ふねしゅーの地球紀行
    2002年1月
               



●2002年1月31日

 ルクソール(28.50km)
      ルクソール観光は自転車で。西村さん、林くんも自転車を借り、佐藤くんを含め4人で回る。「地球の歩き方」の読者投稿には賛否両論あって、その中には地獄のような暑さで絶対無理と書かれてるのもある。ただ冬のこの季節に関してはさして暑すぎることもなく、見所が点在していてバスやタクシーでは回りにくく、高くつくことを考えると、自転車は大正解。
 一日150人入場限定のネフェルタリの墓は初め券が売切れだと言われ、その後国籍を問われて、[中国人」と答えたら正価で券をくれた。日本人だと答えたら多分倍額くらいふっかけられたのだろう。ルクソールでは買い物一つ一つが戦いである。
 かつてかのテロ乱射事件が発生したハトシェプスト女王葬祭殿、代々の王たちが眠る王家の谷、ラムセス3世葬祭殿、そして夕方ナイル川の東岸に戻り巨大な柱群が残るカルナック神殿を訪れる。大型バスによる団体ツアーが多く、テロ事件は過去の話という感じ。背中がまるっきり開いたほとんど水着のような格好のヨーロピアンがいて、土産物屋のエジプト人がdangerousだと喜んでいた。イスラム原理主義過激派の目に入らないことを祈るばかりだ。

●2002年1月30日

 カイロ〜ルクソール(2.9km)
      朝6時起床。ハルチくん、カオリさん、ミホさんらに見送られ、サファリホテルを出発。ルクソールまでは列車で約10時間の旅。2等車学割で24エジポン(約700円)座席幅は広く、思ったより快適な車内だ。ナイルの流れを眺めつつのんびりゆっくりと走る。
 ルクソールに着くと、噂では聞いていたがうるさい客引きがたちまち殺到してくる。どうにか振り切りエルサラームホテルへ。日本食レストランを兼ねているこの宿には日本語の本や情報ノートもある。ここでイギリス人のサイクリストに会う。彼もまたアフリカ南下の予定らしく、ミシュランの地図を持っていた。カイロで探したのに見つからなかった地図、これをコピーさせてもらった。 

●2002年1月29日

 カイロ(0km)
      郵便局が信用できないのでDHLでネガを送ろうと考えるが法外に高く、断念。結局廻った挙句EMS(郵便局の急行宅配便)にした。
 エチオピア大使館でビザの受領を済ませ、昼食にはエジプト名物の鳩を食べる。肉の身が少ないのか中には飯が詰められていて、ほとんど皮と骨ばかりだと、皆少し不満顔だった。
 情報ノートを書き、読み、アフリカ情報を仕入れる。 

●2002年1月28日

 カイロ(0km)
      エチオピアビザの申請、林くん、チャリダー佐藤くん、神戸出身で自称ものすごく運の悪い男西村さんと4人でまずはレイクスツアーという旅行代理店へ。エチオピアビザの取得には出入国の航空券が必要なため、いったん仮購入し、後で払い戻してもらうという面倒な手続きを要するのだ。ちなみに航空券代500ドルは全額返金で50エジポンの手数料を取られる。僕は手持ちの米ドルが足りず、林くんに100ドルを借りた。
 エチオピア大使館にて申請を済ませた後、近所の病院へ。ここで破傷風の予防接種を受けられるというので、受けておく(10エジポンと安い)。
 今日は事務手続きの日だ。鉄道駅でルクソール行きの切符を買い、写真などの荷物を郵便局から発送する。ガランとした埃っぽい部屋にダンボールが無造作に積まれた局内。話によると10分の1の確率で荷物が届かない(平たく言えば盗られる)そうで、それも納得できてしまう怠惰な空気。無事日本へ着くか心配だ。
 夕方、ダハブでダイビングをしていたユーシさん、カオリさん、ケンさん、ミホさんが到着。馴染みの顔ぶればかりになる。ユーシさんはイスタンブールのサッカー観戦やカッパドキアツアーを共にした大沢くんと再会したという。僕はすれ違ってしまったようで残念だ。
 地球の歩き方の記者の人が取材でサファリを訪ねてきた。この日の夕食はカレーだったが、調理、食事風景をカメラに収め、情報や意見を収集していった。ひょっとしたら春に発売予定の改訂版に写真が載るかも.......。

●2002年1月27日

 カイロ(0km)
      午前中は考古学博物館へ。団体客でごった返していて、身体荷物検査がとても厳重だった。ツタンカーメンの墓の出土品、歴代の王のミイラなどが陳列されている。
 午後2時にスーダンビザ受領。その後は宿に戻り、置いてあるマンガや雑誌を読みながらだらだら過ごす。夜遅くまでマージャンをしている人たちもいるが、12時に寝て、8時頃起きるという健康的な生活を保っているのは観光やビザ手続きのお陰だろう。

