ふねしゅーの地球紀行
    2002年5月
               



>●2002年5月26日〜7月20日

  ケープタウン〜(0km)
 日本を発ってからちょうど丸一周年となる記念の日にイスタンブールに戻ってきた。それから55泊という長期に渡り、沈没することになった。6月の一ヶ月間ワールドカップを観ていたということもあったが、二ヶ月近くの滞在は旅行というよりむしろ生活に近い感覚があり、また違った楽しさそして経験があった。
 日付を追って簡単に記す。
 5月27日
  半年前は日本人しか泊まっていなかったが、フランス人、アメリカ人、韓国人と多国籍。夏場はヨーロッパ人も多いと聞いていたが本当だった。
 5月31日
  ワールドカップ初日。ソウルで日の丸が広げられるのを見て、君が代が流れるのを聞く。
 6月4日
  日本初戦引き分け。韓国w杯初勝利。
 6月5日
  半年伸ばし続けケニアでドレッドにした頭を散髪。
 6月6日
  ケニアで会った飯田さん。熱があり体調最悪というので病院に付き添うとマラリアという診断でそのまま入院。搬送の救急車に生まれて初めて乗った。
 6月9日
  トルコ2戦目引き分けで苦しくなる。日本はロシア下して初勝利。
 6月12日
  日本人一人夜遅くまで帰ってこない。しかもエリフが彼のことを尋ねる奇妙な電話を受けとったと言い、睡眠薬強盗に遭ったのではと、一時騒然とする。結果はただトルコ人と仲良くなりベロベロに酔っ払い、イタズラ電話があっただけ。
 6月13日
  トルコ決勝トーナメント進出決定。半年前に作った巨大日の丸を持ち出し、その時以来の再会となるシェフ山口君、長期滞在組のテツさん、マサくん、テルくんを誘って、広場へ繰り出す。想像以上に街は馬鹿盛り上がり。
 6月14日
  昨日日の丸を広げた時の写真が新聞に載った。日本がチュニジアに勝ち、次の試合が日本対トルコに決まった時には、日本人が大勢いる宿と知ってか、コンヤペンションに報道陣がきた。インタビューすら受けるが、結局テレビの映像は確認できず。(流れたという話だけ聞く)。
 6月15日
  ガラタ橋に夕方出かけて釣り大会。個人的には釣れず。
 6月18日
  この日もテレビカメラがくるが、日本敗退。街に出る気せず。韓国は勝った。
 6月19日
  マルマラ海に浮かぶビュユック島という島へ遊びに行く。車の乗り入れが禁止されているという景色のいい島。レンタルサイクルで一周。
 6月20日
  昨日に続き、w杯は休み。カーリエモザイク博物館からエコップまで歩く。帰りは湾を船で。
 6月22日
  韓国がスペインに勝ち、トルコもセネガルに勝つ。かねてよりやろうと話していた牛タンバーベキューで祝勝会。韓国人客が多い日だったこともあり、次々とビールの栓が抜かれていく。バカ騒ぎ。
 6月24日
  パキスタンビザのための添え状を日本領事館にて申請。少し難色をしめされる。夕方トルコ人の子供たちとサッカー。夜テツさんの送別会。
 6月27日
  イランビザ申請。午後アジア側イスタンブール最高の地といわれるチャムルジャの観光へ。夜エルシインの友人ジハンの誕生会がある。
 6月30日
  w杯決勝戦。その夜昨日三位決定戦を戦ったばかりのトルコ代表が早くも帰国。タキシム広場への凱旋を見に行くが、深夜で遅すぎた。
 7月2日
  w杯が終わり、少しずつ人が入れ替わり始める。少し前から耳が痛くて病院に出かけたら軽い中耳炎だと言われた。
 7月4日
  パキスタンビザ取得。夕方ドッチボールをすると意外に白熱。
 7月5日
  同じチャリダーの高橋君見送り。
 7月7日
  七夕祭り。折り鶴を沢山折って、短冊に皆願い事を書いてもらって笹ではなかったけれど庭の木に吊るして飾る。夕食は中村君指揮、韓国人直伝のキムチ鍋。西洋人も交えて盛り上がる。
 7月8日
  イランビザ所得。金髪頭でギターを持った日本人。仙台に住んでいると言うので話をしていたら、大学の後輩と分かり驚いた。
 7月10日
  朝一番でシェフ山口君、昼過ぎ飯田さん、夜に多絵ちゃんが相次いでチェクアウト。実際は新しい宿泊客が来ていて、混んでいるのだが人が減った感じだ。
 7月11日
  夜ボーリング大会。はじめ人がいなかったが、結局16人も集まった。
 7月14日
  やっと直した自転車、試走する。
 7月17日
  郵便を送り、米ドル現金を作り、宿代の精算も済ます。
 7月18日
  深夜0時からのサッカー大会。ナイター付きのコート。サッカー、バスケ、ドッチボールと色々やったが、コンヤペンション球技部も引退だ。
 7月19日
  トルコ料理修行中のマサくん、同じく長期滞在のテルくん、滞在期限延期のため、午後の列車で一旦出国。w杯経験組みはイズねえと僕だけ残った。
 7月20日
  エリフが言った。来年の冬日本へ行く時に会いましょう、と。でもそのころ僕はまだ旅の途中。55泊したイスタンブール、さようなら。
 

