ふねしゅーの地球紀行
    2001年12月
               



●2001年12月31日

 ▼イラク旅行記 第ニ日 ▲バグダット・クテシフォン 
     バグダットのホテルはクリスマスと正月を祝う飾り付けがごたまぜに飾られていた。イスラム暦では関係のない日ではあるが、それなりに元旦は認識されているらしい。
   そんな大晦日のバグダット市内観光。ただ町なかを見る限り、浮ついた雰囲気は感じられず、ごく普通の日常生活が進められているように見えた。
  イラク人英語ガイド・バシルと運転手付のミニバスでのツアー、まず訪れたのはイラク七千年の歴史が凝縮されたイラク国立博物館。シュメール、バビロニアの古代文明からアッバース朝、オスマン帝国時代にいたるまで18室にわたる展示は英語の説明書きも添えられていて非常に充実していた。「目には目を」で有名なハムラビ法典の展示もあり。ただ現物はフランスの博物館に持っていかれているとのことだった。
   続いて、チグリス川のほとりに建てられたアッバース宮殿、ムスタンシリア学校を訪れる。前者は12世紀の建設でカリフの浴室跡などが残されており、後者は13世紀に完成した哲学、数学、天文学などの当時の最高学府であったという。
   ムスタンシリア学校に隣接して布製品や金物細工の並ぶ市場(スーク)が広がっていて、しばし散策の時間。本当ならガイドに連れられてぞろぞろ歩くようなところなのだろうが、そこは個人旅行者の集まり、やっと、車の中からでは自分の足で歩けると、みな嬉々としてスークを歩き回って、写真を撮りまくっていた。日本人の集団はバグダット市民からしてもかなり珍しいのだろう、僕らの行くところ、行くところ、僕らが彼らに注目する以上に、僕らがかれらにとっての「観光対象」になっていた。
   ツアー会社で今後の予定を確認。延期するかどうかなどを話し合い、昼食、そのあと午後は30kmほど離れた近郊の町クテシフォンを訪れる。前2世紀パルチア王国によって建設されたというクテシフォンには世界最大らしい高さ37mの大アーチが残されている。支える壁に入った深い亀裂は、ムハンマドが生まれたときに生じたひびだという話だ。
   アッバース朝時代バグダットをぐるりと囲んでいた城壁、そこにあった4つの門のうち唯一現存するダファリヤ門をやや遠目にではあるが観て、ホテルへ帰る。
   夜、レストランでは楽隊が演奏をしていたり、街では車から観を乗り出した人々が騒いでいたりと、ようやく大晦日的なお祭りムード。僕らは、イスラエル戻り組が仕入れてきたそばとうどんで、年越しそばによる新年祝いをした。
  2002年あけましておめでとう!!

●2001年12月30日

 ▼イラク旅行記 第一日 ▲アンマン〜バグダット 
     メソポタミア文明以来の歴史の長さを考えても、湾岸戦争以来の現代情勢を考えても、イラクは非常に興味深い訪問国だ。世界情勢が変わり渡航が可能になったらバグダットは必ず行ってみたい街だと思っていたが、正直、今回の旅行で訪れる機会に恵まれるとは予想していなかった。 
   特に日本人だけに限ったツアーではもちろんないのだが、結局日本人ばかり9名が集まった今回のツアーは朝7時まだ薄暗いアンマンの町を、2台のイラクナンバー車に分乗しての出発となった。途中2回の休憩を経て11時過ぎ、砂漠のただ中の国境検問所に到着。 
   税関、入国手続き、エイズ検査、これがイラク入国に必要な手続きだが、前回ツアーの参加者から約4時間を要するとの情報を得ていた。さっそく当然のごとく、「10ドル払えばすぐに済むぞ」と声がかかるが、もともと4時間の国境観光のつもりで来ていた僕らは断固拒否し持久戦となった。 
   一人一人鞄を開いて荷物の検査、特にカメラ、電化製品はまとめさせられ、係員はその一覧表を作成していた。続いて外貨申告、ドルがいくら円がいくら、ヨルダンディナールがいくら、と申告。いったんそこで終わったはずが、時間をおいて、今度は目の前で実際にお札の枚数を数えさせられる。その合間にも、「10ドル払えば早いぞ」と露骨に催促してくるのだ。代表者となっていたコーシさんは係員にたびたび呼ばれ、金を要求され、つっぱね、大変だった。 
   落ち着かないのはイスラエルの入国印をパスポートに押されてしまっているツッチー。エジプトとヨルダンを除くアラブ諸国は、イスラエルの渡航履歴があると入国できない。彼はアメリカビザのシールを剥がして、イスラエルのハンコの上に貼るという荒技で国境に挑んでいた(一種の公文書偽造だ、、)。
 エイズ検査は外国人に対してでなく、国境を行き来するアラブ人たちにも課せられているようで、ここでも病院の診療室さながらに待たされる。使いまわしの注射針じゃないんだろうなと心配するが、使い捨てのものを使っていた。ただ、医者は踊るように身体を揺すりながら注射を構え、しかも人によってはなんと、針を刺せるだけ刺され、肝心の採血はされず(僕は50mlほど採られたが)お終いにされた人もいた。検査結果がそんなにすぐ出るものなのかも怪しいし、おそらく建前としてこういう検査をしているんだと示したいだけなのだろう。僕らは冗談で、クローン人間の製造にでも使われるんじゃないか、などと笑った。
 やがて4時間ほどが経ち、その間に入国手続きは住んでいた。パスポートに爆弾を抱えていたツーチーを含め、9人全員はれてイラク入国を果たす。
 国境から70kmほどのレストランで夕方4時の夕食、そこから片側三車線 の広い道をひたすら走る。ユーフラテス川を越え、日が落ちて暗くなり、やがて地平線にバグダットの街の灯が見えてきた。

