ふねしゅーの地球紀行
    2002年8月
               



●2002年8月31日

   イスファハン(26.5km)
 今日はビザの延長手続き。30日滞在のビザでは、広大なイランの西から東まで到達できない。ただ、この延長が少々厄介で、申請の半分くらいの日数しかくれない。また、係員によって対応が違う。服装や言動に注意....といろいろある。
 ヒゲを完全に剃り、キレイな格好で臨む。14日間だとギリギリ、余裕をみて21日間は欲しかった。手続きそのものは簡単で、書類をしたため、12500Rlsno手数料を添えて、15分ほど待つのみ。
 返されたパスポートを見て逆に驚く。30日間の延長、満額回答だったからだ。とりあえず、喜び安心しつつ自転車に乗ってイスファハン南地区の観光。サファビー朝時代に経済政策として連れてこられたアルメニア人たちによるキリスト教会、街を流れるザーヤンデ川に架かるいくつかの橋を巡る。
 空っぽだったドミは一日で再び満室に戻った。うち二人がアフガニスタンに行ってきたと言い情報をもらう。パキスタンからもイランからも国境は開いており、カブールの日本大使館も業務を再開しているという。西洋人旅行者は見ないというから、今アフガニスタンを旅行できるのは、顔立ちがアフガン人に似て目立たない日本人のいわば「特権」とでもいえるかもしれない。


  ●2002年8月30日

   イスファハン(0km)
 休養日2日目。5人部屋のドミトリー、同室の4人がみな出て行き、代わりにやって来る旅行者がゼロ、ドミなのに一人部屋になった。ひたすら読書、情報ノートに書き込むなどして時間をつぶす。
 昼飯の帰り、今日唯一の特記すべき出来事。車から声を掛けられる。はじめは無視していたがしつっこく、振り向くと「ポリス」だと言い、身分証みたいな紙をちらつかせている。ツカツカと車道に向かって歩み寄っていく僕の動作と表情に何かを察したのか、車の人物はもう何も言わずスーッと走り去っていってしまった。石を拾い、思いっきりぶつけてやったが返事はなし。噂に聞くニセ警官、所持品検査のフリして金を抜き去っていくというやつだが、あんなにあっさりと諦め去っていくとはつまらない。


    ●2002年8月29日

   〜イスファハン(0km)
 夜行バスに揺られイスファハンに帰って来る。
 休養日。証明写真を撮りに行った以外ずっと宿にいて、置いてある本を読んだり、インドの歩き方を借りて読んだり、こういうときしかできない長ズボンの洗濯をする。
 夕飯はちょっと豪華。魚が食べられると言うレストランへ。マスの揚げたやつ、一皿二匹を二人でわけてご飯とサラダが付いて16750Rls(約250円)。普段ケバブとサンドウイッチしかないイランの食事に文句たらたらだった面々も満足だった。


    ●2002年8月28日

   シーラーズ(0km)
 バラと詩の都シーラーズ。この地方はファールス州といいペルシアの本来の(イラン式の)呼び名ファールスはここからきているそうだ 。
 そんな美しい古都シーラーズはイスファハンに次ぐ観光地と書いてあるが、庭園は入場料が高く、霊廟やバーザールもどうということはない。ただ人が多く、活気のある街並みではあった。またなぜだかアジア系の顔だちの人をよく見かけた。
 テヘラン行きのバスに乗るため早めにバスターミナルに向かった徳山くんと別れ、僕はシェチェラーグ廟という中庭の広々とした聖廟で時間をつぶす。周りには同じような時間の余っていそうな人々が昼寝をしたり、またこんな所でも敷物を広げてピクニックをしていた。
 21時半発の夜行でイスファハンへ戻る。


       ●2002年8月27日

   イスファハン・ペルセポリス(0km)
 まだ暗い早朝5時半にシーラーズ着。明るくなるのを待って街に出て宿をとる。少し休んでミニバスとタクシーを乗り継いでペルセポリスへ 。
 地元イランではタフテ・ジャムードと呼ばれるペリセポリスはシリアのパルミラ、ヨリダンのペトラと並んで中東の3pと称されている。ややこじんまりとしているせいか3pの中では一番へぼいという悪評もあったが、歴史的に果たした役割は他のふたつを遥かに凌ぐ。アケメネス朝ペルシアの宗教上の都として「全ての道はペルセポリスへ通ず」と謳われるほど栄え、最後はカノアレクサンダー大王によって陥落させられた。残っている壁画に主要宗教だったゾロアスター教の神が描かれているのが面白い。
 夜、徳山くん持っていたシリア・ヨルダン編地球の歩き方を見て驚く。以前カイロでそうなるとの噂はきいていたが、装丁が一新されていた。独特の青色の紙も、表紙の四行詩(たまに五行詩)もなくなっていた。


