ふねしゅーの地球紀行
    2002年4月
               



●2002年4月30日

  ホープタウン→ブリッツタウン(138.4km)
 ザンビアのルサカからビクトリア滝の周辺を除いて、ずっと標高1000m以上の台地の上を走っている。昨日と今日は下り坂が多い。急な下りではなく、遠浅の浜辺のような長く緩やかな坂だ。徐々に台地から下りていくのだろう。
 昨日は逆風だったが、今日は追い風で体力的には楽。でもひたすら荒野の連続でつまらない。村も集落もなくぽつぽつと農場があり、井戸水の汲み上げ用のためのものか、風車がくるくると回っているだけ。地平線も毎日見ていると飽きる。
 町に着いて何か気のきいたものを食べようかと思うが、店を経営しているのはたいがい白人で、レストランとかテイクアウェイの看板があっても、サンドイッチ、バーガー、チップスの類しかない。他になにもないくせに飽和と思えるくらい宿の看板が目立つ。時期によっては賑わうのだろう。 

●2002年4月29日

  キンバリー→ホープタウン(132.7km)
 ダイヤモンドの街キンバリーから希望の街という名のホープタウンまで国道12号のこの区間は戦場の道、Battle Field Route と名付けられていた。今はただの原っぱでしかないが、最初に入植してきたオランダ人の末裔ボーア人と後からきたイギリス人との間で勃発した植民地争奪のアングロ・ボーア戦争の舞台ということだ。
 キンバリーで初めてケープタウンの方向を示す標識がお目見えしたが、郊外に出るとその表記がCape Town ではなくKaapstad に変わった。900なんkmという標識がなければ気づかなかったかもしれないが、後者はオランダ人が付けたケープタウンの旧称だ。昨日ビッグホールでちらほら見かけた白人観光客たちは英語ではなくボーア人の言葉アフリカンス語(オランダ語とどう違うのかよく分からない)を話していた。ホープタウンの商店の白人たちも英語ではない言葉を喋っていた。どうやらこの地方はアフリカーンスのほうが強いらしい。 

●2002年4月28日

  スリップクリップ→キンバリー(37.2km)
 ブラワヨあたりから博物館の説明書きやロンリープラネットの該当頁にセシル・ローズという名前を見かけるようになった。鉄道の建設などイギリスの植民地経営に貢献し、ケープ植民地の首相まで務めた人物で、ザンビアやジンバブエの旧ローデシアは彼の名を冠したものであるということだ。
 そんな国の名称にまでなった男セシル・ローズがダイヤモンドの採掘で富を成した町、それがキンバリーである。深さ215m、人力で掘られたものとしては世界最大というダイヤモンド採掘の巨大な穴、その名もBig Hallが残されている。穴の周りは当時の植民地としての街並みを再現した野外博物館になっていてそれなりに面白い。アメリカやカナダによくあるゴールドラッシュ当時の、というやつと同じといえば同じだが、規模がけっこう大きかった。
  キンバリーは北ケープ州の州都で、日本での県庁所在地くらいの都会。しかし、残念なことに日曜日で店という店はことごとく閉まっていてゴーストタウン。所在なげに寝そべっていたり、ゴミ拾いをしている黒人の姿が富にとり残された者たちの現実を映し出していた。
 キャンプ場はビッグホールの隣にあり30R(約360円)。でかいキャンピングカーの白人家族連れで賑わっていた。誰が使うのか(僕は使ったが)風呂付きでびっくりした。 

●2002年4月27日

  ドライハーツ→スリップクリップ(134.4km)
 タンザニアの宿帳にはたいてい、部族名を記入する欄があった。ザンビアやジンバブエで出身部族は何だと訊かれたこともあった。どちらの場合もJAPANとしか答えようがない。
 日本は朝鮮半島から渡ってきた人々、北方に住んでいたアイヌの人々、南から琉球を経てやって来た人々、色んな血が混ざり合った混血民俗国家だと思う。
 アフリカはというとたしかに、マサイとかサン(ブッシュマン)とか部族ごとに近代まで別々に分かれていたようなイメージがあるけれど、こっちの歴史教科書など見ると、もっとごちゃ混ぜになっている感じもある。民族の大移動やいくつもの王国の興亡が繰り返されている。東アフリカにはアラブの影響を受けたスワヒリという混血文化があり、南部アフリカでは白人の植民の結果、カラードと呼ばれる混血の子孫たちが生まれた。
 日本人はたいてい自分は日本人だと思っているが、アフリカの人たちは自分を何人だと認識している場合が多いのだろう。南アは多民族を抱え、全部で11の公用語がある。昨夜泊めさせてもらったところの少年は自分の言葉はツワナ語だと言っていた。ボツワナの言葉じゃないかと調べてみると、南アの公用語の中に、ツワナもちゃんと入っていた。 

