だが、それは昔の話のようだ。日本の特急自由席 並みの普通のきれいさ。車内には熱湯の出る給湯所があり、皆カップ麺を作って啜っている。
 乗客で英語ができたのは(確認できた限り)タジク人だという彫りの深い顔立ちの男性一人のみ。 夜になって一人の若い男がしきりに話しかけてきたが完全に中国語のみ。筆談に頼るほかない。


  ●2003年6月12日

  〜 ウルムチ(18.9km) 
 新疆時間早朝2時ウルムチ空港に着く。検疫職員ら皆マスク姿でちょっと異様。
 6時すぎまで仮眠をとってから市街へ。宿は四人間で21元(365円)。同室にスイス人と西洋人 もう一人。旅行者はいるようだ。スイス人の彼はしかも自転車旅行だった。
 世界で最も海から遠い街といわれるウルムチ。聞きしに勝る高層ビルの林立あり。漢字の看板、 僕たちと似た顔、同じような街のつくり、漫然と歩いているとまるで日本の都会を歩いているような 錯覚すら覚えた。逆に、イスラム色、ウイグル色はほとんど感じられない。
 しかし、夜になると雰囲気は変わり通りに巨大な屋台街が出現した。ネパール以来実に4ヶ月ぶり 近いビールである。


  ●2003年6月11日

 ラワールピンディ 〜 (11.1km) 
 いよいよ中国へ飛ぶ。午後2時すぎにイスラマバード空港に入る。いかにも地方空港といった ショボイ空港が、見送りと思われる超巨大な数の群衆で埋め尽くされている。自転車梱包ののち待機。
 22時発の予定がやや遅れて23時近くになる。出国手続きはいつもにまして しつっこく、麻薬をもってないかさんざん疑われ、また乾電池すら奪われそうになった。
 新疆(シンジャン)航空の乗務員はみなマスク姿、期待のビールはなくてがっかり。


  ●2003年6月10日

 ラワールピンディ(0.0km) 
 金もなく、することもなく、暑さに耐える一日。フンザその他で会っていた日本人がけっこう ピンデイに来ていて、午後・夕方はバッタリ出会った彼らと喋ることで時間が過ぎる。昨日見たぼくの ホームページに、日本人がラホールで殺されたとのニュースを、ぼくの後輩が書き込んでくれていた。 その被害者がぼくらの会ったことのあるおじさんではないか、との話などについて喋る。2年間も旅行を していると、最近どこどこで何国人の旅行者が殺されたという話は何度も耳にする。とりわけ親しく なったわけではないが、多少なり会話も交わした知人が、というのは初めてである。経緯などは全く 分からない。ただ衝撃だ。


  ●2003年6月9日

  〜 ラワールピンディ(17.1km) 
 薄曇りで覚悟していたより灼熱ではなかったラワールピンディ。真っ先に、旅行会社へ行きウルムチ 行きの航空券をとる。明後日22時発。実はパキスタンのビザ有効期限が同じ明後日。まさにギリ ギリ。$300、高い。
 2週間ぶりのインターネット。所持金残り500ルピー。節約生活に入る。


  ●2003年6月8日

 カリマバード 〜 (0.0km) 
 合計21泊、3回もチェックイン・アウトを繰り返したハイダーインをついに去る。たぶん今回の 旅で、イスタンブールに次ぐ第2位の滞在日数だ。さらに居残りを続ける超長期組の面々に見送られ、 正午発のバスに乗る。
 にわかに強風が吹き荒れ、途中で稲光りや降雨に見舞われる。一月前に地獄の思いをした崖崩れ地帯 はガタガタの道にその面影を残している。落ちた橋のあとに新しいのが架けられたわけでなく迂回路が 造られていた。


  ●2003年6月7日

 カリマバード(0.0km) 
 すぐ出立のつもりが、もう一泊することになって、休養日。パンク修理とラワールピンディ直行バス の券を購入。


  ●2003年6月6日

 コックシル ⇒ カリマバード(165.1km) 
 3日かけた往路だったが、復路はたった1日で下る。6時40分に出て、上り坂なしの道、ススト着 は10時半。ここからギルギット行きのバスに乗る予定だったのだが、あいにく早朝便のみ、しかも フンザのアラバード行きもすでにないといわれた。何もないスストで一日つぶす気にはならない。 気合と喝を入れなおして、カリマバードまで走ってしまうことに。
 途中、パスーでカルさん、ナチさんらに会う。二人の友人が以前この付近で山歩き中に亡くなって いる。その墓参りに来たのだ。やっぱり戻ってきた、と笑われたのに対して、中国に入ってきたよと うそぶいた。
 パスーから先が困難の道のり。一応下りのはずなのだが上り坂も多く、しかもパンクに見舞われる。
 カリマバード着18時半。激しく疲労した。テンガイさんが地酒を仕入れてきており、いただく。


