ふねしゅーの地球紀行
    2003年1月
               



●2003年1月31日

カトマンドゥ (0km)
 バイクの故障で、カトマンドゥに戻ってくるのが昼になる。修理に出していた自転車を受け取る。 ギアの噛み合せ良く、ひとまずぐっと快調。
 夜、天気が荒れ、そして停電。インドではしょっちゅだったが、カトマンドゥでは初の停電だ。
 

  ●2003年1月30日

カトマンドゥ ・ガイリガウン(0km)
 朝イチ、大きなニュース。新聞に、政府と毛沢東主義者(マオイスト)が停戦合意したとあり、 宿のネパール人たちは一様に皆喜んでいる。旅行者にとっても喜ばしいニュースである。
 音鳴り、ガタツキ、ギアとび、その他ボロボロの自転車を修理に出す。インドやパキスタンで 変速付きの自転車を見かけることは稀有だったが、カトマンドゥには自転車部品も揃っている。 後輪ギア、チェーン、変速機を日本製シマノの新品に換え、その他全体的な調整、工賃こみで 7500ルピー(約12000円)とんだ。少しボラれたかも。
   午後、昨日の村にもう一度行く。が、結婚式の宴はあらかた終わってしまっていて、新郎新婦とも 出かけてしまったあと、とのこと。結局、ただ村に泊まりに行っただけということになったが、 それはそれで楽しい。ディディの家、その友人の家それぞれに招かれてご馳走になった。


  ●2003年1月29日

カトマンドゥ (0km)
雨が降ったり止んだりで天気が良くない。4ヶ月滞在しているネパールごが話せるエリちゃんに 誘われ、ゲストハウスの清掃員をしているディディ(お母さん、おばさんという意味)の知人の 結婚式を見に出かける。夕方には終わるという話だったが、村に着いて見ると花嫁7はまだ来ていない 。本番は夜だという話。雨の中天幕の張られた狭い空間でタイコのリズムで皆踊っている。サングラス をかけジャンパーを着た”男”が会場の女性たちをさかんにつかまえては踊らせていたが、この男 実は女性の男装で、そうするのが縁起がいいそうだ。
明日もあるから、また来い、今度は泊まれといわれ夕方カトマンドゥに戻る。再会続きだが、今日は バラナシで一緒だったゴッチンと再会。毎晩贅沢をしている夕食だが、今夜は韓国料理を食べに行く 。辛い。


  ●2003年1月28日

カトマンドゥ (13.9km)
 朝から小雨混じりの冴えない天気。パキスタンビザの受領。郵便局で小荷物の発送。夕方街角で ばったりケンジさん、フミエさんと再会。二人はバイクで旅行しているライダーで昨年7月の イスタンブール以来の再会である。再会記念にエベレストステーキハウスという評判の高い店へ行く 。250ルピーと高かったが、肉がぶ厚かった


  ●2003年1月27日

カトマンドゥ (23.0km)
 午前中パキスタンビザの申請へ。ここで、ブッダガヤで会った渡辺くんと再会する。午後、 チベット仏教の聖地ボダナートを訪れた後、ヒンドゥ寺院のパシュパティナートへ。
   1年8ヶ月も旅を続けていると、何を見ても何をしても、強く感動したり衝撃を受けることが なくなってくる。どこかで似たような経験を既にしてしまっているからだろう。パシュパティナート はその点で破壊力のある衝撃を与えてくれた。
 火葬場。亡くなった人の遺体を焼く火葬場。薪を組んだ焚き火の壇上に、遺体が寝かされている。 一応ワラがかぶされているが、炎の中から手足が突き出し、焦げている。真っ黒に焼けた人間の腕が、 妙な方向に曲がって天に突き上げられている。号泣の声が混じる。
 高熱の窯で一瞬にして骨にする日本の火葬とは似て非なる儀式だ。ときおり係りの人が棒で 無造作に遺体を突っつく。異国人、異教徒にこんなものを公開していいのだろうか。昨日、近郊で バス事故があり、今日は特に「焼く数」が多いらしかった。
 もうひとつ、昨日、ネパールの警視総監に相当するような警察の長が何者かに暗殺された。 その葬儀が川のやや上流で盛大に行われていた。