      ●2002年8月26日

   イスファハン(0km)
 イスファハンは世界の半分と言われる。16世紀末からサファビー朝の首都として大いに栄え、当時の宮殿やモスクがエマーム広場と呼ばれる長方形の大きな広場を囲んで集まっている。
 誰かが世界の四分の一は駐車場だったと言っていたが、実際広場の北半分は車が停まっていてちょっと興ざめ、また昼間は暑いためか、人も少なく閑散としている。夕方から広場中央から南側にかけての噴水周辺、緑地帯にイラン人家族が大勢やってきて得意のピクニックを始め、広場を一周する馬車も動き出して賑わっている。
 少し早めの夕食をとり、徳山君と北バスターミナルへ。シーラーズ行きの夜行バスは15200Rls(約230円)で21時発。室内灯が赤く、気色悪かった。


    ●2002年8月25日

   メイメフ→イスファハン(79.9km)
 朝6時半南ア以来の日の出を観る。今日はわりと楽な行程で、昼過ぎにイスファハンに入る。イスファハンの宿アミールカビールでテヘランで会った徳山君と再会。ここに来て3日目、特になにもせずダラダラとし、バムもシーラーズも行っていないと言う。僕はここに自転車を置いて、シーラーズ、ペルセポリスへはバスで行こうと考えていたので一緒に行こうと誘う。
 夜、日本人の女の人がバイクのひったくりに遭ったと黒チャドルを砂まみれにしながら言っていた。とられはしなかったが、引っぱられてショルダーバッグの紐が切れてしまったという。宿の情報ノートには強盗に遭ったという話もあり、概して治安のいいイスファハンだが、一大観光地であるぶん悪いヤツもそれなりにいるらしい。


     ●2002年8月24日

  デリジャーン→メイメフ(113.8km)
 デルジャーンの町から100kmひたすら下り坂なし。平らかゆるい上り坂。景色もひたすらなにも無し。潅木がポツポツと茂る程度で、黄褐色の大地が広がっている。左右に見える山と山の合間に続く道はない。
 イランーパキスタン国境は長い砂漠地帯となるが、その予行演習みたいなものだ。
 

  ●2002年8月23日

  マンザリエ→デリジャーン(143.8km)
 午前中順調にゴムに着く。イランのシーア派にとってマシュハドに次ぐ国内第二の聖地だ。八代目エマーム レザーの霊廟がある。実はシーア派の主だった聖地はイラクのナジャフやケルバラにある。イラクツアーに参加した時はあまりよく知らなかったが、イランに来て改めて、実はイラクですでにシーア派の最高聖地へ行ってしまっていたんだなと分かった。そういえばイラクにはイラン人の巡礼客が沢山きていたし、ゴムの霊廟もイラクで訪れたのに雰囲気は似ていた。
 ゴムを出ると再び何もない砂漠。スイカとメロンを売る露店があって、そこの兄ちゃんがこう言っては失礼だが、意外にも英語を少し話した。兄弟の店の手伝いなんだと、退屈そうに話していた。隣にも同じような露店があったが、そこではオヤジが簡易ベッドの上で寝てしまっていた。


    ●2002年8月22日

  テヘラン→マンザリエ(132.6km)
 大都市テヘランの脱出でまた迷う。教えてもらった道は高速道に通じ、自転車通行不可だった。そのお陰でホメイニ師の霊廟を眺めることができた。
 しばらくは村が続くが、やがてなにもない砂漠地帯に入る。途中遠くに黄色っぽい乾いた湖のような地形に出くわす。地図では確かに湖があるが、涸れているのかよく分からなかった。
 地図上村となっているはずの辺り、ポツンと一軒だけ店があり、そこで泊めてもらうことにする。ケルマーンに住むという親子3人がスイカをくれた。満月。
 