●2002年5月25日

  ケープタウン〜(0km)
 午前中ダンボールを調達してきて、自転車の梱包をする。警備員だか清掃員だかが暇なのか手伝ってくれるが、邪魔されているような感じも半分だった。
 搭乗手続き、出国審査とも簡素。30分前に搭乗。隣がデブのおばちゃんでゲンナリ。空席がたくさんあって、なぜだと訝るがよく考えてみるとヨハネスブルグでさらに乗り込んでくるのだ。
 トルコ語と英語の機内放送。「ようこそ」と「ありがとう」のトルコ語だけ聴き取れる。乗り継いでロンドンという白人客が多いようで、どのくらいトルコ人客が乗っているのかは不明。
 1時間あまりの間にサンドイッチとクッキーの軽食が出て、すでに日の暮れたヨハネスブルグへ。機内からは出られない。そしてほぼ満席になり、アフリカを離陸する。
 飛行経路を表示するモニターを眺める。ルサカの上空を過ぎ、ナイロビを越え、アジスアベバそして未明のカイロへ。半年をかけて這い進んできた陸地を飛行機はたった半日で飛び越えていく。
 明日5月26日は日本を発って丁度一年。イスタンブールに還る。 

●2002年5月24日

  ケープタウン(20.5km)
 予定よりも一週間遅れてケープタウンの空港へ。天気はあいにくの曇り、風が強く時折小雨混じりで寒い。
 通いまくった領事館へ本を返しに行き、サイモンズタウンへ行く辻岡さんを見送り、米を炊いて弁当にし、宿を出た。
 ケープタウン国際空港は思ったより小さいな印象。国際線ターミナルに就航している便はナミビアなど近隣国と旧宗主国のイギリス、そしてヨハネスブルグ経由で欧米に数本、合計でも一日に十本あるかないかだった。
 19時過ぎて最終便。後はガランとなる。 

●2002年5月23日

  ケープタウン(0km)
 未明、強い風雨で午前中テレビの調子が悪い。午後直ったテレビでサッカーを放映している。W杯前哨戦南アフリカ対トルコの試合。場所は香港だった。今いる国とこれから行く国の対戦というのも面白い。トルコはけっこう押していたのだが、好機をものにしたのは南アで2対0南アの勝利。
 ナイロビで会ったトシと再会する 。
 宿代を精算すると所持金3.01R(35円くらい)になる。何もせず、できず過ごす。 

●2002年5月22日

  ケープタウン(0km)
 宿から歩いてすぐのインターネットカフェが24時間営業で0時から8時まで40%の深夜割引になる。早起きしてその時間を狙って行く。まだ暗く路地裏を覗くと寝ている人たちがいる。
 戻ってきてCNN.ほかの宿泊客はたいがいまだ寝ている。印パ国境で撃ち合いという不穏なニュース。1ドル127円と円高傾向だというちょっと嬉しいニュース。
 宿に一冊だけ日本語の文庫本があって、シャーロック・ホームズ、舞台は1900年前後のイギリス。ワトソンが南アの金鉱に投資するか迷っている逸話が出てきて、なるほどそういう時代かと思うと面白い。