●2002年1月26日

 カイロ・サッカーラ・メンフィス・ダフシュール(0km)
     昨日に続き、カイロ近郊のピラミッドめぐり。直ちゃん、レバノンで一度会っているガブチョ他計5名でともに行く。
 まずサッカーラ。ここには最古のピラミッドといわれるジュセル王の階段ピラミッドがある。次にメンフィス。15mの大きさのラムセス2世像が有名だが、周りが遺跡公園のような感じでこぎれいに整備されてしまっていて、ちょっと安っぽい。
 最後にダフシュールには形状が独特の屈折ピラミッドと赤のピラミッドがあるが、バスやタクシーの乗継に時間をとられすぎてしまい、午後4時の入場時間に間に合わず、交渉したが無理だった。近くの村から砂丘を回り込み遠目からの眺めでよしとする。
 帰りもまたバス2台と地下鉄を乗り継いで。値段は高くつくが、タクシーをチャーターした方が良かったかも、とそんな話も出た。
 夕食はお好み焼き。長期滞在者の中には元料理人が何人かいて、毎晩実にバラエティーに富んだ献立だ。サファリホテルは在留邦人の中でも有名な存在らしく、大使館から危険度情報が更新されるたびに必ず連絡がきたり、在カイロ日系企業の人から日本食の食材をおすそわけしてもらったり、ということが少なくない。ただ泊まり滞在するだけの宿でなく、情報ネットワーク拠点になっているのがすごい。

●2002年1月25日

 カイロ・ギザ(0km)
     エジプトといえばピラミッド。世界で最も有名な観光地といっても過言ではない。カイロに来て4日目にしてようやく出かけたがどうもいまいちノラないのはなぜだろう。ギザの街並みを抜けていくバスに乗りながら、同行する直ちゃんも同じ事をいった。世界的超観光地にむかうという実感がない。やがてビルのむこうに、山のような三角形が見える。
     金曜日ということで地元エジプト人の家族連れがとても多い。敷物しいて弁当広げてまるでピクニックだ。シリアのパルミラもヨルダンのペトラも閑散としていたから、賑わう観光地は本当に久しぶりだ。日本人ツアー客もいた。韓国人の団体が多い。
 クフ王など140m級のピラミッド、そしてスフィンクス。日没までだらだらと時間をつぶしていると、小学生ぐらいの物売り少女軍団が入れ替わり立ち代りやってきた。しゃんとした]身なりのヨーロッパ人老夫婦なんかが歩いてくるとそっちへ営業に行くが、すぐに戻ってきて、買ってくれと、お互い暇つぶし相手のような感じでもあったが、なかなか手強かった。直ちゃんは何回か、地元エジプト人観光客に一緒に写真に写ってくれと頼まれていた。

●2002年1月24日

 カイロ(0km)
     昨日の夜から腹の調子がまたちょっとよくない。カイロの夜は案外寒い。
 午前中は日本大使館で添え状を受け取り、その足でスーダン大使館へ行きビザ申請、写真が4枚も必要だ。中2日の営業日プラス明日明後日金土を考えると4、5日後の受け取りとなるだろうと想定していたら、休み明けの日曜でいいと言われ逆に驚いた。
 サラディンの築いた城郭シタデルなどイスラム地区を簡単に見たのちサファリに戻る。写真の整理や夕食作りの手伝いをしながらだらだらと過ごす。
 サファリホテルに自転車を置きっぱなしにしてアフリカに足を伸ばそうと考えたが、同じくチャリダーの佐藤くんに会ったことで、自転車を持っていく方向に気持ちが傾きつつある。

●2002年1月23日

 カイロ(0km)
     トルコからイランへ東進するつもりが、寒さを逃れる意味もあって南下。南下はカイロまでのつもりが、さらにアフリカをみたくなり、南下続行を決めた。
 日本大使館でスーダンビザのための添え状申請。今後日本へ帰るまでの旅行計画書と危険地域は訪れないという旨の覚書を書かされた。外務省としていざというとき責任を追及されないための予防策なのだろう。
 大使館を出てから地下鉄(50ピアストル≒15円)でオールド・カイロへ。宗教会議で異端とされたコプト派キリスト教の教会が多く残るカイロの発祥の地だ。周囲の路地は狭くて入り組んでいる。治安の悪さはあまり感じないが、裸足でボロをまとった子どもの姿がめだった。
 サファリホテルに戻り、イスタンブール以来たまっていたフィルム10巻を現像に出した。
 夕方、10名以上が集まってスーフィーダンスを見に行く。観光客向けに無料で開かれているもので派手で巨大なサーカス屋根のようなスカート衣装を身につけた踊り手(男)がひたすらくるくる回転しながら踊る。期待していた以上に面白かった。
 夕食の後片付けは調理など手伝った人を除いてトランプによるくじ引きで決める。洗いもの係以外は集金、本棚整理、情報ノート補修、情報ノート1ページ記入などの役目が割り振られる。二日連続で洗い物係り。20人以上分の食器を任されるのは大変だ。

●2002年1月22日

 スエズ→カイロ(67.09km)
     カイロまで120km、一日で走れる計算だったが、強烈な逆風にくじけ、加えて空模様が怪しくなってきたところでトラックのヒッチを決めた。アレクサンドリア行きのトラックで、カイロの手前20kmの環状道分岐まで乗せてくれた。人口一千万といわれるカイロの街の入口だ。
 したたか道に迷った末ようやくサファリに着いた。世界で最も個性的な日本人宿として有名なサファリホテルだ。イラクツアーに同行したターザン、直ちゃん、林くんと再会する。他にアフリカを北上してきた人、これから南下するというチャリダー佐藤くんと会った。
 夕食はなんとトン汁!20人以上の宿泊者が一堂に集まってお椀を手にする様はまるで配給のようで、生活向上委員長を務める丸山さんが異様なテンションで唄い、司会をする姿にはさすがにビビッた。最初の2日はひく、3日目ぐらいから慣れてくる。長期滞在者が多く、短期の旅行者は馴染みにくいかも、という噂をかねがね耳にしていたが,確かにそのとおり。前からの知り合いがいなかったら、ちょっと入りにくかったかもしれない。
 いずれにせよこれでカイロ到着。また旅の一区切りである。