  ●2002年8月21日

  テヘラン(0km)
 交通渋滞解消の切り札としてここ最近テヘランでは地下鉄の工事が進んでいる。手持ちの「歩き方」には東西路線の記載しかないが、現在旅行者にとってより便利な南北線が開通していた。一回乗って500Rsl(7円50銭)。新しいから当然だが駅も車輌もきれい。客層も心なしかきれいだった。
 その地下鉄に乗ってまず日本大使館へ。ここで残り頁の少なくなってきている旅券の増補をする。イランではこれが35714Rls(約500円)と格安なのだ。政府の定めた公定為替相場と闇相場が異なる国の場合、このようなことになるのだが、現在イランでは銀行でも闇両替でもほとんど金額が変わらないから、日本大使館が何に基づいてこんな安値を算出しているのか良く分からない 。
 続いて旧アメリカ大使館へ。アメリカはイランを悪の枢軸呼ばわりし、外交の断絶が続いているが、そもそも1979年のイスラム革命後大使館人質事件が発生しているのが発端らしい。壁には”Down with USA"の文字やドクロの顔をした自由の女神の絵が描かれていた。世界一を自称するアメリカはある意味世界一嫌われている。アメリカ人はイラン旅行などできないだろうし、他にも行けない国(シリア、イラク、スーダン・・・僕は行った)があり、可哀想である。それに対して日本はアメリカべったりのわりにはアラブ諸国やイランとも非常に仲が良く、たぶん行けない国なんてない。日本のパスポートは世界一だと言われる所以である。日本人でよかった。


●2002年8月20日

  テヘラン(0km)
 総人口一千万に近いといわれる首都テヘラン。交通渋滞や大気汚染は世界有数の悪さらしいが、とりあえず車やバイクがガヤガヤとうるさく、そして暑い。居心地のいい街ではない。
 見所の少ないテヘランの数少ない見所、考古学博物館と宝石博物館を巡り、今日は終わり。
 イラン初のインターネットをしたら、イスタンブールでトルコ料理修行中だったマサ君から、父が倒れて無念の帰国ですとメールが入っていた。旅にせよ何にせよ海外に長くいるというのは色々な意味で難しいものだ。
 昨日はもめた結果、イラン人ドミトリーに入り、今日は再度なぜかまったく分からないがもめた結果、今日来た数学専攻の学生さんと同室になった。彼はパキスタンでアメーバ赤痢に罹ったらしく、体調の悪さに苦しんでいた。

●2002年8月19日

  アーベイェク → テヘラン(109.6km)
 テヘランが近づき、交通量の多い道。約40km手前のカラジという町(テヘランからの地下鉄がここまで来ている)で道に迷う。
 テヘランのマシュハドホテル、日本人はけっこういる。部屋を一人で使うと高く、他の日本人と共有できるかどうかで受付の男ともめた。「歩き方」の投稿に「スタッフは英語ができるけど感じが悪い」とある。階上の食堂でもチャイ頼まないなら出て行けとオヤジが喚いてテヘラン到着早々イヤな気分。
 日本人客のうちの一人は僕と同じ東進組で、やはりインドビザを持っておらず、テヘランで取るのは早すぎると言い、印パ情勢の芳しくない中、どこで取ろうかと同じ悩みを抱えていた。情報ノートをめくると、イスタンブールで一緒だったチャリダー高橋くんとデュークが5日ほど前までここにいたと分かった。追いつけそうもなく、少し残念である。

●2002年8月18日

  ロウシャーン → アーベイェク(126.7km)
 朝から30kmひたすら登ってやっと元の標高に戻ってくる。日光は暑いが風は涼しい。カズウィンという町までは下り基調で楽だったが、そのあとは工場の敷地みたいなのが続きくつろげない道。
 夕方着いたアーベイェクという町ではガソリンスタンドに泊めてもらう。イランのパンにはバルバリーという厚めのもちもちしたやつと、ラバーシュというペラペラの薄めのやつとがあって、バルバリーの方が好きなのだが、ここ数日ラバーシュしか見付からない。