  ●2003年1月26日

カトマンドゥ (0.0km)
 日の昇るのが遅く、午前中10時ごろまで寒い。
 写真の整理、発送荷物のまとめ、宿の屋上でのおしゃべりなどで日が暮れた。


  ●2003年1月25日

カトマンドゥ (0.0km)
 ラホール以来、たまりにたまったフィルム9巻を現像に出し、それから観光に出かける。 市内西部に建つスワヤンブナート。文殊菩薩が建てたという伝説をもつ仏塔(ストゥーバ)で四面には 四方を見渡すというブッダの智慧の目が描かれている。丘の上からの眺めも良い。
 午後は写真を受けとったり、頭を剃ったが失敗して出血したり、インターネットをしたりして 過ごす。夕食はスワヤンブナートで会った日本人の女の子とイタリアンレストラン。上流階級ばかりの 店内、貧乏旅行が長く見に染み付いてしまったのか不慣れで落ち着かない。


  ●2003年1月24日

ナウピセ → カトマンドゥ (28.2km)
 峠を越え、カトマンドゥ盆地へ。雲がかかっているのか、空気が汚れているのか、ヒマラヤは 見えない。表通りは道も広く、歩道すらあり、小奇麗な店舗がならび、そして信号機まである。 一転して、ガタガタの狭い小路地を抜けると、不意に五重の塔みたいな木造の寺院群が現れる。 カトマンドゥの旧王宮と多くの寺院に囲まれたダルバール広場だ。外国人は入場料200ルピー (320円)のはずだが、気が付くと既に広場の中央に入り込んでいた。大量の鳩が憩い、 人々が行き交い、木のぬくもりの作り出す情趣がある。
 宿をとり、洗濯をして、安宿・旅行者街のタメル界隈を歩く。古本屋には日本語の書籍も多く、 地球の歩き方「西安シルクロード」編を購入。まだ少し早いが、ついに中国編を手にする時が来た。
 夜は日本食。カトマンドゥはとくに長期旅行者にとっては手頃な価格でまとまな日本食が食べられる 地として特に有名だ。ナスみそ炒めと味噌汁に泣く。


  ●2003年1月23日

ラミタンダ → ナウピセ (82.4km)
 太陽は偉大だなあとしみじみ思った朝。標高1400mのラミタンダの朝は、平地部の モティハリやビールガンジの朝よりもずっと暖かいのだ。
 そして今日も急坂が続く。山の斜面を埋め尽くすように畑があり、へばりつくように家があり、 やはり子供がとても多い。学校も賑やかだ。さらに登っていくと、日陰にちらほらと雪が見え始める。 こんな場所で生まれ育ったらおのずと世界観にも影響があるだろう。
 標高2400mの峠。青い山並みの彼方に、天を指す白嶺が見えた。ヒマラヤだ。左前方に アンナプルナ、右前方にサガルマータ(エベレスト)、だいたい方向的にこっちだろうと推測は できるが、どれが世界最高峰の頂きなのか、確信がもてない
 下りの道。路肩が氷結していて転倒する。痛たたた。


  ●2003年1月22日

ビールガンジ → ラミダンダ(86.7km)
 ネパールに入国したとはいえ、ビールガンジあたりはインドとほとんど同じ。平らな平野で、 インド製トラックやサイクルリキシャが往来し、看板の文字もデンヴァナガリ(ヒンドゥー文字)。 道行く人々も東洋系の顔が増えてはきたが、彫りの深いインド系の顔の方がまだ多い。
 ゆるく長い森林地帯の上り坂になり、谷あいの町ヘタウダに着く。雰囲気が変わってくる。眼前に どどんと山脈がそびえ、日本人に似たネパール人率が高まってきた。
 幹線は大きく西に迂回するが、直進の山越えを選ぶ。本格的な山道はとても久しぶり。はじめは 川沿いの、奥多摩のような景色。やがて、川も視界から消え、段々畑と点在する集落の間を縫って、 道はひたすらひたすらひたすら上っていく。
 そんな山奥の村にも宿があり(50ルピー80円ほど)夜の星空はこれもひさしぶりに ものすごかった。
 

  ●2003年1月21日

モティハリ  → ビールガンジ(59.6km)
 いよいよネパールへ。なんだかんだでモティハリを出たのが11時過ぎ。国境を越えると、 15分の時差を加えて17時になった。さらに次の町までこの日のうちに行ってしまおうと 思っていたのだが、ネパール側国境の町ビールガンジにて泊まることにする。
 