●2002年1月21日

 ヌエバ→スエズ(105.24km)
     エジプト上陸。この後ミナイ半島を横断するには、海沿いに逆三角形をたどっていく道、ど真ん中のシナイ山に寄っていく道、そして距離的には最短の北回りの3つがある。その中で一番観光的と思われるシナイ経由の道を考えていたが、相当きつそうでもあることから短くてすむ北回りを選ぶことにする。
 岩山が並び建つだけの岩山砂漠、途中に町はおろか村もない荒涼とした道が延々と続く。ナツメヤシの茂るオアシスがたまにあり、ベトゥイン達がラクダやヤギを放牧している。その他は単調で、トラックがたまに通過するばかりだ 。
 15時過ぎ、逆ヒッチをされる。ナカブというその先の町に泊まるつもりだったが、乗せて貰ったトラックはあっという間に通り過ぎた。検問が度々あり、ひたすら荒れ果てた大地が続く。日暮れていく景色を眺めながら、一気に運んでもらって運が良かったかもしれない。
 アジアとアフリカを分かつスエズ運河をトンネルで越え、スエズへ。カイロまでも連れて行ってもらえたのだが、なんとなく自転車で入りたくて、スエズで降ろしてもらった。 

●2002年1月20日

 アカバ〜ヌエバ(11.78km)
     ヨルダンのアカバから紅海を渡ってエジプトのヌエバまで船。陸路イスラエルのエイラット経由で行くことができるのだが、パスポートにイスラエル入国の証を刻まれたくないので(今後アラブ諸国への入国に支障をきたすため)この選択となる。
 宿のおやじに12時と15時に船があると聞き、15時に乗るつもりで港へ行ったところ1時間遅れの12時が出航したばかりで(乗れそうで慌てて急がされて出国手続きをしたが間に合わず)しかも15時の便は実際は18時に変わっていた。そのため午後中待ちぼうけ。結局エジプト着は23時すぎ、乗船中預けたままのパスポートは下船後ビザ代15ドル支払いの後にようやく返された。船の食堂でパスポートの束を抱えて作業をしている係りの人を見かけたが、船の中で判を押していたのかもしれない。

●2002年1月19日

 ワディ・ラム→アカバ(101.46km)
     早起きして5時20分の日の出を拝もうと考えたが、起きるのが遅く、日の出観測地点まで遠く、しかも寒く、空が白んでいくのを見るのみだった。さすが、星の数は多かった。
 朝食後、自転車で砂漠めぐり。硬い地盤のところは乗って走れるが、砂地の軟らかい所は押すしかなく疲れる。砂漠の中、岩山沿いで羊の放牧をしている姉弟がいる。車もラクダもほとんど通らない。冬だけど陽射しは強烈で汗が出る。夏だったら本当生命に関わるだろうなと考える。
 赤い砂、黄色い砂、白い枯れ草のような植物、紫色の岩、黒い山、そして真っ青な空。単色に思えた砂漠も実はいろいろな色がある。ただ圧倒的に強いのは太陽でこんな世界から一神教が誕生したことが分かるように思えた。
 ワディラムで時間をとりすぎ、途中また工事による迂回があり、アカバ到着は夜になった。 

●2002年1月18日

 ワディ・ムーサ→ワディ・ラム(118.30km)
     少なくともキングスハイウェィを走ったということだけで言っても、自転車に乗ってきた価値はあった。夏は多分空の青と大地の赤の2色であろう世界に、冬の雪の白さが加わり、単純だけど鮮やかな色の対比の圧倒的な景観を楽しむことができた。太陽の光と、常に吹き付けてくる冷たい風にのみ現実感があった。
 そんな天上世界に別れを告げ、12時すぎから一気の下り坂。やがて平坦になり分岐を曲がり、ワディ・ラムへ。砂漠の中に巨大な岩山の点在する景勝の地、別名「月の谷」、ただ拠点となるレストハウスの周りは学校もモスクもあり、定住のベトゥイン達の暮らす村となっていた。
 宿泊は寝具付きのテントが並ぶレストハウス、2食付きで8JDと少し張った。 

●2002年1月17日

 ワディ・ムーサ(0km)
     朝から夕方まで丸一日ペトラ観光。アラビア文化の流れを汲むナバタイじんによって築かれた古代都市。2世紀以降はローマの支配を受けている。数キロ四方の広範囲にわたり、山あり谷ありの複雑な地形に広がっているため、一日ずーっと歩き回ることになった。
 断崖に挟まれた視界の狭く細長い道シーク。そこを抜け出た正面に不意に広がる高さ30mの赤い岩の宝仏殿エル・ハズネ、岩壁を彫り削って造られた数々の王家の墓など、並みの遺跡を3つ4つ集めたよりもさらに大きな規模を感じた。崖を登った犠牲祭壇や修道院エド・ディルへ至る岩山の道からの眺めもまた雄大だ。広さでティカル、面白さでカッパドキアを彷彿させた。
 朝早くはほとんど旅行客に会わず貸切状態。昼前から少し増えてくるが、それでもラクダやロバに乗ったベドウィンたちは退屈そうで、茶店や土産物の屋台の多くは主なし品物なしの空き店舗となっていた。話し掛けてきたラクダ使いの若者が日本人か?と訊いてきて、お前の人生は幸せだ、俺は毎日こんな所をラクダと歩いてばかりだ、と言っていた。また僕の目の大きさをして、日本人はもっと目が細い」はずだろう、なんてことを言ってきた。