●2002年8月17日

  ラシュト→ロウシャーン(114.2km)
 ラシュトからテヘランまではじめは海沿いを進み、そのあとで山越えをしようと考えていたが、地図で距離などを再検討し、先に峠に挑み高原に戻る道を選ぶことにした。そちらのほうが比較的楽な行程だからだ。
 ラシュトからしばらくは川沿い水田地帯を上り、やがてダムの水門が見え、3つのトンネルをすぎるとがらっと景色が変わり、殺伐とした赤茶けた山並みで緑がなくなった。雲も消えた。
 格好が汚いのか、のびたヒゲのせいか、アフガニーかと訊かれることが多い。中国人といわれることは多いが、イランでは東洋人というとアフガニスタン人がでてくるらしい。だたイラン人の多くはアフガン人を軽蔑し快く思っていないとの話なので、いろんな意味でこれは嬉しくない。
 カスピ海からの上り坂はまだまだ続き、峠の途中の宿で宿泊。夕食をおごってくれたり、シャワーを貸してくれたりと親切。ただ屋外ベッドは寒くはないが、風が強すぎて寝ずらかった。
  

   ●2002年8月16日

  ホトベサラ→ラシュト(151.0km)
 日本の夜みたいに蒸し暑い夜が明けて、朝は涼しい。ホゼフや家族に分かれを告げしばらく曇り空。平坦で風もなく快適だったが、午後から晴れ暑くなる。 
  カスピ海沿岸の中心都市ラシュト。金曜でも露店がたくさん出ていて人の往来も多く、活気がある。タブリーズより心なしか黒以外の色を着た女性が多い気がした。歩いていたら日本語で話かけられる。大阪で働いていたというシャーベット屋のおじさんでシャ−ベットをおごってもらう。沿岸地方ということで魚を売る露天がある。買ってみたが味付けが辛すぎた。 


   ●2002年8月15日

  アルダビル → ホトベサラ(136.7km)
 軽く峠を上り、そのあと凄まじいつづら折の下り坂。1500mの高原からひょっとすると海抜0m以下のカスピ海まで、交通量多く、ヘアピンきつく、ひたすら長く、これをまた上るのかと思うとゲンナリした。 
 下り終えて、アゼルバイジャンとの国境の町アスタラ。出入国管理所がとても目立たないところにあり、町中にキリル文字が見られるほかは、あまりらしくない。
 記念のため、とりあえずカスピ海を眺めてから南下。山と海が近く、雲があり、湿気もあり、緑が多く、そして水田が広がる。旅行人ノートに、「もう1つのイラン」と書いてあった。たしかに景色はがラット変わった。
 ホトベサラという村でケバブを食べていると、ホゼフという男性に家に泊まれよと誘われる。ほんの少しだけ英語を話す彼の家は農村地帯の一画にあり、庭が広くニワトリが歩き、高床式の2階建てで、日本と同じく靴は入口で脱ぎ、中はやはりペルシャ絨毯敷きだった。
 ハマム、ハマムといわれついて行くと、近所の家へ。その家のシャワーを貸してくれた。友人たちが集まっていて、パスタやスイカの夕食をご馳走になる。友人のなかにはやはりトルコ語を話す人がいて、トルコ語でペルシャ語の単語を尋ねるという奇妙なことをした。
 家に戻る。ホゼフの弟、妹3人(うち二人は大きい)、いとこの女の子がいる。外に出ると黒のチャドル姿の彼女たちも、家の中ではせいぜいスカーフだけ。さらに、テヘランに住んでいるといういとこは英語がわりと話せ、スカーフは良くないと言い、実際、彼女だけは髪を露出させていた。写真を撮ったとき、妹の一人は写りたがらず、イラン人の間でも考えには違いがあるらしいことを実感した。


●2002年8月14日

  サラーブ → アルダビル(111.0km)
 昨日の食べすぎで胃もたれしながら走る。どこでも川べりとか木陰があると、ほぼ決まってイラン人の家族が車を停め、ござを広げてピクニックをしている。すぐ道路沿いだったり、景色の素晴らしいわけでもないところでやっているから不思議。
 街道から少しそれ、温泉地サルエインを訪れる。土産物屋がずらりと並び、ここでも、テントまで張ってピクニックをしているイラン人家族が道沿い並木の下に並んでいる。
 水着着用の温水プールだが湯温は熱く43度か44度くらい。鉄っぽい匂いが効いている。95%の人はヘリで腰掛け、残りの元気で熱さに多分強い連中が飛びこんだり泳いだりしていた。
 夕方からにわかに天気が悪くなり、アルダビルでは少し雨も降った。