  ●2003年1月20日

モティハリ (12.8km)
 長い長い長い長い夜が明け、適当な時間を見計らい7時ごろにナジルの家に帰る。朝帰りの弁解も そこそこに寝させてもらう。10時ごろ朝食を頂き、ナジルは試験のため学校へ。僕はまた布団の 中へ。
 4時、帰ってきたナジルと友人とに自転車で町を案内してもらう。彼の大学はもともと、イギリス 植民政府の役所だったらしく、刑務所や処刑所を併設。マハトマ・ガンジーも留置されていたことが あるという由緒深い場所らしかった。
 ラージギルであった韓国人夫婦に日本の昆布のつまみとふりかけをもらっていたのだけど、 ナジルたちに食べてもらった。前者は思いっきり不評で、後者はそこそこ好評だった。
 

  ●2003年1月19日

モティハリ・クシーナガル (0.0km)
 仏教四大聖地のひとつ、釈迦入滅の地クシーナガル。片道100キロの大冒険になった。 行きはヨイヨイ。隙間風が寒いくらいの直行バスで12時過ぎに着く。クシーナガルはのどかで 何もない田舎の村。台湾、ミャンマー、タイなどの各国寺院が田んぼの中に点在し、中心に 涅槃堂が古びた遺跡の中でたたずんでいる。80歳のブッダがこの地で二本のサーラ樹、つまり 沙羅双樹の間に横たわり、ついに動かなかったという場所。まわりには緑の木々が幾本も立っていて、 どれが沙羅樹なのかよくわからなかった。
 ブッダが火葬にふされたという塚の跡を見てから帰路につくが、帰りはコワイ。直行バスがなく 乗り換えバスに乗ったのはまだよかったのだが、モティハリまで30キロくらいのところ、道路が 封鎖されてバスが動かなくなってしまったのだ。一人、英語を話す男がいて、「マーダー」で 「シューティング」だと教えてくれた。銃の乱射事件でもあったらしいが詳細はまったくわからない。 出発は明日朝になると言われたのだが、夜の一時をまわってから動き出しモティハリのチャイ屋しか ないバス亭に着いたのは午前2時。絶望的に寒い。
 

  ●2003年1月18日

 ヴァイシャーリー → モティハリ (105.8km)
 超もやのかかったヴァイシャーリーの寒い朝。池を挟んだ向かい側、ほんの百メートルほど先の 妙法寺のストゥーバが見えない。そんな視界のきかない道、昨日おととい以上の田舎の小道、ヤギが 歩きワラが干してあったりする道、時折レンガ敷きになったり未舗装になったりする、ほとんど 畦道とでもいえそうな道を行く。圧倒的に貧しい田舎の風景だけれど、都市部でのように乞食の群や ゴミの山が目につくことはない。平和だ。
 国境まで50Km の町モティハリ。宿とバスターミナルの場所を尋ねる過程で、ナジルという男の 学生に会い、彼の家に泊めてもらうことになった。明日この町を拠点にしてバスでクシーナガルの往復 を予定していたから、これは幸運だった。ナジルの家はムスリムの家族だったが、壁にメッカの写真が 飾られている以外、食事はカレーだしお母さんの格好も髪を出したインド風の服装で、生活様式も ヒンドゥーと何も変わらないようにみえた。彼の友人だと言う男たちはヒンドゥーで、「僕は イスラム教は嫌いだな、ん?あっごめん、君はムスリムだったっけ。」と冗談をいって笑っていた。
 

  ●2003年1月17日

 パトナー → ヴァイシャーリー (76.9km)
 パトナーの町をでてガンガーを渡る。バラナシの時よりもさらに川幅の広くなったガンガーだ。
 主街道を外れて、またド田舎道。ブッダの時代の16王国の1つリッチャヴィ族の都として栄え、 ブッダも何度も訪れたというヴァイシャーリー。今はチャイやビスケットを売る売店ぐらいしかない 閑村だ。没後8つに分けられたというブッダの遺骨の1つが納められたストゥーバ跡やアショカ王の 建てた石柱が残り、八大聖地のひとつに数えられている。ここにも日本山妙法寺があり、やはり 残念なことに住職は不在(きいたところ、ハンビニで何かの落成式のようなものがあり、そこに 集まっているらしい)だった。賑やかな町のラージギルならまだともかく(そこでも充分田舎だが)、 田畑と池しかないこんな何もない世界にくるお坊さんは大変だなあと、ふと思った。インド人観光客は 若干名みかけたが、外国人には一人も会わなかった。
 