●2002年1月16日

 タフィーラ→ワディ・ムーサ(102.87km)
     昨夜雲が出てきていたが、今日はまた快晴の空。タフィーラの町を発つ時昨日サッカーをした青年から「スズキ!」と声をかけられる。シュウサクと名のったが、なぜかスズキに変換されてしまうのだ。
 徐々に高度が上がり、一面雪景色という地帯もある。陽射しに照りつけられてもかなり涼しい。昨年6月のアラスカに季節感が似ている。
 高原の道は眺望良く、ゆるやかな起伏で走り易い。この調子なら早めに着く。そう思ったところで、ここから先ペトラ方面通行止め、迂回の看板。これは予想だが、先週アンマンでも降った雪の影響だろう。大きく東へふくらむ迂回路を余儀なくされ、最後残り10kmほどを道を訊いたワゴン車にヒッチされることで、どうにか日暮れ前のワディ・ムーサ、ペトラ拠点の町到着となった。
 カイロから北上中という日本人旅行者にイエメンビザが取れなくなっているとの情報を得る。各地で絶賛の声を聞くイエメンに行けなくなっているとしたら、ちょっと残念だ。

●2002年1月15日

 カラク→タフィーラ(69.26km)
     岩山の上に建てられた十字軍時代の城を囲んで広がるカラクの町。その町を発ち、今日もまた峡谷越えに体力を使う。山を越えるのではなく、谷を越えるのが大変だ。
 シリアに比べ、このあたりのガキどもはなんだかタチが悪く、石を投げてくる奴らがいて感じが悪い。疲れていて「ハロー」の呼びかけに答えていないと、投げてくるのだ。当たりはしないけど。
 午後3時すぎ丘の中腹に細長く伸びるタフィーラの町に着く。遠く峡谷のさらに向こうに湖らしき水のきらめきが見え、訊くとやはり死海だった。
 学校らしき建物の前を通りかかったときに、声をかけられ下は小学生から上は20歳前後のグループに混じり、サッカーをして遊んだ。足の疲労は倍だ。

●2002年1月14日

 アンマン→カラク(110.43km)
     今年初めてにして20日ぶりに自転車に乗った。
 ヨルダンを縦断するには3通りの道がある。最も平坦で交通量も多い砂漠地帯のデザートハイウエイ、距離的には最短のイスラエル国境死海沿いの道、そして中央部古代より使われていた山岳地帯を抜けるキングスハイウエイだ。
 風光明媚で史跡も多いキングスハイウエイ。これが予想していたより険しい道だった。今日はカラクまでの100km余りの道のり。途中深さ1000m級といわれる大峡谷ワディムジブが立ちふさがっている。底の底まで下りると、巨大な壁に行く手を遮られている。そんな感じだ。その谷底を上ってる途中、ダム工事のトラックに1回。そしてそのあと日暮れ間近に乗用車に1回、計2回逆ヒッチハイクされ、カラクに着いた。
 3JDの宿は係員、客あわせ黒人率が高く、彼ら皆で作っていた夕食をごちそうしてもらえた。

●2002年1月13日

 エルサレム・アンマン(0km)
     イスラエルからヨルダンへ帰る。国境審査はあっさり終わったが、国境を行き来する人が減っているのかセルビスの料金交渉に手間がかかる。昨日のガザ行きも足代が相当高くついたが、イラクからずーっと料金では揉めては口論ばかりだ。
 正午すぎのアンマン着。その足でダマスカスへ向かいそのまま明日未明の便で帰国するという強行日程の原田くんを見送り、半日ぼーっと休憩する。誰もイラクツアーの情報を情報ノートに書いていないので、これを書くなどして時間をつぶした。
 韓国人客が団体で来ている。韓国はキリスト教徒が多く、聖地巡礼のようだ。日本人も僕を含め3人いて、東洋人率が高い。
 何度となく行きどうしで半ば常連となった近所のイラク料理屋に昼も夜も行った。

●2002年1月12日

 エルサレム・ガザ(0km)
     原田くんともう一人同じ宿の清原くんと一緒にパレスチナ人自治区の中心地ガザを訪れる。原田くんは昨日、毎週金曜日に繰り広げられるインティファーダ(パレスチナ人による対イスラエル武装蜂起=投石)をわざわざ見に行っていて、パレスチナ情勢に興味が強くかつ詳しく、今日のガザ行きは彼についていったような感じだ。
 エルサレムからタクシーで一時間強、ガザ地区への入口は、昨日のベツレヘムの検問に比べはるかに国境の体裁で、イスラエル側では(別紙に)出国印すら押印された。パレスチナ側はパスポートの確認のみ。
 ちょうど昨日の夜、ガザの港に停泊していた船が武器弾薬密輸の疑いでイスラエル艦船から攻撃されるという事件があり、実際港へ行くと、破壊され傾いた船があり、テレビカメラも集まっていた。
 ガザはアラファト議長の公邸やパレスチナ議会が置かれている、いわば首都のような町。ただ町を歩いている限り、店や市場は当然普通に営業しているし、品物も豊富に揃っているように見え、ごく普通のアラブの町のようにも思えた。
 格差を感じたのは、再び”イスラエル”に戻り、近代的で清潔なユダヤ人の町を見た時。そもそもはどちらが悪いわけでもなかったはずの対立の根本的などうしようもなさを見てしまったような気がした。

