ふねしゅーの地球紀行
    2002年10月
               



●2002年10月31日

 シャージャハーンプル→ジャイプル(166.3km)
 ラジャスタン州に入り、景色に山が入る。快調に進み、やがてジャイプルの町へ。牛やラクダが歩いているのは見飽きたが、象が歩いているのを見た時はさすがにギョッとした。
 政府経営の国民宿舎的宿、ドミトリー2軒とも満室。すでに暗くなってきたこともあり、頼んで庭にテントを張らせてもらう。
 

    ●2002年10月30日

 デリー→シャージャハーンプル(115.8km)
 ムハンマドと再会を約束して別れ、10月7日のラホール着以来の単独走行。十数キロ走って国道8号に出ると路肩の広いいい道。日本よりむしろ走り易い。雲多く、気温も程良い。インドでのサイクリングとはかけ離れている。しかも追い風。
 

    ●2002年10月29日

 デリー(0km)
 郵便局やインターネットといった雑用をすます。古本屋で10年前の地球の歩き方を発見。200ルピーを150ルピーに値切って買う。その後別のホテルの本棚にあった新版の歩き方と比べてみたら、街や見所などの説明が全く変わっていなかった。
 

    ●2002年10月28日

 デリー(44.7km)
 ずっと運休していたインド・スリランカの船が再開したという噂を聞き、スリランカ大使館から政府観光局に回されて尋ねるが、明確な答えは得られず、飛行機のほうがベターと面倒臭そうに言われた。
 日本領事館では図書室へ。二部屋とかなりの規模。日本語を勉強しているインド人学生で溢れていた。日本の新聞は二日前のものがあった。
 クトゥブミナールという史跡も行こうとしたが、インド人の25倍の250ルピーも払う気がせず止める。イランでもどこの国でも外国人料金がここ数年当たり前に広がっている。しかも10倍以上の法外な格差のつくことが多く、貧乏旅行者にはつらい。金が欲しいのは分かるが、あまりに露骨過ぎる。25倍も差をつけて、プライドはないのかと言いたくなる。
 

   ●2002年10月27日

 デリー(0km)
 体調よくなり、体力も回復し、旧市街オールドデリーを巡る。ガンジー博物館と彼が荼毘に付されたというラージガート。続いて巨大な赤の城壁が目立つムガール時代の王城ラージキル、そして巨大なシャーマスジットモスク。夕方のアザーンや礼拝の人々を見ながら、まだイスラム圏の外縁にいるのだと感じた。
 ホテルの片言日本語を話す従業員が言った。月給が1500ルピー(3800円ほど)、日給ではない。ちなみにここの宿代一泊100ルピー(15日分)。
 

   ●2002年10月26日

 デリー(0km)
 インドのデリーというと色々な話を聞く。本で読んだものが多いが、靴磨き屋の少年に囲まれるとか、耳掻きワーラーという耳掻きを生業いとしている人達がたくさん集まってくる、など。ところが新市街コンノートプレイスは地下鉄の工事中で広場の噴水はふさがれ、たくさんいると聞いていた彼らの姿はなかった。とはいえまったく静かなのかというと、そんなわけは全くなく、露店の物売りはやっぱりうるさい。
 

   ●2002年10月25日

 パーニパット手前→デリー(112.2km)
 強度の胸焼けと再悪化の下痢。デリーまで最後の道のりが長いが、百キロ余りなので頑張る。地下鉄の工事風景あり、混み合ったデリー市街へ。
 夜、大型スクリーンに空調とやたら内装がちゃんとしたバー兼レストランでデリー到着を乾杯する。炒飯食べて、ビールを飲む。が、一歩外に出れば牛と物乞いの歩くインドなのだ。
 

   B>●2002年10月24日

 アンバラ→パーニパット手前(113.3km)
 睡眠不足。特にムハマンドは寝られなかったらしくぶつぶつと文句をいっている。休憩の食堂で注文の時、インド人らしいというか、店員はよく動いていて働いているのだが、注文したものがなかなかこなくてムハンマドはよく不満を洩らしていた。日本人からするとアラブ人も相当のんびり屋な気がするのだが、彼曰く、アルジェリア人は5分待たすと、客は皆怒って帰ってしまうらしい。
 