●2001年12月29日

 アンマン(0km)
     明日のイラク出発にむけて今日は準備の日。といってもさしてすることがあるわけではない。両替所で米ドルの現金を調達し、宿ではロンリープラネット中東版やイラくつあーの案内ビラ、情報ノートからイラクの見所情報を収集する。バグダットやバビロンなど、名前の有名な場所は多いけれど、いざ行こうとなると知っている情報は少ないのだ。
   19:30すぎ、イラク航空のおじさんが、できあがったビザを持ってやった来る。代表者のパスポートコピーとビザシール、それに参加者全員の氏名、旅券番号、写真が添付された団体査証だ。アンマンーバグダット間の交通費は$28、ヨルダン側代理店仲介料$50の支払い。
   これにて出発準備完了だ。参加者は9名。イスタンブールからたびたび会っているコーシさんが代表者(リーダー)、ベイルートで一緒だった林くん、カオリさん(ママ)、ハルキくん、原田くん、イスラエル入国印をアメリカビザ(他のページのものを剥がして)を上から貼って隠すという荒業でイラク国境に挑むつっちー、ナオミちゃん、そして今回のメンパーで唯一初顔合わせのターザン(というあだ名)、カッパドキアへ行ったときの12人に次ぐ大所帯となった。

●2001年12月28日

 アンマン・死海(0km)
     死海は本当に浮く、この季節でも泳げるという話を聞いていた。ヨルダンのみならず中東全体でも知名度の高さでは最大級と思われる死海を訪れた。海抜400mという世界で最も低い地にあり、魚も住めない塩分の濃い湖だ。
 薄曇で少し寒かったが、温泉の川が流れ込んでいて、その周囲はやや暖かくどうにか泳ぐことのできる水温だった。目に染みると目が痛くて開けていられないほど塩分が強く、肌も髪も唇も塩でベタベタになった。
 金曜日のせいか周りはヨルダン人の家族連れが多く、バーベキューをしたり観光用のラクダに乗っている姿が見られた。
 宿に戻るとイスラエルから帰ってきたユーシさんらがいて、ここでイラクツアーへの参加者が揃う。ツアーを仲介しているイラク航空の人が説明にやってきて、しばらくの時間いろいろ尋ね議論した後、旅券記載事項と顔写真1枚の提出、ビザ代35JDとビザ手数料20$を支払った。

●2001年12月27日

 アンマン、アズラック(0km)
    明日まで待機と決まったので、今日はあまり行く気のなかった東部の砂漠地帯を訪れることにする。オアシス都市アズラックにあり交通の要塞として築かれ、アラビアのロレンスも滞在したというアズラック城、沙漠のど真ん中に位置し内装に天文図やカリフたちの絵が描かれている世界遺産アムラ城、四角四面の外観がほぼ完全に残っていて、屋上からの眺めがいいハラナ城と古城3つを回った。
 アンマンからアズラックまではバスを乗り継いでいけるが残り2つの城はバス路線から外れているため交通手段がなくヒッチハイクとなった。交通量こそ少ないが親切な人が多く、いずれも10分ほど待つのみで乗せてもらうことができた。
 アンマンに帰ってきて古着市で1JDのジーンズを買う。これで穴あきジーンズとも今年いっぱいでお別れだ。