●2002年4月26日

 セトラゴレ → ドライハーツ(137.6km)
 ボツワナのときと似た景色、野原と牧場がひたすら続く。町に着くとスーパーなどには白人の姿が目立つが、田舎道を歩いているのはほぼ黒人。すれ違う車に乗っているのは白人と黒人が半々くらいだ。
 昨日、南アも人がいいと書いたが前言撤回。今日はテントを張るのにお金を要求され移動。移った別の店でもおばちゃんがいくら払うなどと訊いてきて(撤回したが)やな感じだ。
 店の子供二人はいい感じ。小学生くらいの弟は興味津々なのかなにかと寄ってきて可愛い。その彼と地図を広げて見ていると、中学生くらいの姉が学校で使っているらしき地図帳を持って来て見せてくれた。南アの各州がまず紹介され、次ぎにアフリカ、そのあとに他の大陸。日本も1頁さかれて全体図がどんと載っていて、けっこう立派な地図帳だ。アパルトヘイトがどの程度の「隔離」だったのかよく知らないが、ひょっとすると以前は、黒人の子供はこういうしっかりした教材で学ぶこともできなかったのではと、ふと思った。
 昼間、冷えた牛乳1リットルをガブ飲みしたのがいけなかったのかお腹が痛い。

●2002年4月25日

 ラマトラバマ → セトラゴレ(115.4km)
 朝7時過ぎの国境越え。いよいよアフリカ最後の国南アフリカだ。ボツワナ、南ア最後の2カ国はビザ不要で嬉しい。
 25kmほど走り、マフィケンという町へ。郊外に巨大なショッピングセンターがあり、市の地域が漠然としていて中心部へ行くのに迷う。両替をしようと銀行を訪ねるが、なんと手数料80ランド(R)以上(900円以上)、余ったボツワナプーラ50p(1000円余り)を両替できず。まあケープタウンでどうにかなるだろう。
 マフィケンを出ると広大な草原。ゆるやかな丘が延々と続き、牛や羊が草を食べているのどかな風景。村と村の間隔は思ったより遠く、16時半ごろ着いたセトラゴレという村で泊まる。二日連続で警察泊になった。
 ボツワナの人たちは南アは危険だぞと脅すように言っていた。僕自身もアパルトヘイトのしこりなどまだ残っているだろうし、金持ち旅行者への反応もあまりよくないだろうなと懸念していた。今日のところ第一印象はそんなことなし。警察は二つ返事でその辺にテントを張っていいよと言ってくれ、村の中心部まで1kmほど歩いていたら、車がすーっと停まって乗せてくれた。
 夕食はハップとよばれるウガリが主食。鳥肉とジャガイモなどが添えられて9ランド(110円)。 

●2002年4月24日

 ハボロネ→ラマトラバマ(127.7km)
 ずーっとひたすら平坦で単調だった道が、ハボロネの前後からにわかに丘になる。南アは景観に富んでいるという話だが、坂が厳しかったら嫌だなと考えながら走る。
 久しぶりに他の自転車旅行者と出合った。年配の2人組、一人は夏の間はスイス、冬の間はケープタウンに住んでいる(つまりどっちも夏になる)というスイス人、もう一人は南アフリカ人だと言っていたが今はハラレに家があるらしい。
 そして国境へ。今日のうちに越えてしまってもよかったがボツワナ側で泊まる。ガソリンスタンドで警官に話し掛けられ、成り行き上警察(国境警備隊ということになるのか?)の敷地内に泊めてもらうことになった。 