●2002年1月11日

 エルサレム・ベツレヘム(0km)
     宿正面のセルビス(乗合タクシー)乗り場から3シュケル(約90円)30分で近郊のベツレヘムへ。てっきり町の中心まで行くものと思っていたら、町の手前で道路が封鎖され、検問がありそこから先は(タクシーもあったが)歩くこととなった。いわゆるパレスチナ自治区の境界線のようだ。
 ベツレヘムはイエス・キリストが生まれたとされる町で、町の中心の丘に聖誕教会が建てられている。情勢の悪さを反映してか、とても世界で最大数の信徒を誇る宗教の聖地とは思えないほど閑散としていた。エルサレム旧市街地もそうだったけれど土産物屋などは商売あがったりだろう。
 午後エルサレムに戻ってからは旧市街地を囲むシオン山、オリーブ山の教会、遺跡を回り、そして旧市街地内のヴィア・ドロローサへ。悲しみの道と呼ばれるこの通りは、キリストが死罪を宣告されたローマ総督邸(現在は学校)からゴルゴダの丘までを十字架を背負って歩いた道のことである。毎週金曜日、フランシスコ教会の修道士たちによっておこなわれるという聖書の記述にもとづいた行進を見学した。また金曜の日没は、ユダヤ教徒の安息日の始まりである。おとといはガランとしていた嘆きの壁に、黒づくめのユダヤ人が大勢集まり、祈りをささげ、歌を唱和していた。
 日本や東アジアではただ欧米からの輸入で日曜休みとしているが、こちらでは各宗教によって休みとなる曜日が異なるから、おもしろくもあり、かつややこしくもある。

  ●2002年1月10日

 エルサレム(0km)
     昨日同様、寒さ厳しい朝。窓の外のエルサレムの街は雪化粧している。さいわい今日は昼頃から天気が回復し、昨日見残した見所を回ることができた。
 午前中は旧市街地、内部がイスラエルの通史を学べる博物館となっているダビデの塔を訪れる。午後からはバスに乗り郊外のヤド・バシェムおよびイスラエル博物館を回った。ヤド・バシェムとは記念と記憶という意味で、ナチスにより虐殺された600万ユダヤ人を慰霊する目的で建てられたもの。慰霊碑、犠牲者の名簿書庫、遺留品の展示のほか、ホロコーストについて調べる学究施設が併設されていた。一方のイスラエル博物館はいくつもの考古学館、美術館が立ち並んで全体として一つの巨大な文化博物館になっており、急ぎ足で見て回る必要があった。
 市内バスは4.9シュケル(約150円)と高く、かつ綺麗で中東にあってここだけ先進国水準であることをうかがわせていた。このバスまでも時に爆破テロの対象となるから恐ろしい。
 宿に滞在しているフランス人の女性はイスラエル兵に抑圧されるパレスチナ人への支援ボランティアをしていると言い、同じく宿に居たパレスチナ人の女の子はアメリカ人の壮年男性とイスラエル・パレスチナ問題について激論を戦わせていた。

●2002年1月9日

 エルサレム(0km)
     超寒いエルサレム。ほぼ一日中雨と雪そして風だった。
 午前中は旧市街、午後は新市街を林くんと回る。エルサレムの旧市街はのべ4kmの長さに渡る城壁に囲まれ、イスラム教徒地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区と分かれている。アラブ、パレスチナ人率が高いため、テロに狙われることはなく安全だと言われている。生活用品、食堂、土産物屋の並ぶ狭い路地を抜け、三宗教の聖地を順に訪ねる。神殿の丘の西側、閑散として人気のない嘆きの壁、パレスチナ警察が立ちはだかり、現在非ムスリムは外から眺めることしかできない岩のドーム、そして黒人の団体巡礼者客で賑わっていた聖墳墓教会の三箇所だ。鮮やかな金色の岩のドームはムハンマドが昇天した場所とされ、聖墳墓教会はかつてのゴルゴダの丘、つまりキリストが十字架に処せられた場所とされキリストの墓がある。こうして旧市街を半日回るだけでもエルサレムのもつ歴史的宗教的重みが感じられるような気がした。
 一方の新市街はアラビア文字をほとんど見ず、ヘブライ文字だらけのユダヤ人の町。雨が雪に変わり寒さが増す中、東アジア食材店を見つけ、味噌を購入した。テロ事件のたびたび起こる新市街地は兵士の姿も多く、スーパーに入るのにも金属探知機による検査があった。
 体調は復活してきたが、夜は寒すぎ,皆一台きりのストーブの周りから離れられずにいた。

●2002年1月8日

 アンマン〜エルサレム(0km)
    二日連続の国境越え。体調優れない上に、どちらも世界有数の厄介な検問だ。昨日の雪の影響でヨルダン国内の主要路は軒並み通行止めになっているという噂もあったが、とりあえずイスラエル国境方面は開いていた。ただ雪道という理由、他に人数が集まらないという理由でセルビスタクシー代が高くつく 。
 イスラエルへ同行したのはイラク組のうち林くん、ツッチー、原田くんという顔ぶれ。ヨルダン出国を2泊3日以内の通過であることを盾に出国税無し(5JD=約950円)で抜け、ごく小さな橋である国境のキングフセイン橋をバスで渡り、そして問題のイスラエル入国審査だ。
 テロ事件多発のお国柄、とりわけ陸の入国と空の出国は厳しいことで有名だ。荷物検査は硝煙反応を調べる程度で時間的にはすぐ。次の尋問はどこから来てどこへ行くのか、イスラエルに来た目的は、どこを訪れるのか、それは何故か、日本での仕事は、お金をどうやって貯めたのか、同行の日本人との関係は、など多岐にわたってかつ同じ質問が何度か繰り返され、長い。しかしさらに長かったのはそのあとパスポートを預け、別紙に入国印を押してもらうのを待つ間、ひたすら待たされる時間だった。話に聞いていた時間よりもはるかに長く、2時間は待たされたように思う。最後に訳をたずねると、アラブ諸国に多く行っているから、との答え。一日前にイラクから戻ってきて、その足でというのがやはり引っかかったのだろうか。
 元々アラブ贔屓になっている僕らは、さかんにイスラエルの悪口を言いながら、夜の雨でとてつもなく寒いエルサレムに7時を過ぎて到着した。