●2002年5月21日

  ケープタウン(0km)
延長戦の末、敗北。朝イチでSTAトラベルを訪れると、本日発の席はやはり空かず。しかも時刻が21時と遅く変更になっていた。そこで正午過ぎまで待ち、かつその場でトルコ航空に直に電話してもらって、『席くれ」と言ったが、ダメだった。
 仕方がない。また日本領事館に通って読書で過ごすしかない。
 夕食スーパーで売っていたダチョウの肉を料理する。食感は鶏より牛にちかいが、硬い。 

●2002年5月20日

  ケープタウン(0km)
 ケープタウンはビルが整然と立ち並び治安もそれほど悪くない。南アの首都というと普通行政府のあるプレトリアを指すが、司法府はブルームフォンテン、立法府はここケープタウンに置かれている。ヨハネスブルグを商業府とすれば四権分立。それでうまくいっているのかどうかは知らないが、日本も多少は見習ったほうがいい。なぜ日本の首都移転の話はいつもどこに”造る”かという大工仕事と自然破壊の計画にすりかわってしまうのだろう。
 領事館へ行って本を読んでいると女性旅行者がやって来て窓口でパスポートを強盗に盗られて再発行云々という話をしている。ケープタウンの治安、南アとしてはマシなほうだが、やっぱりそんなにいいわけではないらしい。パスポートといえば先週驚いたのが、ここ領事館の本棚の本の中からコロッと『日本国旅券」と書かれた赤い冊子がころがりおちてきたことだった。窓口に届けると先日紛失して再発行した人のものらしかった。辻岡さんもケニアで盗られてナイロビで再発行したと言っていた。けっこう失くす人って多いんだな。

  ●2002年5月19日

  ケープタウン(0km)
 4日ぶりに活動。ロベン島へ行く。アパルトヘイト時代に政治犯、それも非白人の政治犯専門に使用されていた刑務所で、現在は博物館。世界遺産に指定されていることはケープタウンに来て知った。
 日曜のため中心街はひっそりとしているが、V.A.ウォーターフロントと呼ばれる臨海地区だけは観光客向けのショッピングモールになっていて、店も営業、賑々しい。その一角に桟橋があり、ロベン島行きのツアーが発着する。一般の交通手段はなく、ツアーでしか行けない。船代、島内バス代、案内代など込みで100R(1200円ほど)。
 天気は快晴。テーブルマウンテンを背後に従えたケープタウン港の眺めが素晴らしい。港町というのは概して付近に山があり、風光明媚といわれるけれど、千メートルの落差をもったこのケープタウンの景色にかなうものは、世界中探してもなかなかないだろう。
 島に着いてすぐバスに乗り、本土が見える展望所、囚人たちの働かせられた石灰岩の採掘所跡などを巡る。公共交通のない島に郵便局と学校があって妙な感じ。案内は黒人の兄ちゃんで、熱っぽい口調ながら聞き取りやすかった。
 そして刑務所の見学。ここで案内役が年配の黒人に代わる。かってここに収監されていた元 '政治犯’だ。
 島へ渡る船から、泳いでいるイルカが見えた。島の近辺には小さなペンギンの生活圏がある。腕に自信があったら泳いでもいけそうなくらい本土が近くに見えるこの島で一番印象に残ったのは、ネルソン・マンデラが暮らしたという独房ではなくて、他の観光地はひたすら白人ばっかりだったのに対し、このツアーだけは、黒人、カラード、インド系をも含めた有色人種の姿がめだっていたことだった。



●2002年5月18日

  ケープタウン(0km)
 辻岡さんは日本を出て2年。昨年9月のテロのときウガンダ辺りだったというから、かなりゆっくりだ。このあとアルゼンティンに飛ぶといい、向こうはこっちより寒いだろうけど、上着はどっちで買ったほうが安いだろうなどと言っていた。日本との荷物のやりとりの都合でまだしばらくケープタウンにいるつもりらしく、僕同様、領事館で本を借りまくっている。
 CNNあるいはインターネットから情報を得る。インドがパキスタン大使を送還したとか、中山が日本代表に入ったなど。そんな雑談で暇をつぶす。