●2002年4月23日

 ハボロネ(0km)
 僕はその町の駅を訪れるのが好きだ。駅は人々が集まるところであり、その町の顔でもある。入場無料の博物館を見学した後駅へ向かった。
 ハボロネの駅前にはこれまたショッピングセンターが建ち、それを囲むように屋台や露店が建ち並んでいた。ザ・モールに比べるといくらか庶民的な賑わいだ。天幕の中に食堂を見つけ入る。お米とウガリともう一種、豆と芋だかを混ぜ合わせたものから主食を選び、鳥肉か牛肉か、そして野菜の添え物を選ぶ。7p(140円)とやや高めだが、量は多かった。
 ザ・モールへ向かって歩く途中さっきの食堂を小規模にした屋台がそこかしこに出現していた。ちょうど昼飯時白い持ち帰り容器に入れてくれるのを官庁や店舗の勤め人たちが買いに来るのだ。きっとほか弁のような感覚なのだろう。
  午後は本屋で暇つぶし。英語の本がズラリと並んでいて、いまさらながら英語が母国語の旅行者が羨ましい。ロンプラ南ア版を解読していたら、立ち読みが長すぎると怒られた。

●2002年4月22日

 アルテシア→ハボロネ(90.9km)
 ここ2日ほど曇りがちの朝だったが、今朝は快晴。放射冷却か南に来たせいもあるのか、明け方は寒く、テントも朝露で湿っている。
 首都ハボロネへ。国土の大半をカラハリ砂漠に覆われ、そもそも人口の少ないこの国の首都は13万人余りの人しか住んでいない。キャンプ場は町の中心から1kmほどしか離れていないが、もう緑に覆われている。
 キャンプ場から野原の中の街道を歩くと、目の前に宇宙船みたいな銀色の巨大ビルが忽然と現れる。その辺りから政府関係の建物が並び、少し進むと町の中心、単純にザ・モールと呼ばれる商店街に着く。
 日本で例えるならさしずめ大都市近郊のニュータウンの駅前といった雰囲気。駐車場が周囲にあり、モールの中は歩行者天国。銀行、郵便局、スーパーが2軒あり、本屋、薬屋、ファーストフードが並んでいる。民芸品を並べた露店と電話屋(携帯の売り込みかと思ったら、電話の出張交換局のようでもあって謎)が多い。全体として新しくてこぎれい。白人を見かける率も高くなってきた。まだアフリカだがだんだんアフリカでなくなっていく。そんな感じだ。

   ●2002年4月21日

 マコロ→アルテシア(172.0km)
 南回帰線を午後2時過ぎに越えた。標識があるだろうと思っていたらなかなかなく、これは何もないのかと思ったら、現れた。南北をひっくり返すと、北回帰線は台湾を横切っている。ケープタウンは南緯34度で、逆さにするとだいたい東京や大阪に近いあたりだろう(手元にアジアの地図がないので未確認)。そう考えると、まだ先は遠い。
 今日は全般的に追い風、平均20kmを越える快調な速さで進む。古い道のすぐ横に新しい道を造ると言う趣旨のよく分からない道路工事(一応幅が広く、勾配もゆるめにはなっているようだが)をさかんにやっていて、ところどころ路肩がないのが嫌だ。
 夕方また検問。荷物を開けろと言われるが、勝手にやれこっちは疲れているんだ、どうせ服しか入っていないし、俺は座ってまってるとまくしたてたら、行ってよしになった。
 3日連続のビール。日々唯一の贅沢だ。

     ●2002年4月20日

 マコモト→マコロ(146.0km)
 朝のうちは一面薄い雲が張っていたが、やがて晴れ、昼ごろには暑くなってくる。ジンバブエとの国境、フランシスタウンの手前にもあった消毒検問がまたお目見えする。ジンバブエが汚染されているということではなく、こちら一帯の土壌か植物に何か潜んでいるということなのだろうか。
 ちなみに熱帯性の病気の最右翼マラリアの汚染地域とはそろそろおさらばだ。今日は土曜、毎週一回のメフロキン(予防薬)の日。汚染地域を脱してもしばらく飲み続ける必要がある。南アで発病するよりむしろ、日本やトルコへ飛んでから患うほうが医師にマラリアを診た経験がなく、薬も揃っておらず、危険が高いという話だ。 