●2002年1月7日

 ▼イラク旅行記 第九日 ▲バグダット〜アンマン 
   短いようで長くもあったイラクツアーも今日で最終日。ただヨルダンに帰るだけの一日だ。朝から体調は良くなくて、ボロ車での吹き込んでくる隙間風がつらい。
 イラクの出国手続き、荷物検査は行きに比べるとはるかに楽だった。
 長かったのはそれから。国境手前から強まっていた風がやがてものすごい砂嵐になり、視界の効かない状態、それだけならまだしも、その砂嵐がしばらくするとなんと吹雪に変わった。砂漠の雪である。さすがに車の速度は落ちる。
 退屈しのぎにターザンがツッチーと山手線ゲームをして遊ぶ。「世界の国の名前」で延々続くのは旅行者ならでは、「日本のコンビニで売っている物」では半分懐かしさ合戦になった。
 日も暮れて雪は降り続き、アンマン市内にやっと着いたと思ったところで最後のひと悶着。クリフホテルまで行かず途中で停まって、ここからタクシーに乗り換えろと言うのだ。アンマンの地元タクシーの運ちゃんたちも群がってきて騒々しいことになる。道が分からないのか、イラクナンバー車で市街に入れないのか(それだと往路の説明がつかないが)途中で停まった理由は分からないが、一部日本人ブッチ切れで暴れまくり、結局クリフホテルまでのタクシー代を負担させることで落着した。
 宿に着いたのは21:30。聞いたところによるとアンマンでの雪は5年ぶりのことらしかった。
 こうしてイラクツアーは解散。いろいろ面倒はあったものの、僕らは彼らの思惑通り(?)かなりの親イラク派となって帰ってきたのであった。

●2002年1月6日

 ▼イラク旅行記 第八日 ▲バグダット 
   風が強く肌寒い一日。移動続きの疲労のため、肉食続きでしかも過食のため、風邪気味で体調すぐれぬもの続出。ハルキ君が午前中の市内観光を欠席した。
 今日は大晦日に回りきれなかった所、みんなが行きたいところを訪れる。アラビアンナイト「アリババと40人の盗賊」の一場面を描いた像、バグダットの建設者アル・マンスールの頭像を見て、勝利の剣の記念碑へ。幅広い道路にニ本の剣が交差した形の大きなアーチが架けられている。イラン・イラク戦争の戦勝碑らしく、この道は軍事パレードに用いられる場所だという。続いて去年の4月フセイン大統領の誕生日に落成したという巨大バースデーケーキならぬオンム・アル・マーレック(戦いの母)モスクを訪れた(外観のみ)。
 現代史観光の極め付けはアミリーヤシェルター。1991年2月14日午前4時、空爆を受け女性・子供中心に408人が犠牲になったという湾岸戦争の負の遺産だ。2発のミサイルによる天井の穴、身体の焼けた黒い輪郭の跡がつけられた煤けた壁、亡くなった人々のズラリとならんだ顔写真(ガイド氏のいとこも含まれていた)。数多くの献花に混じって日本から送られた千羽鶴が吊り下げられていた。外国人旅行者に開放しているからには、多分の宣伝的要素もあるのだろうが、テレビゲームのような戦争と形容され、アメリカを筆頭とした多国籍軍の「正義」の名の下に行われた戦いの、紛れもない一つの結果がここにあった。
 午後から夕方にかけて、バグダッド繁華街の自由行動。今まで自由行動不可の原則が貫かれていたが、ガイド氏もどうせ勝手に歩き回る僕らを連れ歩くのには疲れたのか、ついに時間を決めての勝手歩きが認められた。
 バグダッド一の中心街はラシッド通り。多くの店が軒をつらね、市場もこの通りに隣接している。アッバース朝しいてはバグダッドの最盛期を築いたハルン・アル・ラシッド王の名をとってつけられた通りの名だが、この町に、ラシッド王に関する記念碑や廟などはない。ガイド氏に尋ねると、ラシッド王が埋葬されているのはイランで、彼の名は通りに残されている(それで充分)との回答だった。
 歴史上の人物に比べると現大統領サダム・フセインの銅像や肖像は街角いたるところに見受けられる。シリアのアサド大統領と違うのは、アックン(アサドのこと)が大体いつも同じ格好であるのに対し、イラクのフックンはときに軍服、ときにスーツ姿、正面を向いていたり横顔だったり、微笑んでいたり、はたまたモスクの前で礼拝のポーズを取っていたりと実に多彩な表情を見せていた。僕らは密かに、イラクのファッションリーダーと呼んで、新しい格好のフックンを見つけるたびに楽しんでいた。