  B>●2002年10月23日

 ドラハ→アンバラ(93.5km)
 正直なところムハンマドとは走行のペースが合わない。走るのは速いが、休憩が長く、昼寝時間をとりたがる。ただ同走者がいるのは楽しいし、アルジェリア人と話す機会なんて滅多にあるものではない。ムハマンドも逆に僕に少し合わせ、ふだん一日60kmくらいしか走らない以上には走り、同じように考えているのかもしれない。
 教会系の病院の一室に泊。蚊多し 。


  B>●2002年10月22日

 ジャランダール → ドラハ(83.5km)
 パキスタンからひたすら続く平らな道。途中、シーク教寺院で休憩すると、アムソトサルの黄金寺院と同じで食事を頂いてしまう。ここまでの道中、沿道にはヒンドゥー寺院らしきものはなく小奇麗な外観のシーク教ばかりである。実際、訊いて見ると、パンジャブ州ではシーク教徒が大半なのらしい。
 この夜は "リゾート" に泊めてもらう。明らかに上流階級向けの、ホテル兼レストランという施設の庭に野営させてくれとムハンマドが頼む。はじめは野宿のつもりだったが、マネージャーと仲良くなり、部屋を提供され、しかもマネージャーがビールと食事まで用意してくれて、日本、アルジェリア、インド3カ国小宴会となった。

B>●2002年10月21日

 アムソトサル → ジャランダール(88.1km)
 インド走行の実質的初日。アルジェリア人チャリダー、ムハンマドは走る速度は速いのだが、休憩の頻度が多く、また休憩時間が長いので、どうしてもゆっくりになる。アムソトサルにいたとき、僕が煙草を吸わないことから、デリーまで一緒に走るのならこの際に禁煙すると宣言していたのだが、ものの20kmも走らないうちに、煙が必要だと言い出して早速スパスパと吸っていた。
 ジャランダールという町のガソリンスタンドで泊まれるかと尋ねたところ、従業員の兄ちゃんが彼のウチに泊めてくれるという。ムハンマドが彼にヒンドゥーかシークかと訊いていたが、答えはヒンドゥーで出身はデリーらしかった。この地方の言葉パンジャビー語は文字も異なり、彼はヒンドゥー語しか分からないと言っていた。ムハンマドは「アッサラーム、アレイクム」(アラビア語で "こんにちは" の意味でイスラム教徒に共通で使える)」を知っているかと訊き、彼の返答が肯定的だったことに喜んでいた。インドには大勢のムスリムもまた住んでいるのである。

B>●2002年10月20日

 アムソトサル(0km)
 黄金寺院は池の真ん中に浮かび、周囲を白亜の回廊に囲まれている。池では沐浴をしている信者も多く、彼らは両手を合わせ拝んでいる。寺院に彫像の類は一切見られずさっぱりとした造り。床に頭をこすりつけるようにして祈っている人もいる。シーク教はイスラムの影響を受けてヒンドゥーを改革した宗教とのことだが、素人目に見ても、実際に双方のしきたりが混ざっていることが読み取れたように見えた。
 旅行者にとってこれまた有難いのは、宿代のみならず食事も無料であると言うこと。ガランとした大広間の食堂は24時間開いていて、みな一列に並んで座り、チャパティとダル(豆カレー)質素な食事の配給を受ける。裸足であること、髪を布で覆っていること、ここでの決まりはこの2点だけだ。

B>●2002年10月19日

 ラホール → アムソトサル(63.8km)
 ついにインドへ。ラホールの宿であったアルジェリア人の自転車旅行者ムハンマドと同行する。かってシリアでイエメン人のチャリダーとすれ違ったことを覚えているが、アルジェリア人とはそれに劣らず珍しい。旧宗主国フランス系の人間かとも思ったが、実はそうではなくベルベル系だと本人が言っていた。 
 たびたび国際ニュースを騒がせる印パ国境はラホールから30kmとほど近い。通行者は他に全くなく閑散としてのどか。写真もとり放題。
 インド側でも州の名前はパキスタン側と同じパンジャブ州。まっ平らな緑の景色もバスやリキシャが行き交う雰囲気も同じだが、バイクや自転車にまたがった女性がいること、豚が道端を歩いていること、そして看板の文字が変わった事が、国境の通過を感じさせた。
 夕方、アムソトサル着。シーク教聖地であるここの黄金寺院の巡礼宿に、異教徒の外国人も無料で泊まることができる。僕ら、日本人とアルジェリア人の他、イスラエル人、チリ人、オーストラリア人が泊まっていて、国籍、宗教ともにバラバラ。とくにアラブとユダヤという組み合わせには野次馬的興味を持ってしまうが、ムハンマドは、そもそもぼくらは顔立ちも文化もほとんど同じなのだと言って、イスラムが誤解されていることについて暑くまくし立てていた。