  ●2002年4月19日

 ツェセベ→マコモト(104.0km)
 泊めてくれた兄ちゃんは朝4時から近所の工場で仕事。でも僕が出発する7時半頃に戻ってきてくれ別れの挨拶を交わす。だがその直ぐ後パンクが発覚、修理してからの出発となった。後輪のタイヤが破れてきていて、ブラワヨからだましだまし乗っていたけれど、さすがに限界だ。
 正午すぎ第二の都市フランシスタウン着。人口10万足らずの小さな町だ。町中のATMが壊れているらしく、窓口で現金両替、そして自転車屋でタイヤを交換する(39.6プーラ=約800円)。
 夕方小さな村というか集落の一軒の店へ。次の村まで15km、行けない距離ではなかったが、感じのよさそうな店だったので、ここでテントを張らせてもらうことに。やたら笑い声のけたたましいグラマーな姉と、学校を出たらカンフーを習いにアジアへ行きたいんだと話す弟がやっている店で、ここで買った缶ビール片手に酔っ払っている男たちが話しかけてくる。このところよく訊かれるのが、スポンサーはいるのかという問い。by myself と答えると皆一様に驚く。一人で計画している実行力を誉めているのではなく、長旅を続けられるだけのお金が続くことにびっくりであるようで、こちらとしては、どうもそのテの話題は苦手だ。

  ●2002年4月18日

 ブラワヨ → ツェセベ(147.6km)
 今日もいい天気。やっと本来の乾期が戻ってきた。
 昨日、宿のカレンダーを見ていて、今日4月18日が着色されていることに気づいた。尋ねると、独立記念日であるらしい。1980年の独立とずいぶん遅い。僕の生まれたころはまだ、世界地図には英領南ローデシアとでも記されていたということか。
 100kmほど走り、国境手前の町プラムツリーで買出し。祝日だけれど、SPAR(日本だとコンビニだけれど、こっちでは大きなスーパー)がやっていた。残った300Z$ほどを全部パンやジュースや菓子に換える。明日の昼フランシスタウンに着くまで両替のできない可能性があるから、食糧確保だ。
   そして、ボツワナ入国。国内滞在先にハボロネのシティキャンプと書いたら、住所は?と突っ込まれた。そのあと、門のところに水たまりがあり、なんだろうと思うと、実は殺菌のための消毒液だった。靴と自転車の両輪をつけろと言われ、自転車のタイヤが真っ白になった。
 ツェセベという町。ザンビアのときみたいに駅で泊まろうと思ったら、一人の男が来て、すぐ近くのうちに泊まれと言う。床に寝袋を敷いて寝るだけだが、簡単な夕食を出してくれた。ボツワナもやっぱり主食はウガリ、ここではマベレと呼ぶらしい。

●2002年4月17日

 ブラワヨ・カミ(47.5km)
 昨日の午後からやっと晴れ。ブラワヨ近郊にあるもう一つの世界遺産、カミ遺跡を日帰りで訪れる。もともといく積もりはなかったのだが、もう1泊するだけのジンバブエドルの余裕があり、また、雨や曇り続きで洗濯物がろくに乾いておらず、さらに、グレートジンバブエと対比して見るのも面白いだろうと思ったからだ。
 グレートジンバブエの文化を継承する形で建てられたカミ。カミ川に沿った丘の上に王宮跡の建築群、その周辺みも居住区や宗教施設の跡が点在している。グレートジンバブエのように大建築がないぶん、たしかにこじんまりとしていて、なんだか日本によくある城跡公園のようだった(石垣ばかりが残っているので)。いわれはよくわからない(説明がないので)のだが、ポルトガル人によるものだろうという十字架の刻まれた岩の置かれた、十字架の台座というのがあって、なんだか地域全体のその後の運命を感じさせた。

●2002年4月16日

 ブラワヨ(0km)
 郵便局やインターネットなどの用事を済ませつつ、ブラワヨの街を散策。中心部の表通りには、銀行、スーパー、専門店のショーウインドウなどが並び、華やいだ雰囲気。こういう西洋的な街並みは世界中どこへ行っても同じだ。一歩はずれてバスターミナルの界隈に出ると、手押し車あるいは固定式の屋台、露店がずらずらっと並び、果物や生活用品を売っている。人間もわんさといて、突然、途上国の風景に切り替わる。
 国立博物館(800Z$)に足を伸ばしている途中、さっき投函した封筒の封をし忘れたんじゃないかと不安になる。しっかり博物館を見学してしまったあと急ぎ足で郵便局へ。たぶん冷たくあしらわれうだけなんだろうなあと思っていたら、ジンバブエ人はなかなか親切で、待たされること十数分、すでに消印が押されやっぱり開いたままになっていた封筒(中身は無事)を探し出してきてくれた。
 壊れたサンダルを買い替え(1000Z$,約500円)。身に付けるもので日本出発時から残っているものは、これで短パン1着と靴1足(これもそろそろヤバイ)だけになった。