●2002年8月13日

  タブリーズ → サラーブ(135.9km)
 昨日の夜そして今朝と日本人が来るが、入れ違いでほとんど話さずタブリーズ出発。40kmずっと上り、そのあと下りになるが路肩狭い。
 テヘラン方面からいったん分岐してカスピ海方面の道へ。沿道はいっそう荒涼として、ところどころレンガ土壁造りの田舎集落が現れる。
 サラーブという町の入口にあったガススタンド脇の食堂で夕食。鳥ケバブ、串焼きにごはん、ナン、ヨーグルト、ジュースとついた定食で14000Rls(210円)、さすがに少し値が張った。テントを張れるか訊いたら、奥の一室で泊まらせてくれるとのこと。さらに2時間くらいあとに彼らの食事に誘われ、二度目の夕食。茄子と玉葱、シシトウをとにかく丸ごと焼いて肉と一緒にナンで巻くのだが、外は黒こげ、中は生焼けで、この調理法はさすがにどうかと思った。イランからトルコへ来る旅行者が一様に皆メシに感激すると言うが、その理由がわかる気がした。


●2002年8月12日

  タブリーズ(0km)
 通りには、閉まっている店が随分多い。怪訝に思っていたら、今日は祝日「初代エマ−ムの妻の祝日」と言われた。はじめはピンと来なかったが、初代エマ−ムはシーア派の祖ともいえるアリーであり、そのアリーは預言者ムハンムドの娘むこ、つまりムハンムドの娘ファーティマのたぶん亡くなった日なのだろう。黒づくめの集団が通りを行進していた。
 イルハン朝時代の城塞アルゲタブリーズ、ティムール時代のチャブードモスクを見て回るが、イブンバトゥータやマルコポーロも感嘆したという歴史あるバザールがほとんど休みになっていて残念。
 観光は半日で終わり。7000Rls(焼く100円)と安い地図を買い、昨日の疲れがたまっていたので宿でだらだらとする。日本語情報ノートがあり、イランーパキスタン国境砂漠越えについてなど自転車情報が充実していた。
 夕方行った鉄板焼きの店は牛丼の具のような和風の味がした(4000Rls, 60円)。


●2002年8月11日

  イヴォーグリ → タブリーズ(136.6km)
 一日ほぼ逆風に苦しむ。
 途中マランドという町の入口で、トラックの風で浮いたビニール袋を踏みつけたら絡まって、部品が曲がってしまう事故が起きたが、幸い車関係の修理屋が並ぶ一帯ですぐに直してもらえた。ついでに食事をご馳走になってしまう。そのあと写真を撮ろうとシャッターを押す仕草をしたら、お金と間違えられたのか、イラナイ!と言われてしまった。
 峠を越え、さらに逆風を突いてタブリーズ。アンカラ以来の百万都市はさすがにでかく、市域に入ってからさらにオマケの10kmがあり、夜8時近い着となった。


●2002年8月10日

  マクー → イヴォーグリ(122.4km)
 途中どのぐらいの間隔で地図上にない村や売店など補給地点があるか、まだ わからないため、多めの水と焼きたて熱々パン3枚(でかい。なぜか3で割れない1000Rls=15円)を装備してのぞむが、たまに集落はあり店もあった。
 トルコ東部より景色はさらに荒涼とし、しかしさすが産油国なのか、舗装は路肩まできれいで走り易い。
 日本を発って422日目、地球半周20000km達成。ちなみに、5000km(去年8/5、メキシコ・トゥーラ手前)、  10000km(去年11/11、トルコ・イスタンブール入口)、  15000km(去年4/10、ジンバブエ・ビクトリアフォーハズ先)であった。
 途中休んだガソリンスタンドでチャイとスイカを頂くが、その親子の話す言葉はトルコ語だった。イラン北西部はアゼルバイジャン系のトルコ語方言を話す人が多いと本にはあるが実際その通り。夜、野宿させてもらうことにした検問所付近の店でも、トルコ語が通じた。


