ふねしゅーの地球紀行
    2003年5月
               



●2003年5月25〜31日

 カリマバード
 「中国国境開通待ち」という退屈な日々。6月1日に開くという情報が有力で、これに期待を かける。ギルギットにいたときと同様に、野菜が入ってきて夕食のおかずは充実を取り戻す。この前 はジャガイモばかりだったが。
 下の道が開通しても、ハイダーインの宿泊客はさほど増えず。4月からいる長期組、カルさん・ ナチさんのカップルとユカリさんは相変わらず、トレッキングにも出かけず、ずっといる。その3人 みな30代。他の宿泊客もみな年齢が高く、ぼくが若い方になるくらいだ。大人の宿だと苦笑いする。


  ●2003年5月24日

 ギルギット ⇒ カリマバード (111.8km)
 久しぶりに自転車にまともに乗る。フンザまで上り坂だが荷物が少ないのでそれほど辛くない。 それでも朝8時に出発して夕方6時過ぎ着。7時からの夕食にぎりぎり間に合った。


  ●2003年5月21〜23日

 ギルギット (18.1km)
 すぐにフンザに戻っても暇をもてあますだけである。蔵書が多くネットもできるギルギットに 数日滞留することにする。国境が開くのを待てずにウルムチから飛んできたという二人に出会う。 イスラマバード−ウルムチ線は週2便運航を続けているらしい。


  ●2003年5月20日

 ギルギット 
 崖崩れ区間はついに全開し、直行バスも運行を再開したとのこと。物資を運ぶトラックも入って きたようで、八百屋が色彩りを取り戻していた。マンゴーやサクランボが美味しい。昼間は陽射が 暑くビールが欲しくなるが、さすがにそれは入荷されない。夕方、自転車へ。
 夜9時、ゴッチンを見送る。ラワールピンディ行きの大型バスが本当に来ている。いったいあの 区間がどのように修復されたのだろうか。


  ●2003年5月19日

 カリマバード 〜 ギルギット 
 ラワールピンディ方面に下るゴッチンの見送りと、置きっ放しの自転車を取りに戻るためギルギット へ。10日前にガラガラだったニューツーリストコテージは混んでいた。マンガ読んでボーッと 過ごす。
 夕方バザールへ。前回の滞在のときは体が動かず何もしなかったので、バザールに来るのは初めて。 屋台で出ているモモ(蒸し餃子)が美味しく嬉しい。


  ●2003年5月18日

 カリマバード 
 何もせず。宿の1階と2階の往復。午後に買い物。夕飯。


  ●2003年5月17日

 カリマバード 
 7時過ぎ、ほぼ完璧の青空。裏手の峡谷を登ったところにあるウルタル氷河までのトレッキングに 行くことにする。落ちた体力が少し心配だがリハビリになるだろう。
 カリマバードの村の一番高いところにある砦バルティットフォートを越えると景色はガラリと 変わった。家並みが途絶え深い谷が真近に現れる。発破作業をしているからと言われてとった 回り道は、崖の中腹、水路に沿った極めて細く頼りない道。もし足が滑ったら即死確実でとても怖い。
   そこを抜けたあとも渓流沿いに岩場登りが続き、お手軽ハイキングのレベルを遥かに超えている。 しかし、途中で作業をしているオジサンたちにチャイをもらい、さらに登って行くと景色が良くなって きた。稜線を越えると、その向こうに氷河が現れた。いささか黒ずんだ氷河だが悪くない。小屋で 休憩ののち下山。


  ●2003年5月16日

 カリマバード 
 天気良く景色も良い。宿の2階が広いテラスになっていて、緑の斜面、フンザ川、対岸の村、その 向こうにそびえる7000メートル級の雪山と「風の谷」の全景が一望である。フンザの居心地の 良さが少し分かってきた。
 チラースからギルギットの崖崩れ地帯を3日前に越えてきた人いわく、4時間徒歩の行程だったと。 回復までひと月はかかると思っていた。意外に速かった。


  ●2003年5月15日

 グルミット 〜 カリマバード 
 宿からほど近いところ、谷を下るとフンザ川の対岸に渡る歩行者専用の吊り橋がある。ワイヤー で吊られた枕木が敷かれているのだが、板と板の間隔がときに1メートルもあって、その間は空っぽ。 相当怖い。ぼくらはワイヤーにつかまりながら一歩一歩進むのだが、地元の人はどこにもつかまらず 荷物を抱えてスタスタ歩いていくからすごい。昼頃カリマバードに戻る。みんな心配してくれたらしく 怒られた。