B>●2002年10月18日

 ラホール(0km)
 昨夜が遅すぎて今日も出ず。インドは遠い。
 自炊食、ほとんど手伝わず申し分けなかったが、クリームシチュー、天ぷら、杏仁豆腐と豪華な布陣。カレー一本槍のパキ飯と比べるまでもなく、日本食の多彩さは感動的でさえある。
 砂漠越え用に買った水タンクやパキスタンの歩き方などインドで不要と思われるものを半年後に戻ってくるこの宿に置いておくことにする。

   B>●2002年10月17日

 ラホール(0km)
 インドビザ取れ次第すぐにパキスタンを出るつもりだったが、昨夜の戻りが遅かったためもう一泊。特にすることはない。夕食は日本人旅行者の自炊に混ぜてもらうが、昼間ヒロくんが許可書を取って国産マリービールを仕入れてきており、暫くぶりの飲酒 。
 その後先週も観たスーフィーダンスに誘われ、また行く。音楽にのった踊りの鑑賞の後、どこからともなくナンとカレーが運ばれてきてタダ飯。例によって周囲は煙でもうもうとし始める。帰りのオートリキシャは警察の検問で3回も停めさせられた。
 

     B>●2002年10月16日

 ラワールピンディー・イスラマバード〜ラホール(0km)
 イスタンブールにいた5・6月頃から、行く手を塞ぐ壁のようだったインドビザ。午前中に受けとりに行ったらその場では支払いだけで午後まで待たされ、しかもやっと返されたパスポートに貼られたビザの期限は来年1月、つまり3ヶ月。おととい6ヶ月もらえると聞いたと抗議すると、これは意外にあっさり6ヶ月に書き替えてくれた。
 夕方発夜着のバスでラホールへ。三日前はガラガラだったのが満室状態になっていて驚く。


             B>●2002年10月15日

 ラワールピンディー・イスラマバード(0km)
 昨日インドビザが取れれば、ラホールに戻って今日インドに入るつもりだった。というのも入国から1ヶ月がたち、ビザの期限が切れるからである。今日はまたイスラマバードに出かけ、ビザの延長申請、明日の午後受け取りといわれたのを、頼んで朝イチにしてもらう。
 夕方旧市街地へ出かけ新疆料理の店へ。ここのラグ麺というのが旅行者のあいだでは評判。きしめんみたいな麺に肉野菜炒めをかけたもの。日本で食べたらどうということのない中華の一品だが、ケバブばかりのイラン、カレーのみのパキスタンにひたすら慣らされてきた舌には格別。飲み放題の中国茶も胃腸に優しくて嬉しい。インドではなくて中国へ行きたくなる 。


           ●2002年10月14日

 ラワールピンディー・イスラマバード(0km)
 インドビザは本国へ照会し、その回答を受けての発給という仕組み。とりあえず来週来いと言われたのを週頭の月曜にやって来たが、まだだとの返事。しかも明日がインドの祝日だから水曜だた言われがっかりする。1ヶ月シングルなら出せるぞ、と言われ6ヶ月欲しいというと、じゃあ回答が要るから水曜だとのこと。6ヶ月くれるかとその点を念を押してピンディーへ戻る。この前へ満室だと言われたアルザラム。日本人が多かった。


         ●2002年10月13日

 ラホール(18.3km)
 雨が降った。稲妻が度々光り、停電もする。
 午前中インターネット。ここの主人の粋な方針でチャリダーは一日1時間無料でできる。午後、雨も収まり郊外のシャーリマール庭園(4Rs).タージマハルでゆうめいなシャージャハーン帝が造園したという水の庭園。特に何があるというわけではないが、ここも上流階級のパキスタン人が憩っていた。町の通りよりも洋服率、女性の髪出し率はさらに高い。
 深夜夜行列車で再びラワールピンディへ。


       ●2002年10月12日

 ラホール(3.7km)
 天気は晴れだが、空は冴えない白い色。東京の空に似ていると思った。
   郵便局、電報電話局に寄って、ラホール博物館(100Rs約200円)。断食する仏陀像というのが有名でなかなかの迫力。その他にもガンダーラ出土の仏教関連の資料、ヒンドゥーのものも多く、偶像崇拝否定のイスラム圏を抜けてきた身からすると新鮮だ。
 その後、自転車屋で折れたキャリアを交換(130Rs)した。