●2002年8月9日

  ドゥバヤズット → マクー(74.9km)
 さようならトルコ。その門出を祝うかのように馬鹿っ晴れ。
 小銭処理のため最少額の25000リラ玉を使おうとしたら、受領拒否された。5万リラ玉や10万リラ玉に新硬貨ができたのに25000はできず、たぶんとは思っていたがやはり消え行く運命らしい。それでも1円80銭くらいの価値、1円玉より高いのになくしてしまって、それってインフレを助長するだけなのではないのだろうか。
 国境までの道、5155mの高峰アララット山が今日はくっきりと見える。ノアの箱舟の漂着地という伝説があり、道路を挟んで反対側なのだが、ノアの箱舟の残骸だという噂の、'箱舟に似た' 岩がある。もう1つ、国境のすぐ手前、隕石の落下によってできたというメテオホールを見てイランへ。
 イラン側のシステムエラーのためか、やや待たされるが、日本人特権で荷物検査なし。背後にそびえるアララット山に見送られ、中数km進んだマクーの町へ。
 イランには酒がないけど、ザムザムがあると聞かされていた噂のザムザムを飲むが、安っぽいコーラにしか思えず(他にザムザムオレンジなどあるらしいが)。


●2002年8月8日

  ドゥバヤズット(10.6km)
17世紀から18世紀にかけて99年の歳月をかけて建設されたというイサクパシャ宮殿。当時この地方をおさめていたクルド人知事によるその宮殿を、町から5km壮絶な上り坂を駆け上って訪れる。モスク、図書館、台所、ハレムなど数多くの部屋に分かれ規模が大きく、観光客もたくさん来ていた。往きは40分かけた道、帰り9分。
 宿に戻ると、日本人が3人いた。うち2人はトルコのみ、もう一人はパキスタン、イランから来たという。トルコのみのうちの一人も前にイランに行ったことがあると言い、いろいろと情報をもらう。また、カナダ人の年配のチャリダーがやって来る。今後の経路を尋ねるとけっこう似ているので、また会うかもしれない。そのほかスペイン人の旅行者がいて、中米以来ほぼ初めてのスペイン語を試してみたが完全に錆び付いていることだけがわかった。
 ここで要らなくなる「歩き方トルコ編」、新しいのが欲しいという宿のおじさんと、宿にあったやや古くなった「パキスタン編」と交換が成立した。
 最後のビール。


●2002年8月7日

  タシロルチャイ→ドゥバヤズット(68.4km)
国境の町へ向けて景色はますますひなびてくる。クルドの犬の評判の悪さは聞いていたが、久しぶりに追いかけてくる犬と対決。また終始吹く逆風とも対決。
 そしてドゥバズヤット。作りかけの小屋みたいのが漠然と一帯に広がり始め町となり、正面には雲に覆われたアール・ダール(アララット山)が見える。
 国境越えの旅人が集まる町ドゥバズヤット。周辺に見所もあるため、国境を越えない旅行者も多い。そのせいか町を歩いていると少しウルサイ。イランのお金を手に入れようと両替所をあたるが扱っていないとのこと。宿で尋ねると、近くの旅行会社で扱っているようだったが率が悪いのでやめた。
 

●2002年8月6日

  アイドゥンテペ→タシロルチャイ(97.8km)
 午前中は快晴に近かったが、午後から急に下り坂になる。やがて雨になりタシュルチャイという町の食堂で雨宿り。昨日もそれ以前も通り雨はあり、すぐ止むだろうとたかをくくっていたが、一向に止まない。灰色の雲が厚い。3時過ぎに着いていたのが、5時になり次へ進むのを断念する。
    訊くと食堂の2階が改装工事中でその空き部屋で寝ていいとのこと。結局9時ごろまで食堂で喋ったり、本を読んだり、テレビの天気予報を見てうなったりしていた。
  

        ●2002年8月5日

  エルズルム→アイドゥンテペ(127.8km)
 さすがに標高2000mの高地となれば、陽射しは強いが空気が冷たく涼しい。途中の村、村の小ささに似合わない大きな城塞が山の上にそびえていた。この地方に多く住むクルド人への示威なのかよく分からないが、丘の斜面にやたら巨大な月と星(トルコ国旗)のマークも目立つ。
    素朴な石を積んで土で塗り固めただけの村落がポツポツ続き、エルズルムとは雰囲気が変わってくる。幹線から一歩外れると当然未舗装の畦道で、ヤギや牛が人と同じようにそこら中を歩いている。トルコの東西格差を強く感じたが、食糧を買いにブラブラしていたら、チャイに誘われそのまま食事までいただいてしまった。子供はイスタンブールのサッカーチームのフェネルバフチェのユニフォームを着ていて、大ファンらしかった。
    この村には軍の駐屯地があり、そこに泊めてもらう。兵役のあるトルコ、軍服姿の若い男ばかりの世界。危うく殴りあい寸前のケンカも発生していた。
  