●2002年4月15日

 グレートジンバブエ(0km)
 今日こそ晴れるだろうという期待感は裏切られた。土砂降りでこそないが、標高1000mの遺跡は雲の中。ガスの中を歩く登山のような見学となった。中東の遺跡に青空が似合うとしたら、森の中のジンバブエは霞が似合う、そう思うしかない。
 まず、昨日は上から眺めた円形の大城壁(Great Enclosure)へ。周囲200mでさながら何かの競技場のような外観。中に入ると内側にもまた城壁があり、片隅には存在感のある高さ10mの円錐の塔(Conical Tower)が立っている。宗教的祭事に使われていたと推察されているらしい。
 居住区だったという谷の遺跡群。19世紀当時の姿を残すジョナ族の村、そして昨日訪れた丘の建築群にもう一度登り、しかし展望なくがっかりしてから下山。最後に博物館を見学した。遠く中国とも、小さいながら交易のつながりがあったことを示す陶器の展示や、魂の世界との意思疎通を仲介とするといわれ国の象徴にもなっているジンバブエバードの彫像とその説明など、充実していた。
 中米のアステカやマヤの遺跡を訪れた時も同じ事を思ったが、エジプトなど北部を除くアフリカの歴史もまた、世界史の教科書ではわずか数行の扱いだった。だが、博物館にはまた、11世紀頃より19世紀に至るまでの王朝の変遷や王たちの系図が説明されていて(特に初期については、文字記録もないため、伝説によると、との断りつきだったが)、立体的で深みのある歴史を歩んできたことをうかがわせた。
 午後、雨の中をブラワヨへ帰る。マシンゴからのバスはなんと雨漏りのするバスで大変だった。ブラワヨに着くと雨はあがったが、がらがらだった宿が混んでいて驚いた。

●2002年4月14日

 ブラワヨ → グレートジンバブエ(0km)
 サハラ砂漠以南のアフリカ最大の遺跡グレートジンバブエ。ジンバブエというのは石の家という意味らしく、それが現在の国名の由来にもなっている。アフリカの古代遺跡がどんなものか見てみたい、そう思っていたことが、ジンバブエ入国を決心した大きな理由の一つでもある。
 今日もまたどんよりとつまらない色をした空。ブラワヨからマシンゴという町までミニバスで4時間半(800Z$)、バスをここで乗り換え、約30分(70Z$)でグレートジンバブエへ。もっともバスは遺跡の入口まで行かず、分岐から2km、さらに入口から宿泊施設まで1kmほどもあり、途中で雨も降ってきて疲れ果てた。入園料800Z$(400円弱)、ドミトリー宿泊300Z$(150円弱)と予想より安かったのが嬉しい。
 雨はまもなく収まり、夕方までまだ時間があったので、下見気分でさっそく遺跡へ。見所は広範囲に点在しているが、そのうち丘の建築群(HIll Complex) と呼ばれる王宮跡を訪れた。ふもとからの高低差が100mほどもあり、山城といった趣きである。丘の上には石造りの城壁や階段、回廊が形成されていて、ちょっとした迷路のよう。ときおり霞みがはれると、眼下に、もう一つの大きな見所である円形の大城壁や、近くの湖が見えた。きれいに晴れればきっと、大帝国の王の居城にふさわしい眺めが広がるのだろう。

●2002年4月13日

 ニャマンドロヴ→ブラワヨ(49.7km)
   今日は朝からずっと雨。そうでなければすぐ出るつもりが、朝食をいただき、CNNを見せてもらったりしつつ、雨がやまないかと祈る。しかしやむ気配はなく、11時にあきらめ、出発する。
 15時ジンバブエ第二の都市、ブラワヨに着く。濡れ濡れの衣類を干し、街歩き。でも土曜で閉まっている店が多く、バスターミナルでグレートジンバブエへ行くためのバスの確認だけして、宿に戻る。
 宿はガラガラで他に客なし、と思ったら一人だけ日本人の女性がいた。旅行者ではなく、青年海外協力隊で休暇中らしい。彼女曰く、ハラレもここも特に危ないことはなく、平穏だそうだ。ただ、選挙中に限っては、隊員全員一時帰国するか南アに避難するかして、不測の事態を警戒していたのだという。
 どこだってそうだけど本当の状況は行った人、居た者しか分からないものだ。