     ●2002年10月11日

 ラホール(0km)
 今日はラホールの観光。現在は首都でも最大の都市でもないラホールだが、歴史的文化的にはパキスタンの中心。ムガール帝国のかつての都のひとつであり、入り組んだ旧市街の奥には3代皇帝アクバルの代に建設が始まったラホールフォート(城砦)と、6代アウランゼーブの建てた巨大なバードシャーヒーモスクが並んでいる。ラホールフォートは思った以上に中が広く、歴代皇帝により増築されていった謁見所、広間、礼拝所が残り、緑も多く金持ちパキ人で賑わっていた。


  ●2002年10月10日

 ラホール(0km)
 昨晩知ったのだが、今日はパキスタンの総選挙。休日扱いになっているらしく、外へ出ても店という店の全てが閉まって、まるで正月元旦のよう。かろうじて食堂、露店の類だけはやっていて餓死だけは避けられる。
 そんなわけで昼間はずっと雑魚寝ドミで新婚旅行パッカー夫婦とイスタンブールで共にサッカーを観て以来の再開となった山中さんと時間感覚喪失の雑談会。
 夜、選挙休みとは関係のないスーフィー教団の宗教行事を見にいく。トルコやエジプトにもスーフィーはあり、カイロでスーフィーダンスを見たが、観光地化されていたそれとは全く趣が異なり、聖廟の一角で賑やかに催されるそれは異様かつ妖しい雰囲気。低音の太鼓の音に合わせて狂ったように首を上下左右に振り、手首を曲げ伸ばしくねらせながら踊る踊り手。周囲の観客(パキスタン人)は煙を吸いながらリズムをとったり、ときおり声を合わせてウララーと合唱する。パキスタンに長期滞在していて何度もこれを見ているというキンさんとヒロくんの説明によると、煙(麻薬)を吸って、音楽に合わせて高揚することによって、神との会話を成す、というものらしく、普段清潔なモスクで粛々となされているイスラム礼拝の風景とは全く異なっていた。


     ●2002年10月9日

 イスラマバード〜ラホール(0km)
 ラワールピンディから20km、首都のイスラマバードは緑に囲まれる、というか緑に埋もれるような感じでやたらにだだっ広い。懸念のインドビザ。ラホールで聞いた話では今のところ3ヶ月トリプルが最高で6ヶ月(日本だと普通6ヶ月マルチが取れる)は難しいとの事。日本大使館の添え状も持たず、申請書には6ヶ月マルチと記してきたが、あっさり受理された。あとは結果待ち。
 日本大使館で新聞を読む。ほぼ一ヶ月遅れの新聞は9月11日特集、小泉首相訪朝、H2A成功、お札の図案が変わる等の話題 。
 見所のないピンディ、イスラマで来週まで待つ気がせず、ラホールへ戻る。


       ●2002年10月8日

    ラホール→ラワールピンディ(0km)
 インドビザ取得のためイスラマバードへ向かう。人工都市のイウラマには安宿がないため、隣接都市のラワールピンディへ。列車で行くが、はじめは通路まで溢れるほどの混みぷり。やがて空いてくる。ひたすら平原だった景色は山もトンネルもある地形に変わってきた。
 満室あるいは外国人お断りの宿が多く、宿探しに苦労。久々にカレー以外のものと、中華料理店に行ってみるが値段の高さ(といっても400円ぐらいだが)におののき結局パキ飯。


     ●2002年10月7日

    オカラ→ラホール(135.4km)
 夕方パキスタン第二の都市ラホールへ。運河沿いの並木道、大学や諸機関の建物が並び、いままでの町とは比べものにならないほどキレイ。洋装の人も多く、また髪を露出している女性もちらほらいる。イランで髪を出している女性を見たのは(子供を除いて)外国人旅行者と家に泊めてもらったときの室内のみ。パキスタンでもここまでサッカルで一回あったきりだった。思わず凝視。
 泥棒宿、レイプ宿(女性だけでなく男性も狙われるというのがホモが多いパキスタンの怖いところ)が多いとされ、旅行者に恐れられていたラホールに最近できた安全な宿リーガルインターネットインに日が落ちかけた頃やっと着く。西洋人、日本人数名でわりと空いていた。
 