  ●2003年1月16日

 ラージギル → パトナー (107.9km)
 朝もやが今日はとりわけひどく、12時過ぎまで太陽が見えない。ビハールの超田舎道。 道に迷っているのではないかと不安におびえつつ進む。やっと街道にでて州都パトナーへ。
   パトナーは前3世紀インド中に仏教を広めたアショカ王の都。マウルヤ朝の首都パータリプトラ である。中心部から少し離れたところに遺跡が残っている。入口まで行って、柵越しにながめた。 どうみてもしょぼく、外国人特別料金を払う価値がなさそうだった。想像だけを膨らませることに して、宿探しに向かった。
 

  ●2003年1月15日

 ラージギル・ナーランダ (45,2km)
 ナーランダは5〜12世紀にかけて当時世界最大規模を誇った仏教大学の遺跡、タージギルから 十数キロ離れたところにある。チベット人観光客に素知らぬ顔でまぎれこみ、入場する。朝もやの 立ち込める広々とした敷地にレンガの寺院や僧院跡が残っている。
   一万人規模の学僧が学んでいたと言われるナーランダ大学だが最も有名な卒業生?は西遊記の 三蔵法師だろう。長安を出発し、西域天山山脈を越え、ガンダーラを訪ね,シャカゆかりのこの地 にやってきた法師はナーランダで5年間学んだという。僕がこれから進む北パキスタンから中国 を目指す道程は彼の歩いた道をなぞる旅にもなる。
   午後ラージギルに戻る。ブッダの時代マガダ国の都ラージグリハ(王舎城)として栄えたこの地 にはブッダが多くの説法をしたという霊鷲山や世界最古の寺院といわれる竹林精舎がある。霊鷲山 の頂きには青、白、黄、橙、赤の5色の旗が風になびく説法台があり、大勢のチベット人が祈りを 捧げ、(行ったことはないがチベットの雰囲気)。一方隣山の多宝山には日本山妙法寺の真っ白な 仏塔(ストゥーパ)が建てられている。妙法寺の宗派は日蓮系で、院内には漢字とヒンディー文字 でナンミョウホウレンゲッキョウと大書きされていた。
 

  ●2003年1月14日

 ブッダガヤ→ラージギル (83.7km)
 早朝6時、日本寺で最後の座禅を組む。黙々淡々とただ時の流れていく中で色々思考が巡るのは 単調な道を自転車こいでいるのに似ているなと最初は思ったが、次第に違うと気付く。ひたすら自分 を見つめ、自分に集中し、余計なことを考えない、と言うがたかだか10日間ほどだけでできるもので はないな、とだけ分かった。
   昨日日本人に地球の歩き方ネパール編をもらい、がぜんネパールへ向かう気力が高まってきた。 ブッダガヤからカトマンドゥに北上する道はいくつかの主要な仏跡を巡る道でもある。八大聖地の 1つラージギル。日本山妙法寺の寺があり、泊まるつもりだったがあいにく住職不在で泊まれず、宿へ 。夕方少し時間があったので温泉へ行く。インド人とチベット人で賑わっており、湯加減もなかなか 。イラン以来実に5ヶ月振りの風呂である。
 

  ●2003年1月13日

 ブッダガヤ (0.0km)
 カルチャクラ2日目。状況は昨日と変わらず。途中で抜け出して日本寺の図書館で読書する。 本を読んでいるほうがずっと勉強になる。一般書も多く、のんびり長居もできるところなのだが、 滞在費も高いので明日出立することにする。正直なところ、カルチャクラなどという行事のない、 普段のブッダガヤを訪れてみたかった気がしている。
 

  ●2003年1月12日

 ブッダガヤ (0.0km)
 いよいよカルチャクラが本格的に始まった。漢字では「時輪」と書く。が、結局何なのかは ぼくにとっては分からずじまいだ。今日はとりあえず、その説明会第一部みたいな感じで終わった。 空き地に特設された特別大会場は、中央に舞台があり、周囲にずらりと席(といっても、各自が敷物を 用意して地べたに座る)が作られ、外国人用の場所は向かって左端と決められている。午前中は礼拝の 時間でダライラマは姿を見せず。いよいよ午後から「説明」が始まる。
   FMラジオで日本語の同時通訳が聴けるという噂だったが、残念ながらこれはなく、英語と 中国語(だったと思う)のみ。比較的聴き取りやすい英語ではあったが、仏教用語や宗教用語などが ぼくには分かるわけもなく、疲労感だけが残った。