        ●2002年8月4日

  エルズルム(0km)
 休養の一日。9時すぎまで寝ていて午後も昼寝。そのあとおきたら雨が降っていた。
    午前中スィクスのものと似たセルジューク朝、イル・ハン国時代の建築物を見た。午後はハマムへ。トルコに通算3ヶ月ぐらいいることになるが、ハマムは初めてだ。おじさんが多く、若者も少しいて、庶民のくつろぎの場所という点では日本の銭湯の雰囲気だ。更衣室に荷物を置き、タオル一枚腰に巻いて入る。湯船はなく、サウナ、蒸し風呂だ。水の出る洗い場や水のみ場もある。325万トルコリラ〔約250円)あかすりは別料金だがしなかった。
  夕食は「有名人の来る店」でジャーケバブを食べる。串肉を薄パンに巻いて食べるのだが、付け合せのトウバンジャンみたいな辛味が旨い。昼寝を除けばたまにはこんなフリーの観光客っぽい一日もいいだろう。
 

        ●2002年8月3日

  テルジャン→エルズルム(96.4km)
 朝イチで長い峠を越え、そのあとは田園風景。そしてエルズルムへ。人口30万人、高度2000mの東部の中心都市である。西から来た旅行者はチャド姿の女性の多さや田舎っぽさにアジアを感じるというが、大学があるせいかわりと垢抜けた若者も多く、大型スーパーのミグロスなどもあり、それほどの「格差」は感じない。
   宿代を払うと財布が空になり、銀行へ下ろしに行く。機械が壊れていて入れたカードが吸い込まれたままになって焦る。土曜の夕方、どうしようかと思ったが、中に人がいて機械を開けてもらい、救出。
   食堂のテレビではサッカーの放送をやっていてなんだか懐かしかった。
 

          ●2002年8月2日

  エルズイジャン手前→テルジャン(118.5km)
 またガソリンスタンドに泊まったが朝起きしなおじいさんがやってきて、1ミリオンよこせとぬかす。朝くつろぎのひとときもなく、荷物をたたんでさっさと出て行く。(もちろん払わず)。
   今日も峠の連発を覚悟していたら、川沿い、線路沿いのなだらかな道がずっと続く。ぬるい向かい風が少し疲れる。水場を発見して休んでいると、突然車がそばに停まって、男三人組が出てきた。なぜかパンとチーズとスイカを持っていて、一緒の昼食になった。
 午後はまたやや曇りがちの天気。峠を控えたテルジャンの町。宿代3ミリオンと安い。ぶらっと町をあるいて戻ると宿のおやじに呼ばれ、なにやら鳴り物のうるさい食堂みたいなところに連れていかれる。結婚式のようなのだが、スーツ姿の新郎しかおらず、おやじに尋ねても、朝、今晩、エルズインジャンの3つの単語しか分からず、新婦は今ここにいないとだけ分かる。学食みたいなトレイ盛り付けのタダ飯ご馳走になっただけだった。
 

        ●2002年8月1日

  イムランル→エルズイジャン手前(118.8km)
 今日から8月。ワールドカップ終了からひと月ということで早い。
 今まで(トルコ国内で)最も厳しい道のり。朝スタンドを出て、早速14kmも延々と続く上り坂。峠の標識は2100m超。
 まともな町がなく補給にもやや苦労する。途中の村、軍の施設で尋ねたらトマトとチーズのサンドを恵まれた。
 そして雨。にわか雨で涼しくなるのはいいが濡れるのは大嫌いである。
 最後にもう1つ強烈な峠。これも標高2100超える標高。下ってエルズイジャンの町は1185mとなっているから、約1000mのすさまじい下り坂である。最高速度72kmで吹っ飛びそうになった後、川沿いのわりとなだらかな道。崖崩れよけの洞門のある道をひたすらずっと下る。