  ●2003年5月14日

 カリマバード 〜 グルミット 
 今日は朝から天気が良い。一時間ほどバスに揺られ、上流の村グルミットにゴッチンと出かける。 カリマバードよりもいっそうのどかなド田舎。丘陵地に畑が連なり学校帰りの子供達が歩いて いる。
 夕方5時、帰ろうとするがバスがない。周りの人はただ tomorrow morning だというのみ。車を 借り切ると500ルピー、宿は格安で40ルピー。後者を選択。


  ●2003年5月11〜13日

 カリマバード 
 晴れたり曇ったりのフンザ。フンザというのは周辺を含めた地域名である。滞在している村落の名 はカリマバード。フンザ川に沿った渓谷にあり、カリマバードは川から数百メートル登った丘の斜面 に位置している。「風の谷のナウシカ」の風の谷のモデルになったといわれる桃源郷だが、いまの ところぼくにとってはただ寒いだけ。眺望も雲が多くて今イチの日が続く。


  ●2003年5月10日

 ギルギット ⇒ カリマバード 0.0km
 ギルギットからフンザ、カリマバードまでの距離は約100キロ。当然自転車で行くつもりだった が、パンクと体調不良もあってバスで上がることにした。人数が集まるまで2時間以上待たされ、 カリマバード午後1時着。
 幾多の山々に囲まれた眺望の良さで人気のフンザ。しかしあいにくの曇で極めて寒い。標高は 2500mだそうだ。崖崩れ越えで体力を消耗・低下しているところ、風邪をひかないように着込む。
 アフガンに一緒に行ったゴッチンのほか、ラホールであったオーストラリア人と日本人の夫婦らに 再会。宿のハイダーインは僕を含め9名の宿泊となった。しかし、SARS のため中国国境は閉ざした まま。崖崩れのため平野部への道も閉鎖。例年よりぐっと旅行者は少なく、かつ野菜や油など物資も 不足してきているらしい。


  ●2003年5月9日

 ギルギット 0.0km
 10時間寝てもまだ眠く、身体が重く全然動かない。
 この先フンザ地方は「風の谷のナウシカ」の風の谷のモデルになったといわれる場所だ。ここの 宿には、そのナウシカが全冊そろっている。ベッドに寝転がってそれを読んで時間を過ごす。


  ●2003年5月8日

 タリーチ → ギルギット 68.0km
 いよいよギルギットまで最後の一踏ん張り。今日は、短い崖崩れをひと越えし、そしてついに終了。 ハイエースやスズキが数台待っていた。そこから先ギルギットまでは全線自転車に乗れるのだ。
 体力を完全に消耗した。しかも下痢と体調も悪い。しかし、自転車に乗って走れるということの快適 さで、体調の悪さをしばし忘れる快適さを味わった。
 夕方5時、北パキスタンの中心都市ギルギットへ。日本人宿ニューツーリストコテージはしかし、 ガラガラ。
 下の道が崖崩れで塞がった上に、上の道も、例年なら既に開いている筈の中国国境が新型肺炎の 影響でともくまだ閉鎖との噂。イスラマバードへの空路はあるものの、旅行者はひどく少ないようで、 ぼくの他には一人しか泊まっていなかった。


  ●2003年5月7日

 タッタパーニー → タリーチ 13.6km
 地獄の二丁目。のっけから断続的14キロの崖崩れ地帯を時速1キロの超低速で進む。
 およそ60度の傾斜で砂丘崩れになっているところが最凶最悪の難所。少しでも足を踏み外したら、 そこは蟻地獄のような砂の傾斜、あっという間に滑落して、はるか奈落のインダス川にポチャン である。荷物五分割で越えたそのあとも恐怖の念が去らない。ちょうど後続のパキスタン人3人組が 渡り始めたそのとき、にわかに風が強まり、数十メートル上方の崖の上から岩が飛び始めた。落石だ。 細かい砂や小石に混じって、人間の頭ぐらいの岩もボンボン飛んでくる。自分自身や荷物の心配もさる ことながら、後ろからのパキ人たちは、死んだとすら思った。
 そのあとも難所は続くが、大集団と一緒になり昼飯自炊に混ぜてもらったりしつつ、ようやく夕方、 14キロ地帯を脱出。わずかの区間だが自転車に乗れる舗装路に出て、夕方タリーチの村へ。