  ●2003年1月11日

 ブッダガヤ (0.0km)
 ブッダガヤの通りを往来する人間の数がひましに増えてくる。あずき色のけさをまとったチベット人 だけではない。乞食たちも近郊からこの機を逃すなとばかり集まってくるらしく、マハーボーディ寺院 の前の道など、チベット人の露店と子供連れ乞食の大行列で一日中渋滞している有様である。
   なんとなく想い描いていた「聖地」のイメージとは違うどうしようもない現実の図だ。


  ●2003年1月10日

 ブッダガヤ (0.0km)
 ブッダガヤの隣村スジャータ村には、日本人の建てた学校がある。伴野くんがそこの日本人の 先生と会う約束をしたというのにのこのことついて行く。
   本田さんというそのおじさん、実は先生ではなく、数ヶ月に一ぺんほど3年前からたびたび ブッダガヤを訪れ、学校の生徒たちともすっかり馴染みになっているのだという。学校に行くと、 子供達からさかんに寄付をせがまれるが、お金をあげてはダメ、もしあげるなら鉛筆やノートなど 具体的なものを直接渡すべきだと言われる。伴野くんはうなづいていたが、申し訳ないがぼくには 何もあげるつもりはない。
 宿(家)に戻ってNHKをまた見て、午後は日本寺の図書館、そして座禅がほぼ日課と なっている。


  ●2003年1月9日

 ブッダガヤ (0.0km)
 民泊先のテレビはなんとNHKの国際放送が入る。時差を見計らってチャンネルを回して もらうと、思ったとおり12時のニュースを見ることができた。
   夕方いつものとおり日本寺で座禅を組んだあと、伴野くん、ダイスケくんという日本人と一緒に、 伴野くんの民宿先でありやはり日本語を話すアショカさんの家で鶏パーティをすることになった。 座禅前に鶏を買いに行ったのだが、ついさっきまで籠の中で生きていた奴を刃物に当ててグサッと やる。不殺生戒を犯してしまった。
 アショカさんの家はぼくの民宿先よりさらにぐっと素朴。れんが組み、土壁造り。ゴザを敷いて、 激辛チキンカレーを手で食べる。牛糞を干したものが燃料で、これに火をつけて暖をとる。  牛糞と地酒とで暖をとり、アショカさんが「呑んで呑まれて」を歌いだしたのをきっかけに、 合唱大会とあいなった。


  ●2003年1月8日

 ブッダガヤ (1.9km)
 宿の料金がさらにはね上がり、追い出される。いっそブッダガヤを出てしまおうかとも 思っていたが、3食付き200ルピーの民宿が見つかり、もう何日か滞在することにする。民泊先は マハーボーディ寺院の裏手の村。オヤジさんは日本語を話し、子供が7人もいるとのこと。 インドはどこへいっても子供の数が多い。べらぼうに多い。人口の増加に経済が押しつぶされ、 だから悲惨なほど貧しくなるのだと、僕らは思う。このブッダガヤ、カルチャクラの祭礼に集まって くるのは何もチベット人や「先進国」の観光客たちだけではない。4日前より明らかに多い、夥しい 数の乞食たちが、寺院の前の道を埋め尽くし、無造作に手を突き出している。
 どうやら昨日、ダライラマが到着したらしい。午後、中国寺を参拝したとき、人だかりの中に ダライラマの出てくるところをチラッと拝見した。


  ●2003年1月7日

 ブッダガヤ (0.0km)
 郵便局、ネットカフェ、そして日本寺の図書館。手塚治虫のマンガ「ブッダ」がある。
   朝は起きられなかったが、夕方の座禅には参加。お堂の中では日本人・西洋人等が入り混じって ずらーっと並んで座り、お坊さんが朗々とお経を唱え上げる。唱えているお経は般若心経。 各宗派合同の寺ということで、各派共通に一番受け入れられやすいのが般若心経であるらしい。 「色即是空」の語句で有名な般若心経は、短いながらも大乗仏教の真髄を語っているお経だといわれ いくつかの訳があるらしい。最も知られているのは、唐の玄奘、三蔵法師訳であるとのこと。 また、本日ここに参拝し、..... 先祖代々 ........」と僕らの先祖供養のお経も上げてくださって いた。