  ●2002年4月12日

 ルパネ → ニャマンドロヴ(132.7km)
 ジンバブエはこの季節乾期の筈。にもかかわらず今日は雨。朝のうちは曇りだったが、10時ごろから降り始める。たちの悪いことにまともに降り始めてから先、まとまな町はおろか、集落も店もまったく現れなくなる。ときどきピクニック風のテーブルが置かれた休憩所があり、木陰があるほかは雨宿りするところがない。
 これまで雨運だけは良くって、走っているときは降っても30分くらいで止んでいた。一日ずっと降られたのは今回の旅で初めて(自転車に乗ってない日を除く)である。
 やっと店が現れたのは夕方、ブラワヨまで50km弱の地点。それ以上走る気もせず、寝床を求める。と、向こうの農場を訪ねろと言われた。
 家屋や鳥小屋や倉庫や車庫が点在しているけっこう規模の大きそうな農場、青い作業居衣の男たち、掃除や雑用をこなしているらしき女たち、十数人が働いている。おずおずとテントを張らせてもらえないかと頼む。経営主はインド系の人らしく、やや待たされた後の従業員の回答は、部屋の準備ができたからついて来い、だった。
 離れの部屋を一室、それに加えて夕食にカレーまでごちそうになることに。 ご主人とやたらヘビースモーカーの奥さん、4歳くらいの男の子、それに兄弟か従業員筆頭かわからないが男性2名。居間と食堂と台所と応接間をすべて一緒にしたような40畳位のだだっ広い空間に動物の剥製やアジア的な絵画などが飾られていた。

●2002年4月11日

 ディンデ → ルパネ(144.6km)
 ジンバブエ走行2日目。4月も中旬に入ったが、南半球で季節が逆になることを考えると10月の半ばに相当する。日は少し短いし、心なしか色づいたり枯れたりしているような木々もある。日本の秋みたいな、日本人にとってのいわゆる秋!という感じではないけれど、ケープタウンに向かって南に進むに従い、4月から5月に日付が進むにつれ、より涼しく秋めいてくるのだと思うと妙な感覚だ。
 一日どんよりとした曇り空。夕方ルパネという町に着き、一泊380G$ (約190円)と安かったので宿泊にする。ルサカからずっとテントが続いていたから、しばらくぶりのベッドだ。ご飯にビーフシチューをかけたような夕食が130G$(65円)。闇両替効果なのかよくわからないが(公定レートだったら高い)、エチオピア並みの物価の安さである。

●2002年4月10日

 ビクトリアフォールズ → ディンデ(136.8km)
   キャンプ場は何組か在住の白人と思われる家族がキャビンに泊まっているだけでテントは僕一人。やはり選挙の影響で観光客が減っているのだろうか。管理人のおじさんに治安的な状況を訊くと、「全く問題ない、約束する」と、いらない心配をしないでみんな来てくれという感じの断言だった。
 彼の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、国境や町の様子もごく普通だったことから、ブラワヨへ向かうことを決めた。夜通し聞こえた滝の轟音と朝日に映える水煙に別れを告げ、ビクトリア滝をあとにする。
 ひたすら大自然の中の道。手工芸の土産物露店がちらほらたっているだけでまともな集落もない。象や鹿の絵をあしらった注意標識を見かけたが、象がでることがあるのだろうか?見かけることができたのは相変わらず猿だけだった。
 100kmほど走ったフワンゼという町から先は集落が点々と続くようになる。途中5kmほど並走することになった男に誘われ、彼の働いている病院の屋内に泊めてもらえることになった。彼は医者というわけではなく、病院に調理用の油を運んでいた。EUの援助で建設中の病院で、エイズ対策に力点が置かれているようだ。建物の外枠だけできていて、水道は通じているが電気は未だ、がらんどうの部屋にシートを敷いて寝るという形で、気兼ねの心配なくかえってよかった。夕方から雨になるも、屋内に泊まることができ幸運である。