●2002年1月5日

 ▼イラク旅行記 第七日 ▲モスル〜バグダット 
   連日の移動は毎日同じトヨタのミニバス。運転手とガイドはずっと起きていて大変そうだ。僕たちは少しでも快適な席を確保するべく、毎朝ジャンケン勝負を繰り広げている。一番勝つと最後部で横になれ、次に勝つと2列席、負けると狭い1列席だ。この日は2列席。一度だけ最後尾を獲得したことがあるけど、だいたいここが多い。今日はバグダットまでの長距離移動、しかも昨夜は夜更かし気味だったから席取りは重要事だった。
 途中、前13〜9世紀にかけて栄えたアッシリア第2の首都ニムルドの遺跡、および12〜13世紀のアッバース朝下で建設された聖ベーナム修道院に寄った。
 昼食は何もない荒野の道路脇に車を停めて弁当。皿にサラダとピクルスが盛られホブス(円形のアラブ式のパン)、鳥肉とジャガイモを挟んでもう一枚ホブスという内容。全部食べるとかなりお腹一杯になる。
 夕暮れ迫ったころにバグダット着。夕食の20:30まで事実上の自由行動で、寝る人あり、散歩、買い物に出かける人あり、だ。イラクの街でわりと目立つのは韓国企業の看板だ。
 中東全般に強い気もするが、LG、サムソン、大宇などよく見かける。文房具、小物類など生活用品は中国製品が多い。そしてこれはもう世界中の共通項といえるが、ポケモンをあしらった品々はそこかしこに並んでいた。

●2002年1月4日

 ▼イラク旅行記 第六日 ▲モスル 
   イラク第3の都市であるモスルはトルコやイランの国境にほど近く、クルド人の割合が多い。モスルからさらに東の山岳地帯へ行くとクルドの人々が実効支配しているクルディスタンの地域があるらしい。以前アラブ首長国連邦からイラクの港町バスラ経由で単身イラク入りを果たした日本人旅行者(その世界では有名な、おかまパッカーまりもちゃん)の情報によれば、クルディスタン地域に入る直前でパスポートにイラクの出国印を押されてしまい、トルコへの道はなく、イランにはビザがなくて行けず、そしてイラクにも戻れずということになる、行ってはいけない場所があるそうだ。
 モスルの街を歩いている限り、そんな民族紛争のキナ臭さは感じられない。ただカフィア(男性が頭に巻いているアラブ風の布)の巻き方で、アラブ人かクルド人かの違いがあるらしかった。
 そんなイラク北部はキリスト教徒の割合が比較的高く、クルド・カトリックのアル・タヒラ教会、郊外の山腹に建つ聖マティ修道院を訪れる。バグダットではクリスマスの飾りつけも普通に見られたし、政治的にはなにかと強硬なイメージの強いイラクだけど、宗教の自由は一応ちゃんと保障されているようだ。
 モスルの他の見所としては、13世紀に建てられ、かっては町を囲んでいたというバシュタビア城壁、長い年月を経て柳の木のようにしなって傾いてしまった斜塔ミナレット、巨大なジグラット(ウルのピラミッド)形状をした預言者ジェンナのモスク、などがあった。みんなが楽しみにしていたバザール散策は、金曜日のため閉じている店が多くちょっと残念だった。
 28歳の誕生日。かなり前から1月4日だぞと宣伝していたこともあったのだけど、いつの間にか誰かがケーキを買ってきてくれて、みんなで祝ってくれた。旅行中に、しかもイラクなんぞで迎える誕生日も良いものである。
 歳といえば、そのあとの雑談の中で、コーシさんがカオリさんの年齢を4歳もだまされていたことが暴露され(実年齢33のところ29と信じこまされていた)、一同大ウケだった。僕もこのあと会う旅行者には、24歳の年男あたりで振舞ってみようかな。

●2002年1月3日

 ▼イラク旅行記 第五日 ▲バクダッド〜サマッラ〜ハトラ〜モスル
 今日から3日間イラク北部への旅である。
   9時過ぎにバグダットを発ち、まずは小都市サマッラへ。836年に建設され892年までの間、バグダットに代わってアッバース王朝の首都が置かれた町である。かってイスラム教最大とされたモスクに併設して、マルウィアと呼ばれるらせん状のミナレットが残されている。通常の鉛筆型の尖塔ではなく、基部から頂部に向かって外壁に沿って渦巻きを描くように坂道が付けられていて、高さ52mというその頂上に登ることができた。頂上からは町の中心に位置する金色のドームや中洲を形作っているチグリス川の流れを一望できた。
 サマッラからしばらく車に揺られ、後1世紀のローマ遺跡ハトラへ。それまで天気がいまいち優れなかったのが、ここにきてにわかに晴れわたる。その天気のお陰もあってか、ハトラの印象派良かった。僕もみんなも、ローマの遺跡は見飽きたとの声が多かったが、ハトラはローマ帝国の影響下に置かれつつも、ある程度の独立を保っていたようで、壁にラクダの模様が彫られているなど、アラブ人による王国らしき特色が見受けられて面白かった。
 ハトラの遺跡と砂漠の地平線に沈む夕陽を背にし、イラク北部の中心都市モスルに到着する。ここでも昨日に続いてホテルで揉めた。そもそもヨルダンにて知らされていた条件では全宿泊5ツ星ホテルとの話だったのが、明らかに質の落ちたホテルに連れていかれたからだ。バックパッカー的には安宿だってもちろん泊まれるのだが、聞いていた話と違いすぎるのは問題だ。ガイド氏はどうも会社と僕らとそしてホテルとの板挟みにあっているような印象もあったが、結局のところ、一転して豪華な五つ星ホテルに案内された。個人的には、ホテルの質はともかく、いちいち揉めて交渉に使われつぶされる無駄な時間のほうを、どうにかして欲しい気分だった。