●2002年5月17日

  ケープタウン(0km)
昨日も今日もSTAを訪ねるが、担当の女性は首を横に振る。経験的には取れるだろうと思っていたのだが不安にもなる。来週の土曜日もダメで次に空いているのが再来週の火曜という。あと10日以上も軟禁されてすることはないのだが、他の航空会社は高すぎる。28日を押さえてもらって21日を待つしかない。発券がヨハネスブルグでなされるらしく、土日を挟む都合上支払いが必要だと言うのでクレディットカードで決済をすませた。
 日本領事館へ。土日に備えて本の借りだめをする。
 鳥肉買って鍋で煮込む。中国醤油と誰かが置いていった香辛料で味が整った。

●2002年5月16日

  ケープタウン(0km)
 もっと寝ていたかったが習慣で7時ごろ起きてしまう。宿のテレビは地上波しか入らないが朝8時までCNNが放映されるのでこれを見て、朝食にする。
 CNNなんか見てると、世界は欧米を中心に回っているなあという感を強くする。アメリカの局だから当たり前だけど、ブッシュはしょっちゅう登場するが、小泉は滅多に見ない。それでもJAPANの文字は画面下にテロップで流される経済ニュースなんかでたびたび見かけるが、ほかのアジアの国やアフリカの国々なんて本当に出てこない。欧米以外で報じられるのはパレスティナばっか。
 昼間は曇り。洗濯しようと思ったけれど雨に変わったのでやめた。

●2002年5月15日

  ケープタウン(0km)
 航空券を買いにSTAトラベルという旅行代理店へ・一番安いのはトルコ航空。これがダントツに安くて、週2便火、土なのだが今週土曜どころか来週火曜、その先もずっと混んでいるという。一昨日訊いた時は空いているという話で、どうも窓口の男はあてにならない。昨日宿にきた辻岡さんという年配のおじさんと一緒にきたのだが、辻岡さんははじめ学生にしか販売できないと言われ、そのあと別の女性の店員に尋ねると学生でなくとも対応してもらえた。もう一軒大手旅行社のフライトセンターを訪ねると、来週の火曜は取れるという。ただこっちだと値段が高いのでSTAへ戻る。幸いというべきか男の店員はおらず、女性のほうに訊く。つまりは来週の火曜一般用の席は空いているがSTAで扱っている格安席は混んでいるとのこと。予約をいれて回答待ちだというので、そうすることにした。また片道だと入国できないと言われ、往復より東京行片道のほうが安いので、こちらにした。イスタンブール片道で行ける気もするが、実際バンコック、ムンバイ行きで搭乗拒否の実例を知っているので、安全策だ。ちなみにケープタウンからイスタンブール片道2685R、イスタンブール往復3765R,東京片道3256R(税込み1R=約12円)。南アは航空券が安いと評判だったが、確かにそうだった。
 午後、国立博物館へ。動物の剥製や鉱物の説明など理系的な展示が多い。3日前歩いた疲れに昨日の登山が加わって、足が強度の筋肉痛。 

●2002年5月14日

  ケープタウン(0km)
  晴れた。テーブルマウンテンがくっきり見える。昨晩ご飯を作りすぎて弁当が即座にできたこともあって、即決で登りにいくことにした。
 標高1086mケープタウンの市街から歩いて登れ、当然海からも至近距離という絶妙な位置にそびえている。さすがに標高差千メートルは並みではなく、宿から4時間ぐらいかかる。途中風がやたらに強く、ロープウエイが止まるほどだったが、”テーブル”の上に達すると凪ぎいていて不思議。
 テーブルは本当にテーブルという表現がぴったりで平たい。見渡してどこが山頂なんだろうと思ってしまうほど。昨日雲をかぶっていたせいか、湿っぽくなっていて、木道まであって尾瀬のよう。いくらか盛り上がっている岩石群の上が最高標高点でこれは絶景。360度広がる視界のうち270度は海。南には喜望峰、北の湾にはネルソン・マンデラが拘留されていたことで有名なロベン島が見えた。ケープタウンの街は近すぎて山頂からでは見えず、テーブルのヘリまで行くと、眼下に見下ろせた。
 下り。15時すぎても登ってくる人が多い。ロープウエイは動いていたから夕陽でも見てから下るのだろう。