●2002年4月9日

 ジンバ → ビクトリアフォールズ(94.8km)
   イシオロとかモシとかアフリカの地名には日本語の語感に似たものが少なくない。昨日泊まったジンバなんて、(日本の)ぼくのうちの近くにそのまま同名の山がある。それと対照的にリビングストーンビクトリアフォールズという名称は、いかにも英国植民地時代の名残である。
 かっての探検家の名前を冠した町はザンビア側。滝を挟んでジンバブエ側とすぐ向かい合った双子の町だろうと二日前まで思っていたのだが、ここから国境まで11kmも離れていた。
 世界三大瀑布のひとつビクトリア滝、さすがに巨大。ただ雨期は水量が多すぎて霞んで見えるという話どおり、雨期の終わったばかりのこの時期では水煙がすごい。いったん滝壷に落ちた水が撥ねかえって降ってくるから、滝正面の遊歩道は雨に降られているのに等しい状況だった。
 値段が安いということもありザンビア側からみたのだが(こっち10ドル、向こう側20ドル)、こちら側からだと滝の上側に回りこむことができる。側面や上流の川側からの眺めは晴れていてきれいだった。
 国境の渓谷にかかる橋からもちらと滝の雄姿が見え、そしてジンバブエ入国。ビクトリアフォールズの町はすぐそこにある。
 インフレがひどく闇両替横行の噂は正しく、両替所は1ドル=55ジンバブエドル(G$)の看板を掲げているが、実際中で尋ねると、1ドル=28G$になる。キャンプ場は5ドルだがジンバブエドルで払うと950G$,ちょっと得をした気分。
 町を歩いていると、ガイドや両替屋、ハッパ屋がとにかくうるさい。中に一人、韓国の1万ウォン札をなぜか持っていて、これはいくらくらいだと聞いてくる奴がいた。ザンビアクワッチャが20660kw余っていてどこの両替所でも換えてくれずにいたのでこれと交換した。今回の旅行の最後に韓国に寄るかは未定だけれど、1万ウォンの方が価値は高いしいつか使う機会がくるだろう。

●2002年4月8日

 バトカ → ジンバ(150.4km)
   バトカの駅員・警備員の人たちと記念撮影をして別れる。昨日おとといに比べると村の間隔があき、緑豊かな樹林が続く。ゆるやかな直線の上り坂でふと脇をみると、まるでこちらと競争するかのように駈ける猿の群れがいた。やや先に変な具合に停まったトラックがあって、ちらっと見るとどうやら猿をはねてしまったらしかった。
 夕方5時ジンバ着。パンとトマトを買い食堂へ。シマ+ビーフで2000kw。ビールが2200kw。合わせて1ドル以下。ザンビアは物価が高いなんていうのは嘘だ。
 そして今夜も駅へ。駅舎がそのまま駅員とその家族の生活空間になっているようでみんなでテレビを見たり子供達が駆け回ったりと賑やか。そのまま床に布を敷いて寝ているようだ。女たちが食事の用意をして、またご馳走になる。ヨーグルトとシマという組み合わせがけっこう美味しいと知った。

●2002年4月7日

 マザブカ → バトカ(136.5km)
   ザンビアの公用語は英語である。ケニアやタンザニアにおけるスワヒリ語のように強い現地語がないぶん、英語の通用度は高い。とはいえ、現地の人同士ではやはり、それぞれの部族語が使われているようだ。
 今日の午後、二人乗り用のタンデム自転車に乗った男と10km余り並走した。後ろの座席とペダルは取りはらわれ代わりに魚が入っているという袋が積まれている。なんとルサカまで片道2日かけ商売に出かけた戻りだという。その彼いわくルサカなど中央部で使われているのはニャンジャ語で自分たちの話す南部の言葉はトンガ語というのだそうだ。
 昨日に続いての駅寝。駅員たちの夕食に混ぜてもらい、ザンビア版ウガリのシマと湖でとれるという魚をごちそうになった。昼に並走した男に唯一習ったトンガ語、ありがとうの意のファルンバが早速役に立つ。
 駅には入れ替わりいろんな人がやってくる。「どこで寝るんだ?」と訊かれ、「そこに僕の小さな家があるだろう」とテントを指し示すと決まって爆笑された。

●2002年4月6日

 ルサカ → マザブカ(133.8km)
   ルサカ中心部は思った以上に小さく、すぐに郊外に抜けた。ちょっと薄汚い格好の人々が目立ち、雰囲気はあまりよくない。
 しばらくはずっと平ら、そのあと丘陵地になってゆるい上り下りが続く。天気は良い。タンザニアの激しいアップダウンよりはるかに楽だ。
 マザブカという町に着いた。スーパーで食べ物を調達しそれから寝床を探す。一人の男に警察なら(テントを張るのに)安全と案内されるが、さんざん待たされた挙句、警察はそこに泊まらせてくれず、離れたところにあるモーテルの敷地に張らせてもらえとの答えだった。
 で、警察には従わず、スーパーに寄ったときに目をつけていた駅へ。駅の警備員の人たちは親切で、ホームの一角にテント設営。