●2001年12月26日

 アンマン(0km)
   7つの丘、その狭間にびっしり町がつまって道が入り組んで分かりにくいアンマン。ローマ劇場、丘の上のアンマン城、ウマイヤド王宮跡など見所をざっと回る。古い遺跡は残されているものの、20世紀に入るまで小さな村にすぎなかった街らしく市内にはそれほど多くの名所があるわけではない。活気があって居心地は良い街に思えたが狭い似たような道ばかりで、何度も道に迷ってしまった。
 ベイルートで会った原田君、つっちーと再会。ユーシさんたちイスラエル組が明後日アンマンに戻ってきて、そのあとイラクツアーへいこうとしているとの情報を得る。土倉君はイスラエルの出入国印を押されてしまったといい、どうやってイラクへ行こうか悩んでいた。  

●2001年12月25日

 ダラー→アンマン(101.86km)
   8時にダラーを発ち、すぐにヨルダン国境。その後アンマンまでの道は上って上って下って上る坂の連続だった。路肩は広く道そのものは走り易い。道端に果物売りやチャイ売りがたまにいて2回チャイをごちそうになってしまった。
  アンマンの入口で日没。盆地の底の底へネオンの眩しいアンマンの市街に下っていく。外資が入っている分シリアに比べると街の感じは幾分華やかだ。シリアには存在しなかったATMもそこらじゅうでみかけることができた。 

●2001年12月24日

 ダマスカス→ダラー(110.84km )
   今まで色々な旅人に出会ったが今日の出会いには一番驚いた。
 イエメン人のおじいさんの自転車旅行。アラビア語の書かれた自転車の絵入りのTシャツ姿でサスペンション付の自転車に乗っていた。英語は通じなかったが、イエメンからジブチ、スーダン、エジプト、ヨルダンときてこの後イラク、トルコからアルメニアの方へ抜けていくと、イスラム圏のサイクリストならではの経路を教えてくれた。祖国ではおそらくかなりの金持ちなのだろう。もっと話をしたかったがアラビア語が分からないのが残念だった。
 快晴で正面に陽射しを受ける暑い一日。国境間近のダラーに着いた。 

●2001年12月23日

 ダマスカス(0km )
   自転車と久しぶりの対面。もう一台自転車があってドイツ人のチャリダーだった。彼は誰に聞いたのか「チャリダー」という日本語?を知っていて僕に連発してきた。他に難民キャンプで写真を撮るボランティア活動をしているという学生、エジプトからの北上組など数人の日本人がいた。
 金曜休みのイスラム国は日曜は平日だ。郵便局に行って国立博物館、アゼム宮殿など前回見なかった部分を観光する。博物館の規模は大きくウガリットから発掘された世界最古のアルファベット板などが展示されていた。

●2001年12月22日

パルミラ〜ダマスカス(0km)
   紀元前1世紀から後3世紀にかけて繁栄を誇ったシルクロードの隊商都市パルミラ。砂漠のオアシス地帯に広がる大規模な遺跡だ。あいにく曇っていて空気が冷たく肌寒い中、昨日知り合ったチェコ人と歩いて回る。ローマ時代の神殿、列柱群を見て丘の上の十字軍時代のものと思しきアラブ城に登る。そこからは点在する遺跡群や現代の町、そして遥か遠くにひかれた地平線を望むことができた。
 遺跡を歩いていると観光客狙いのラクダに乗ったオジサンが寄ってくる。僕が日本人だと分かると一言「ラクダは楽だ」。

●2001年12月21日

ホムス〜シュバリエ〜パルミラ(0km)
   10日前に訪れたときよりもホムスの朝は格段に寒くなっていた。7時起床のつもりが8時になり宿で会った広島出身の日本人と一緒に出発する。
 ホムスから一時間ほどで山深い地形にポツンと広がる小さな村に到着する。十字軍が残した城の中で最も美しいといわれる古城クラック・デ・シュバリエはその村の小高い丘の上に建てられていた。かの映画「天空のラピュタ」のモデルになったといわれるお城である。
 水の張ってあるお堀から始まり、馬小屋、回廊、監視塔など基本的な構造はほぼ完全に保存されている。内部の廊下には明かりがまったくなく外光の差し込むところまでは歩いたがその先はお化け屋敷以上に真っ暗で何もなくその先へは進めなかった。
 ホムスへの帰りで、初老の日本人男性とチェコ人旅行者と一緒になり、チェコ人とはパルミラまで同行する。泊まったホテルで日本の衛星放送が見られたのには驚いた。 