●2002年5月13日

  ケープタウン(0km)
 朝から夕方まで一日中どんよりとした曇り空。テーブルマウンテンには雲がかかりっぱなしで、洗濯物はいっこうに乾かない。
 日本領事館で新聞を読む。カイロ以来の新聞だ。イスラエル・パレスチナ問題が連日大きくとりあげられていて、国内では政治汚職。どっちも相変わらず。成田空港暫定滑走路供用開始、仙台・成田線が就航したらしい。学生時代にあれば使っていたかな?日本ハムの札幌移転計画には驚く。新聞は細かなある意味どうでもいいような情報も多くて面白い。ワールドカップの案内チラシが置いてあり、これを頂戴し、日本語の本の貸し出しをしていたので何冊か借りた。久しぶりに漢字と仮名が脳に注入される。
 旅行代理店で航空券の下調べをし、午後はスーパーや本屋をぶらぶらする。
 宿には日本人が一人いた。「やりたいことが見つかったから帰国する」と言い将来アフリカに戻ってきて住む、と言っていたが一体何をするつもりなのかは訊かなかった。ザンビアのルサカが気に入ったみたいだが、なぜだ?僕は日本以外住みたいとは思わない。アジアならともかくアフリカはいやだ。 

●2002年5月12日

  サマーセットウエスト→ケープタウン(43.5km)
 スラム街というものを初めてまともに見た。ケープタウンの手前30kmほどの地点から道沿いに延々とスラムの風景が続くのだ。板切れやトタンを継ぎ合わせただけの家。洗濯物がひるがえり、子供達が走り回っている。都心部の高層ビルの谷間の路上生活者は幾度となく目にしているが、ゴミの山のようなスラムを見る機会は今までになかった。
 わざわざ見に行ったわけではもちろんない。片側ニ車線の高速仕様の近代的道路から緑地帯を隔て、高さ2mほどの垣根を挟んですぐ向こうは”別世界”なのだ。
 テーブルマウンテンをかすめるように丘を越える。ゴルフコースがあり、立派なホテルが建つ。大西洋が見え、高層ビル街が望める。高級住宅街の家の門という門には警備会社の小さな看板がくくりつけられている。汚い格好で近づくと狙撃されそうだ。
 アフリカ最後の町ケープタウンに到着。 

●2002年5月11日

  セルドン→サマーセットウエスト(71.9km)
 賭けに負けた。後輪の具合がまた悪くなった。途中見つけた店でスパナを借りて応急処置をしたが、また駄目になる。
 諦めていったんはヒッチハイクを試みる。ケープタウンまで残り60kmだった。だがなかなか車が止まってくれないのを見送っているうちに、アフリカのゴールを車で遂げてしまうのが嫌になった。
 自転車に乗れることは乗れる。ただ無理をすると全面的に壊れそうなので、自転車と徒歩をからめていくことにした。ダグラス岬に行ったから喜望峰はまあどうでもいい。
 峠を登る。登りきると湾が見えた。その向こうにケープ半島、その先が喜望峰、手前がケープタウンの街だろう。下り坂後輪が吹っ飛びそうで怖かった。

  ●2002年5月10日

  アグラス岬→セルドン(103.8km)
 アフリカ最南端の日の出を拝んで出発。岬の日の出というと水平線に昇る太陽を思わず期待してしまうが、当然太陽は陸側に昇る。七時半近いかなり遅い日の出だ。
 天候は上々、しかし困難は別のところで発生する。昨晩、アグラスの町に着いたところで後輪に異常を感じたのだが、改めて確認してみると、軸と軸受部が固定されてしまい回らない状態であることが確認された。
 車ヒッチしてブレダースドープの町へ。自転車屋では部品交換を勧められたが、他にもペダル部や変速器などいろいろおかしくなっていて、イスタンブールでまとめてどうにかするつもりだったので、軸の固定をゆるめてもらい、とりあえず走れる状態に戻し、ケープタウンまでこれでだまして行けるだろうと思った。
 丘を無数に越え、正面に太陽を受け、疲れた。 

●2002年5月9日

  スウェレンダム→アグラス岬(93.2km)
 アフリカの最南端はどこか?この問いにひっかかる人は多いのではないだろうか。僕も今回アフリカに来るまで、間違って覚えていた。
 アフリカ大陸の最南端の地は喜望峰ではない。喜望峰から南東へ約200km、ポルトガル語で『針」を意味するアグラス岬が真の最南端だ。
 正午すぎブレダスドープという町を通過。北中する太陽の位置は低く、この地点で既に喜望峰の南緯を越えている。そこから逆風の中35kmあまり、3時間もかかってアグラス岬に着いた。
 ガイドブックや観光案内ではことごとく軽視されている感のあるアグラス岬、それでも自家用車数台と観光バス一台(空いていたが)が来ていた。
 大西洋とインド洋2つの大洋が出会う場所、南極点まで6135kmとある。ここから先は南極の海であるともいえる。
 エジプトから3ヶ月半ついにアフリカの南の端に着いた。この後オマケの喜望峰に寄ってケープタウンまで気分的には消化試合のようなものだ。
 キャンプ場にするかどこかに野営するか迷ったが岬に張れそうだったので、本当はいけないのだろうけど、最南端に泊まってしまった。