●2002年4月5日

 ルサカ(0km)
   朝7時半ごろ起きたら、えーちゃんはもう出た後だった。
 今日一日はザンビアの首都ルサカでのんびりと過ごす。何もないときいていたが確かに何もない町だ。大通りに郵便局、銀行、スーパーなどがまとまっていて、その周辺だけで用も済む。そんなに危険な感じはしないが、スーパーの周りにもストリートチルドレンが集まっていた。
 自転車の整備を少しして、夕方またスーパーに出かけた。夜は宿に一冊だけあった日本語の推理小説を読む。
 バラレへ行くか、リビングストーンへ向かうか迷っているのだが、とりあえずザンビア国内でビクトリア滝を目指すことに決めた。

●2002年4月4日

 カピリムポシ 〜 ルサカ(0km)
   予定より多少遅れて終点ニューカピリムポシ着。なぜ首都のルサカまで行かないのか、線路は続いているのに、不便だ。ダルエスサラームで輪行すれば 自転車代不要ということで、コンパートメント内に持ち込んでいたのだが、到着間近になって、この自転車代をめぐってもめる。ヤクザのような強引なとりたてで、払わないと駅から出してもらえず結局取られた。
   ルサカまではすし詰めのバス(15000kw=500円弱)。こっちのチャリ代はゴネて払わず。
   中心部から2kmほど離れた住宅街の中のチャチャチャゲストハウス。白人客ばかりで、プールや卓球台があって、雰囲気としては欧米のユースホステルに近い。ドミトリーは6ドルだがテント泊なら3ドル(13200kw)。林くんから買ったテントを使う機会がやってきた。

●2002年4月3日

 タンザン鉄道内 〜(0km)
   運転が荒いのか、線路の質が悪いのか、とにかくよく揺れる列車だ。ときおり船酔いに似た気持ち悪さすらこみあげてくる。
 昼前に出国係員がやってきて出国手続き。そこから実際に国境を越えるまでは2時間。その間にタンザニアシリングからザンビアクワッチャへの両替屋もやってくる。そして午後ザンビア側の入国係員が来て、ビザをその場でくれる。すべて車内で座っていれば手続きが済むようになっている。
   あとは暇。喋っているか、読書にいそしむか。

●2002年4月2日

 ダルエスサラーム 〜(5.6km)
   最悪の街ダルエスサラーム、今旅行二度目の悲劇だ。室内に置いていた貴重品は荒らされ、米ドル現金の大半をやられた。当然宿には確認と抗議をするが実際に意味はない。たぶん午前中、国立博物館でキルワの出土品を眺め、雨のインド洋まで足をのばしていた間だろう。ずっと寝てればよかった。
 というわけで、思いっきり不機嫌のまま、しかも雨の中、タンザン鉄道の始発駅へ。当日でも2等寝台が買え、しかも空いていたため、予約上は別々のコンパートメントだったえーちゃんと一室を独占できた。
 中国が建設したというタンザン鉄道。快適だけど全然嬉しくない。

●2002年4月1日

 ダルエスサラーム(0km)
   月曜日のはずなのに銀行など閉まっている店が多い。何かの祝日だろうと思ったら、あとでイースターだと判明した。都市に着いて2日連続休日というのは運が悪い。
   インターネットをして宿に戻ってビックリ、ナイロビで一緒だったえーちゃんが、ちょうど同じ時間にメールをしていたらしく、先回りで待っていたのだ。ウガンダ、ルワンダを回る予定を変更したらしい。明日のタンザン鉄道を予約してあるらしく一緒に行こうと誘われ迷う。
   本当は東アフリカ最大の遺跡といわれるキルワに行きたいのだが、もともと観光開発されていなくて行きづらい上に、雨期は道路が寸断されているという話。代わりにガンジバルで奴隷貿易の跡でも見ようかと考えていたけれど、一日ずーっと雨が降っているのを見ると、島に船で渡る気も、なんとなく失せてくる。