  ●2003年6月5日

 ディー ⇒ フンジョラブ峠・コックシル(59.0km) 
 雪山が近づいてくる。川沿いには残雪もある。風は冷たく陽射は暑い。道は着実にぐんぐん登って いく。午後1時最後の検問を過ぎると、カラコルムハイウエイはにわかにつづら折の峠道となる。 標高をたずねると14000フィートとの答え。メートルで正確にいくらかはよく分からないが、 4000メートル程度、空気は確実に薄い。脚に力が入らず呼吸は激しく荒くなる。ネパールで 4000メートルの山登りを経験したが、今挑んでいるフンジュラブはそれよりさらに700mの 高みにある。
 純白の山。氷河のような川。最後のきついつづらを越えると、景色は徐々に開け高原の様相を呈して くる。こんな世界にも橙色の毛皮をまとったイタチのような小動物がいる。キイキイ鳴きながら駆け 回っている。道沿いの雪、凍てついた小さな湖、そして国境線。
 パキスタン側の検問の小屋は無人。そこから数百メートルのところに国境の碑が建つ。こちら側を 向いてアルファベットとアラビア文字で「パキスタン」、向こう側の面に漢字で「中国」。さらに 百メートル足らず下がったところで門が閉じられている。鉄条網で覆われた国境の柵は左右に延び、 丘の上を延々と見えなくなるところまで続いている。通れないようになっていた。
 しかし、僕はゲートの下の隙間30cmをくぐった。中国「入国」だ。3.7キロ離れた中国側 検問所を訪れてみる。こちらはパキスタンと比べはるかに立派な建物で十人以上の軍人が詰めていた。 みな漢民族顔である。思った以上に好意的な彼らに最後の望みを託して、入国許可を願い出てみる。 百キロ以上離れたタシュクルガンの出入国事務所に電話で問い合わせてくれた末の回答は、国境閉鎖中 という事実そのままのみ。でも、代わりにというわけでもないだろうが、ラグメンとマントウを 夕食代わりにごちそうしてくれた。中国2時間滞在の土産となった。
 フンジュラブ峠上でテント泊のつもりだったが、夜パキスタン側の車がやってきて、17キロ下った コックシル検問所まで引き戻された。


  ●2003年6月4日

 パスー ⇒ ディー (76.9km) 
 天気は回復。6時半出発。スストには10時半着。少し早めの昼食をとる。ここから峠まで 82キロ、食糧の確保はこの後難しくなるので、ここで調達。
 検問のゲートをくぐると、谷は深くなりいっそう殺風景さを増す。意外と通行車輌は多く、 カリマバードで会った日本人3人がチャーターしたハイエースで峠から下ってくるところに出会った。  
 ときおり川は急流となり応じて坂も急。やがて検問所ディーに到着。フンジュラブ国立公園の 管理事務所があり、入域料4ドルを徴収される。
 3時半と時間はまだ早いが、ここで泊を決める。太陽が出ている間は暖かく日が落ちると急に寒く まる。自炊で米を炊いていたら、事務所の人々がチャイやチャパティをご馳走してくれた。


  ●2003年6月3日

 カリマバード ⇒ パスー (54.7km)
 中パ国境フンジョラブ峠を目指しての走行。まずは出入国事務所のあるスストまで。
 途中の村パスーで、トレッキングに出かけたテンガイさん、サトウさんに出あう。僕とほぼ同時刻 にカリマバードを出たのだが車がスタックしたせいでパスー着がさほど変わらぬ時間となってしまった のだ。
 昼食を共にとったりしているうちに午後3時になってしまった。スストへの予定を変更、パスー泊 にする。2人と一緒に道路沿いからも見えるパスー氷河までトレッキング。これまたガレ場、砂地の 登り坂が手強かった。
 夜、雨が降る。明日の天気が心配。


  ●2003年6月2日

 カリマバード
 気分が憂鬱のまま一日が過ぎる。中国ビザは7月半ばまで有効だが、不確実のまま生殺し状態で 待っているのは嫌だ。とにかく国境の峠まで行ってできるだけの努力をしてみよう。それでダメなら、 あとは空路をとるのみ、と決心。


  ●2003年6月1日

 カリマバード
 国境開かず。いったんは6月1日に開くと決まったが、それがくつがえったのだとの噂。しかし、 真相は定かでない。6月中には開かず、7月1日になるのだ、という話が以前からあったが、 それもまた定かでない。
 昼間、サトウさん、カズコちゃんとフンザ川まで下る。宿から見える川だが小1時間かかる。 身体を動かすと気が紛れるが、夕方になって結局国境開通せずとの情報に落胆。