●2002年5月8日

  リバースデイル→スウェレンダム(115.3km)
 晴れた。いきなり快晴。でも朝は寒い。牧場の地面すれすれに寒さのせいで発生しているものかよく分からないが、霧のように雲がたれこめていた。
 かなり起伏の激しい上り下りが続く。でも町が多く、補給しやすいので楽だ。沿岸地方は早くから白人が入植してきた土地のせいか、見かける白人の割合が高い。
 スウェレンダムで買出しをして10kmほど走るとアフリカ最南端への標識がお目見え。いよいよアフリカの旅も佳境だ。

●2002年5月7日

  モッセルベイ→リバースデイル(98.0km)
 モッセルベイの案内冊子にここは年間通して世界で2番目に恵まれた気候だ、と書かれているが嘘だ(ちなみに1番はハワイらしい)。おととい、昨日、そして今日も雨含みの曇天。このままケープタウンまでずっと雨だったらかなりしんどいなと憂鬱になるが、風の強さ、雨の量、寒さともいくらかましか。相変わらず降ったり、晴れたりの天気で、昨日から何度も空に虹を見た。

   ●2002年5月6日

  モッセルベイ(0.0km)
  天気はあいにくの大荒れ。風がやたらに強く、雨雲が次々と山側からやってきては、インド洋上へと去っていく。晴れ間がのぞいたかと思えば10分後には雨だ。
 モッセルベイは1488年、アフリカ南端を見つけるために航海に出たバーソロミュー・ディアスが、嵐のため大きく迂回路をとり、それと気付かぬうちに最南端を通過、そして辿り着き「発見」した土地とされる。
 彼の名を冠した博物館複合施設には、50年後にその航海を再現してわざわざリスボンから運ばれてきたという復元船をはじめ、大航海時代を物語る資料が展示されている。のちの航海で遭難したディアスの死を伝える手紙が託されたという郵便局の木なる史跡も残されていて、当時の冒険を感じさせる。ポルトガルの船乗りたちが、インド、中国と来て、日本を「発見」したのが1543年、当時イスラム勢力に押されっぱなしだったヨーロッパが、やがてアジアを凌駕することになる最初のきっかけがここにあると思うとなかなか興味深い。
 夕食は中華の持ち帰り。店主は台湾人で、アジア人客が珍しいのか話しかけてきた。それにしても風が寒い。よほど防寒具を買おうかと思ったが思いとどまった。代わりに、度数の高い酒を買った。

●2002年5月5日

  ロビンソン峠 → モッセルベイ(51.7km)
 太平洋側と日本海側で気候が異なるように、南アも内陸部と沿岸部では乾期と雨期が逆だ。峠を越えると途端にそこから先、一面どんよりと灰色の空、5月はまだ雨期の始まり、まだ晴れているだろうと思っていただけにがっかりだ。
 坂を下りインド洋に面した港町モッセルベイに着く。空模様が心配で宿にしようかと思ったが、岬の先端のキャンプ場へ。5月2日から冬の閑散期料金で一泊40R(約500円)海に面した側は50Rと書いてあったが、どこに張ってもいいと言われたので海側に陣取った。
 夕方から、ついに雨。風が強く、かなり寒い。隣のキャンピングカーのおじさんが雨よけのシートを貸してくれた。