●2002年1月2日

 ▼イラク旅行記 第四日 ▲クッファ〜ナジャフ〜ウル〜バクダッド
 昨日の移動の車内が寒かったことと、肉の食べすぎで胃腸が反乱を起こし、お腹の調子が優れない。こともあろうに、ツアー参加者全員が下痢に苦しんでいるという、とんでもない「ウン」付の初夢を見た。 
   昨夜密かに訪れたナジャフ。この町もまたシーア派の重要聖地で、アリーの墓がある。町自体は、時代がやや下がって791年アッバース朝最盛期のハルン・アル・ラシッド王によって建設されたそうだ。
   イマーム・アリーの霊廟は黄金のドームとミナレットを中心に青や緑の鮮やかな極彩色の門扉や壁に囲まれ、朝早い時間にもかかわらず大勢の礼拝者で賑わっていた。ムスリムでないため中庭までの立ち入りしかできなかったが、垣間見た廟の内部は一面銀色の装飾で絢爛と輝いていた。
   バスに揺られること数時間、砂漠の中をさらに南下し、ウルに到着した。軍事施設に近いらしく、兵士の警護(見張り)が付く。誰かが、核戦争後の世界ってこんな感じじゃないか、そう形容したほど荒涼とした一帯に、古代の神殿や王宮の廃墟となった跡が存在していた。
   一番目立つのが高さ17.25mの神殿ジグラット、紀元前22世紀ウル第三王朝によって建てられたものだ。その隣には前4000年の大昔、シュメール人による世界最古の建物の跡。その他に、ウル王朝時代の月の神シンもしくはナンナールの寺院、シュルジ王の墳墓、そして前21〜18世紀の頃に、アブラハムが住んでいたと言われる住居跡が残されていた。いずれの遺跡も日本はまだ縄文時代のときのもの、紀元前十何世紀といわれても正直ピンとこないほど、この地域の歴史の深さを改めて感じさせられた。
   ウル見学後、途中で昼食に弁当(アラブ式)を食べ、給油の際の休憩があったほかはひたすら移動。日の落ちた18時過ぎにバグダット着。前回とホテルが変わっていて(質が落ちた)しばし揉めた。
   夕食はチグリス川の川沿いレストランにて魚料理。チグリス産らしい焼魚( 鮒の一種?)の開きは臭みもなく美味。醤油の欲しいところだった。
   ホテルの質は下がったが立地はよく、買い物に便利。物価は中東でもかなり安いほうで、フィルム2500ID(中国製)、イラク産ビール750IDだった。イラクディナール(ID)は米ドル$1=約2000ID。流通している貨幣は紙幣が3種類だけで250札、100札、25札。たいていの商品は250IDの倍数の値段のため、こまごましたお菓子でも買わない限り、実際にやり取りするのは、ほぼ250ID札(約16円)だけだった。この250ID札、フセイン大統領の肖像が使われていることから僕らは1枚フックンと いう単位を呼称として用いていたが、紫色を基調としたカラーコピーのような安っぽさですかし無し、使い古された札は印刷が薄くなって明らかに色が違うという有様だった。きっと安すぎてニセ札を作ろうにも元がとれないのだろう。10ドル両替すれば80枚以上の札束が来て、ちょっとした土産を買うにもいちいち数十枚のフックンを数えなくてはいけない、なんともかさばって面倒くさく、でもなんとなく「らしく」て面白い、そんなお金だ。

●2002年1月1日

 ▼イラク旅行記 第三日 ▲バグダット〜バビロン〜クッファ 
 元旦の朝。しかしバグダットの天気は雨まじりでちょっと冴えない。今日から2日間はイラク南部への旅だ。まずはその知名度としては随一といえるバビロンの遺跡を訪れる。
 バビロンといえば世界七不思議の一つと謳われる空中庭園そしてバベルの塔が有名だが残念なことにそのどちらも現存はしていない。入口である青いイシュタール門、バビロン王国の南宮などが修復されていたが、遺跡というよりむしろ、全く新しく建て上げた映画のセットのようなキレイさで、僕らはみんなその風情のない外観にはいささかガッカリしていた。南宮の中には、ここを修復したときのサダム・フセインの銘文、アレクサンダー大王がその上で死んだといわれる舞台が残されていた。
 日本にいたら行う筈の初詣の代わりにしようと期待したバビロンだが、なにか詣でそこなった気分がした。そのバビロンを後にし、シーア派の聖地ケルバラを訪れる。680年この地で起こった戦いで、シーア派の祖アリーの息子イマーム・フセインがウマイヤ朝の軍勢に破れ戦死している。ゲルバラにはそのイマーム・フセインと、同じくアリーの息子であるイマーム・アッバースの2人を、それぞれ祀った霊廟が建てられているのだ。およそ200mほどの長さの参道を挟み。2つの壮麗な廟は対峙しており、大勢の巡礼客、特に黒装束に身を包んだイランからの巡礼者たちで賑わっていた。田舎のせいか門前町のせいか、バグダットに比べずっとベール姿の女性、少女が多いように思えた。
 この日の宿泊はケルバラからさらに南に下り、クッファという小さな町。ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアにより4代目正統がファリーに刺されたのが、この町らしい(町の建設は618年、アリーが都を置いた)。
 クッファから数キロ離れたところにナジャックというもう少し大きな町がある。宿に着いたのち8時の夕食までの空いた時間をついて僕らはバスを捕まえ、そのナジャックに繰り出した。自由行動禁止が建前のこのツアーだったが、勝手に出歩くなといわれておとなしくしているほで、バックパッカーは素直ではない。
 危険度5、退避勧告発令中の国でしかも日没後。そう考えるとぞくぞくしたが実際のところ街の治安は良好で警官を含めて誰もが好意的である。雑然とした市場にはトマト、みかん、ジャガイモ、鶏肉などあらゆる物がズラリと並んでいて活気があった。