  ●2003年5月6日

 チラース → タッタパーニー 41.1km
 地獄の一丁目。橋が落ちている。その一箇所だけ気合を入れて越えればよい、そう考えていたが、 それは超甘だった。人生で最大苦の行軍の一日となった。
 崖崩落箇所はザックと自転車とを別々に運んで越える。しかし、その直後から果てしなく長い 崖崩れ地帯が始まった。そして、周りのパキスタン人ほぼ全員から、この先の道は「終わっている」、 無理だから戻れ、と言われる。
 石ころだらけの平坦箇所は自転車を押せるからいい。問題は岩石地帯。腕を軋ませる押しと担ぎの 連続。いつまでたってもまともな舗装路に出ない。
 やがて、親切な優しいおじさんが(彼は手ぶらだったが)代わりに自転車を運んでくれ楽になる。 ラホールであった日本人のカップルに再会し、彼らと共に歩いていたパキスタン人若者グループと 一緒になって歩く。
 「きつい行軍でも、半日歩けば終わる」という当初の情報は誤りで、やがて日が暮れてくる。 夕方6時半、もはや野宿しかないかという頃、道路建設基地の小屋に辿り着く。
 しかし、パキ人の若者たちは3キロ先にホテルがあると言って、急速に暗くなる中をさらに進んで いった。僕ら日本人3人は頼み込んで、泊。ここの統括者、通称キャプテンは英語もうまく、かつ、 とても親切だった。ご飯(!)を含め、とてもお世話になった。


  ●2003年5月5日

 サズィーン手前 → チラース 87.0km
 再びパンクに悩まされた午前中」、道は比較的ましなアップダウンになる。緑が少なくなり、集落の 現れる頻度も減り、景色は荒涼としてくる。
 ラホールで会った日本人のライダー「もうこんなところまで来ていたんですね」といいながら 抜いていったが、夕方近くなり向こうから引き返してくる。驚いて尋ねると「チラースの先で橋が 落ちていた」との返事。どうもここしばらく雨が続き、水量が増して、橋が流されてしまったらしい。 復旧には一週間かかるという情報で、彼はさすがに諦めて下ることにしたという。しかし、人は荷物 担いで渡っているという話だ。それなら、チャリも担いで、必要ならバラして、進めるだろう。


  ●2003年5月4日

 ドベール → サズィーン手前 103.6km
 いよいよカラコルム・ハイウエイ本番。川沿い断崖絶壁の上り下りが今日も続く。ところどころで 崖からの水が滝となって道に流れ落ち、道が川になっている箇所もある。急流過ぎるので、降りて 自転車を押さざるをえないところもあった。


  ●2003年5月3日

 シンキアリ先 → ドベール 110.5km
 今日の走行は三重苦。朝からきついのぼりの峠が昨日の延長で延々と続く。いったん終わって 高原地帯になり、少し走ってもう一つ峠。
 次に、天候。朝から曇っていたが、峠を上り終わったその下りから雨が降り始める。上下合羽に 手袋まで要る寒さ。雨は降ったり止んだり。午後になって風が強い。
 そして、現地のクソガキども。インダス川流域ターコットに出てからのガキどもが最低で、 とにかく石を投げてくる。世界のいろんなところを回ってここまでひどい所は他になかった。 機会が許されれば奴ら皆殺しだ。
 ターコットからは再び道もきつくなる。川沿いなのに川ははるか数百メートル下方。道は崖に しがみつくように続きながら、えげつないアップダウンを繰り返しつつ進んでいく。


  ●2003年5月2日

 ハリプール手前 → シンキアリ先 108.1km
 GTロード(ペシャワール、ラホールさらにはデリーを結ぶ幹線)からカラコルム・ハイウエイ方面 へ入ってから、道の上り下りが多くなった。
 アボッタバードというわりと大きな町まで一気に上がり、そこからしばらくなだらかに 「もったいない」下り、そしてシンキアリの町をすぎてから、ぐーーっと延々と長い長い上り坂に 入る。
 本日、積算距離3万キロ突破。


  ●2003年5月1日

 グジャールカーン → ハリプール手前 124.6km
 午前中、パンクに悩まされる。側面の破れてきたタイヤに原因があり、ラワールピンディにて タイヤ交換。
 ピンディ市街はそのまま通過。タキシラもすぎてもうしばらく進むと、いよいよ「GILGIT 540」 の表示が現れる。カラコルムハイウエイ、中国へと続く道への分岐である。