●2002年5月4日

  クラアルストローム → ロビンソン峠(104.5km)
 酔っ払いオヤジどもは、週末だからなのか夜通し起きていたみたいで、うるさくてあまり寝られず。しかも、バナナを勝手に食われた。でも、最後にお金を要求されるようなこともなく、純粋に、外国人それも東洋人と話をしてみたかっただけ、そんな印象が残った。
 アメリカで夜行バスに乗るときなど周囲が黒人ばかりだと、ちょっと怖いと思う気持ちがあった。黒人と直接接したことがなく、先入観として、貧しい黒人は犯罪率が高い、という思い込みだけがあったからだ。
 アフリカへ来て、周り全員黒人ばかり、ザンビアで駅に泊めてもらったりする内に、黒人に対する恐怖感、警戒感は自然に消えた。みな陽気で親切、気のいい人が多い。
 それが南アに来てまたちょっと違う。露骨なまでの生活格差の底に置かれた黒人たちを見ると、以前と認識は異なるが、同じ種類の、黒人に対する間隔が少しよみがえってきた。
 村を出てすぐ、メイリングポールトという深い渓谷の道に入る。谷底を流れる川を何度もまたぐように橋が架けられ、せせらぎの上を通る道になっている。
 ダチョウの飼育で有名なオ−ツホーンの町を通過。峠を越えればインド洋だ。

●2002年5月3日

  ビューフォートウエスト→クラアルストローム(123.6km)
 このまま1号線を南西へひた走れば4日でケープタウンの距離なのだが、左折して南下、インド洋を目指す。単調な荒野がまたも続くがやがて赤茶けた山並みが近づいてきて、山あいのくねった道に入り、小さな村に辿り着く。
 泊まる場所を探していると一人の黒人(といってもこの辺りだと肌の色はだいたい褐色だが)が、アフリカーンス混じりの分かりにくい英語で来いと言う。店が一軒しかないようなひなびた農村だが、こんな村でも中心部に立派な家を構える白人と、はずれたところにボロ屋を並べた黒人との住み分けがされていて、案内されたのはその一角、子供達や犬や酔っ払ったオヤジどもがたむろする敷地だった。案内してくれた男も酔っ払っていて、ガンジャ(麻薬)を勧めてきたりして、いささか雰囲気が良くない。本当にお前は旅行者か?スパイじゃないのか?などと変な絡み方をしてくる。
 これまた酔っ払った別のオヤジが話しをしたい、家に泊まりに来いと絡んでくる。絡んできているだけとしか思えなかったが、姪だという女の子がここにいるのはストリートファイターばかりだから、おじの家のほうが安全よと言うのでその言葉を信じて移動。
 多少豊かなのか電気と水道がついた家。カーテンで仕切られた居間と寝室がある。酔っ払いオヤジと友人の男若干名、姪を含めた女の子3人組、人数が減ったこともありいくらかくつろげる。彼女たちは酔ってなく、かつ英語もオヤジたちよりできるので、半ば通訳代わりで話が弾む。気が付くと夜11時をまわっていた。 

●2002年5月2日

  ビィクトリアウェスト→ビューフォートウエスト(128.8km)
 5月の2日目。冬が来たと思えるほど寒い朝。ヨルダンの雪のあったキングスハイウエイ以来手足がかじかむのをおぼえた。
 スリーシスターズという妙な地名の三叉路で国道1号と合流、16時すぎ久しぶりにまともな町ビューフォートウエストに着く。観光案内所で次の目的地モッセルベイなどの資料を入手。ザンビア以来度々世話になっている大型スーパー、ショップライト(英国資本だろうか?)でカレーの惣菜(432gsw6.87R,約800円)など食料を調達、荷物が満載になった。 

●2002年5月1日

  ブリッツタウン→ビィクトリアウェスト(129.1km)
 今日から5月。日本はゴールデンウイークの真っ只中。鯉のぼりの舞う季節だ。ワールドカップの開幕までひと月をきって、がぜん盛り上がってきているころだろうか。プロ野球はとうに始まっているはずだが、こちらは活気があるのだろうか。
 外国にいると、ときに季節感が狂う。8月のメキシコ中央高原が涼しかったり、10月のイタリア南部が暖かったり、2月のスーダンが暑かったり。
 そして5月の南アフリカは晩秋だ。天気がいいので昼はそれなりに暖かく、Tシャツで充分なくらいだが、夜はさすがにぐっと冷える。日も短くなった。時差ボケならぬ季節ボケという感じだ。
 相変わらず荒野が続く。町と町の間隔100km。特に午前中は快晴で、ケープタウン、ヨハネスブルクの航路の真下にでもあたるのか、真っ青な空に飛行機雲の白い筋だけが幾本もやたら目立っていた。