     ●2002年10月6日

    チチャワトニ→オカラ(103.8km)
 幹線道路から少し離れたところにハラッパの遺跡がある。川の氾濫、そして鉄道敷設のためにレンガが持ち去られてしまったことにより、破壊が進んだといい、高い壁や塔が多く残っていたモエンジョダロに比べるといささか味気ない。それにしても鉄道のために貴重な文化財を破壊してしまった云々ということよりも、そんな数千年も昔のレンガがよく近代の実用に耐えたなという方が、驚かされた。
 アフリカ縦断のころからいつか折れると心配していた荷台(キャリア)が舗装がガタガタ区間でついに折れた。針金で補修、明日のラホールまでは保つだろう。


     ●2002年10月5日

    ムルタン → チチャワトニ(143.1km)
 ムルタン中心部から20kmほど進んで、片側2車線の道に復帰。交通量の多い区間であるためか、今まで踏み切りだった列車との交差が跨線橋になる。坂道らしい坂道はそれだけ。
 チチャワトニの町の茶屋。トラックのおっちゃんがクェッタでどうのといいながら話しかけてくる。どうやらクェッタ付近で会っているらしいのだけどこっちは覚えていない。チャイを飲むかと渡されたお茶が緑茶で感動する。アフガニスタンでは緑茶(彼らは砂糖を入れるが)がよく飲まれると聞いていた。運ちゃんはアフガン系の人のようだった。
 茶屋で食べた鳥肉飯も美味。おかわりをごっそりくれて食い過ぎた。
 

  ●2002年10月4日

    ムルタン(0km)
 古都ムルタン。パキスタンのイスラムはスーフィーと呼ばれる神秘主義教団の影響が強いらしく、その聖者を祀る聖廟が多い。ムルタンには「世界の柱」と呼ばれる大きな聖廟、シャー・ルクネ・アーラムが丘の上に建っていて、他の場所ではあまり見かけない女性の参拝者も目立っていた。
 果物屋台でマンゴーを発見。季節が終わりかけていてなかなかなく、しかもやや高いが、ケニアやタンザニアで常食にしていたことを思い出して懐かしい。
 

  ●2002年10月3日

    シャール・スルタン → ムルタン(94.8km)
 パキスタンは外食文化で、小さな村でも至るところに食べ物の屋台が立つ。ご飯に豆とヨーグルトのソースをかけた皿が、量は少ないが5Rs(約10円)で、わりと美味しい。
 夕方、ムルタンの町。ギルドホテル100Rs.受付のガキが入場料として別に10Rsくれなどと訳の分からないことを言うが日本語で怒鳴って無視。
 3週間ぶりに日本人と会う。やはり下痢に苦しんでいるらしくてリンゴを食べていた。
 

  ●2002年10月2日

    ファテフプル・カミール → シャール・スルタン(115.0km)
 40km走ってY字路。ムルタンはどっちだと尋ね、教わった左へ進むと旧道だった。路は狭くなり舗装の質も落ちるが、右の新道より距離はいくらか短いようだ。道が狭かろうがどうだろうが、アホ・バス、アホ・トラックはガンガン飛ばす。基本的にパキスタン人は自分が他より遅いのが気に食わないらしく、狂ったようにクラクションを鳴らしながら疾走する。その性癖はどうやら、自転車や馬車でも同じらしくて、ゆっくり走っているものを追い越すと、たちまち後ろにぴたっとくっついてきて抜き返そうとしてくる輩がけっこう多い。自分が頑張る自転車はともかく、代わりに頑張りを強要される馬やロバは可哀想である。車を引かされている動物はいろいろあるが、牛はいつも疲れて辛そうな顔をし馬やロバは諦めているかのような悲しい顔で、ラクダだけがなぜか呑気に微笑んでいるように見えるのはなぜだろうか。
 

  ●2002年10月1日

    ウバウロ → ファテフプル・カミール(132.9km)
 泊まったガソリンスタンド兼食堂で、昨日の夜と今朝と2度にわたって、赤毛の爺ちゃんにおごってもらってしまった。おかわりをしてくれたのでしっかり食べたら食べ過ぎになってお腹がきつい。今日から10月。陽射は相変わらず強くて暑いが空気はけっこう冷たく、お腹が冷えるのか、相変わらず調子はイマイチ。農村地帯が続き、馬車やバイク、自転車の姿は絶えない。とくに自転車では、並走して来る奴が多いが、通じないウルドゥ語で一方的に話しかけてくる者と、何も言わずただジロジロとこっちを観察してくる者とがある。体調が悪いと機嫌も悪く、どっちもむかついてしまってよくない。現地の人との交流が時には面倒くさく感じられるのは、旅が長くなりすぎたことを意味しているのかも知れない。