  ●2003年1月6日

 ブッダガヤ (0.0km)
 早朝6時の座禅。足腰痛く寒い。
   マハーボーディ寺院へ赴くが、カルマパが礼拝中らしく、許可証がないと入れないとのこと。 仕組みがわからず、いろいろ訊いて回ったところ、ダライラマ用の証とカルマパ用の証の 2種類があるらしいことを知る。昼過ぎに写真2枚を持参して、ダライラマ用の方、カルチャクラ 参加証を作成する。作ったとはいうものの、カルチャクラが一体何なのか、どういう日程で何が 行われるのか、に関する情報がほとんどなくて困る。
 午後、ブッダガヤからネーランジャラー川を渡った対岸のスジャータ村を訪れる。断食を含む壮絶な 修行を行ったシッダルタ(ブッダの本名;悟る前の名前)が少女スジャータに乳粥の供養を受け、 苦行が意味のないものであることを知った最初の場所である。ど田舎。


  ●2003年1月5日

 ブッダガヤ (0.0km)
 ブッダが悟りを開いた菩提樹のすぐ横に、高さ53mという大菩提寺マハーボーディ寺院が そびえている。ブッダガヤの中心だ。その大塔のまわりに、2重3重に回廊がつくられ、 参拝者は右回りに巡礼する。あずき色の袈裟を着たチベット僧の姿が多い。彼らは身体を 時地面に投げ出す、独特の「五体投地」を繰り返しながら何周も回っていた。
 午後、インドに入ったらしようと前から思っていた剃髪を実施。耳が隠れるぐらいまで 伸びていた髪が一気に坊主頭になる。
 17時から日本寺で座禅。印度山日本寺は日本の各宗派が合同で建立したもので、 幼稚園や診療所、図書館を併設している。1973年の建立当初は第二次大戦中に東インド戦線で 亡くなった戦没者の慰霊の目的があったのだという。
   表通りを進んでいくとすごい人だかり。カルマパ17世が今から来るのだという。その到着を 見てから、夜のマハーボーディ寺院を参拝している間に、いつのまにか日本人3人韓国人2人 ブータン出身チベット僧1人という集団ができた。6人で夕食に行った。
 

  ●2003年1月4日

アクランガバード → ブッダガヤ (98.5km)
 大悟の地ブッダガヤ。約二千五百年前、シャカ族の王子として生まれたゴータマ・シッダルタ は厳しい修行と長い瞑想の果て、ついにこの地でこの世の真理を悟り、ブッダとなった。
 お前の宗教は何だと、旅行中に幾度となく訊かれている。とりあえず Buddhist と答えておく 程度の仏教徒でしかないが、およそ1年半の間、キリスト教国、イスラム教国を放浪し、 ついにこの地に達した感慨を少なからず感じる。かつて、日本人が天竺と呼んで夢見た場所が ここなのだ。
 しかし現実に引き戻された。数日後に始まるというチベット仏教の祭典カルチャクラを控え、 噂には聞いていたが、宿代は高騰。普段なら50ルピー以下で見つけられるのに、いくつも回って 120ルピーのところにようやく落ち着いた。
 

  ●2003年1月3日

カイムール → アクランガバード (106.3km)
 10m先も見えないような真っ白な朝もや。太陽が消滅してしまったのではないかと 思えるほど、白く、暗く、そして、寒い。車のライトが見える前に、まずクラクションが 聞こえてくる。白い太陽がようやく見えてきたのは10時半。ゆっくりと1時間かけて青い空 となる。
 ブッダガヤで悟りの境地に達したブッダは、かつて共に修行をしていた5人の仲間を追って、 バラナシ郊外のサールナートへ向かい、そこで最初の説法を行った。ブッダが悟りを開いたのは 冬(12月8日)とされているから、ブッダもまたこのひどい朝もやの道を逆方向に辿ったの かもしれない。
 インドで最も貧しいと言われるビハール州。道の悪さ、粗末な家並み、ワラを運んだり牛の糞を 干している人々を見ていると、ふと、ブッダの見た風景もひょっとすると今のこの風景と大して 変わらなかったのではないかと思えてしまう。
 

  ●2003年1月2日

バラナシ → カイムール (56.6km)
 晴れた青い空の、絶好の旅立ち日和だ。長らく自転車にのっていないせいか、こぎ出すのが 億劫だ。まだ数日ゴロゴロと留まっていたい気持ちもある。しかし、正月までにブッダガヤに 着けなかった代わりに、誕生日ブッダガヤ到着を目指すことにして出発する。
 牛とリキシャと車と人間が入り乱れたバラナシ市街を抜け、ガンジス川を渡るまでが特に大変。 そして、その先の道も舗装は穴ぼこだらけで、バスやトラックの往来は多い。
 17時過ぎに日没。日没が早い。