●2001年12月20日

 ベイルート 〜 ホムス(0km )
 雨のベイルートを発ちバスは山道を上っていく。その途中、雨は雪に変わりチェーンを慌てて巻いている車の列で道は渋滞をおこしていた。レバノンにはスキー場があるから雪くらい当たり前なのだが、いざ降雪を目の前にすると、ここはどこなんだという違和感に包まれる。昨冬の札幌の寒さが彷彿とよみがえってきた。ああ、札幌ラーメンが懐かしい。
 レバノンの出国、そしてシリアへの再入国。シリアの査証取得は米ドル24ドルを公定レート(1ドル=約11シリポン)で269ポンドに両替し、その両替証明書を持って申請しなければいけない、といささかややこしい。今年の春か夏くらいまではダマスカスへの国境のみこの方法で、ホムス方面は、269シリアポンドで直接払えた(実勢レートは1ドル=約50シリポンだから5ドル強)という。素直に24ドルにしてしまえばいいのに、あくまで '公定ルート' の保持にこだわるのが 'らしい' ところなのだろうか。

●2001年12月19日

 ベイルート(0km )
 昨日来た組は雨の中バールベックの観光に出かけたが、もとからいる林くん、カオリさんと僕の3人は一日中屋内にいて本を読んだりトランプをして怠惰にすごす。
 子供のころは海外の翻訳物やSFが好きだったが、この旅行中読んで面白く思うのは、日本を舞台にした小説だ。新宿駅とか甲州街道といった実在の地名やコンビニ、旅館、天ぷらそば、博多とんこつラーメン、牛丼といったごく当たり前の単語がなんとなしに心地よい。

●2001年12月18日

 ベイルート(0km )
 昼から国立博物館に出かける。内戦中の長きにわたって閉館していたものが昨年やっと改修工事を終え再開したものだ。戦火を逃れるために保護されていた彫像や陶器などが再び日の目を見るに至るまでの過程が短い記録映画にまとめられており、その映像機器にはJAPANというシールが貼られていた。
 夕方、コーシ三、ケンさん、ミホさんらがベイルート入りし、日本人の数がなんと総勢9人になる。明日出るつもりだったが、宿主のザヘルがレバノン料理の羊の生肉を明晩だしてくれるというので一泊また残ることに決める。

●2001年12月17日

 ベイルート・ビブロス(0km )
 イスラエルへ先を急ぐハルチャンを見送り、林くん、カオリさんと3人で今日はビブロスへ向かう。7000年もの歴史があるという人類最古の町。聖書バイブル、あるいは古代の紙パピルスの名前はいずれもこの町の名に由来するという。といっても、そんな昔の遺跡は形あるものとしてはあまり残っておらず、十字軍時代の砦の姿が目立っていた。
 タラルスホテルには台所があるため毎日自炊の日々。今日はスーパーで蟹の剥き身を見つけ、しかも安価で、これだと思って買ったのだが、なんと!料理をしている途中で蟹ではなく、実は蛙だったということに気付く。旨かったから良しとしよう。
 アンタルヤ以来剃っていないヒゲがそろそろ目立つようになってきた。

●2001年12月16日

 ベイルート・バールベック(0km )
 おとといからうって変わって昨日、今日と好天に恵まれている。ベイルートから2時間ほどバスに揺られ、ローマ遺跡バールベックを訪れた。青い空に高さ20メートルにも及ぶというジュピター神殿の列柱が映える。
 歩きながら、休みながら「俺たち今日は観光しているよ!」と観光している自分たちになぜか異和感を感じる面々。海外旅行をしていて観光をするのは当たり前なのだが、長期の旅行になるほど、夜遅くまで話しこんで昼間で寝ていたり、ただぶらぶらと街を散歩するだけで、いわゆる観光名所を全然訪れなかったりすること(人)も多い。「だって観光はお金がかかるから」なんて言い出すと病状は深刻だが、実のところ旅に対して新鮮な驚きや感動を得づらくなってきているのも確かである。
 先月半ばからの断食月ラマダン。いつの間にか終了してしまった。ここレバノンでは何の祝い事も見かけられず、シリアにいるべきだったかと、ちょっと残念に思った。

●2001年12月15日

 ベイルート(0km )
 かって中東のパリと呼ばれ、経済拠点、情報拠点として栄えたベイルート。イスラム教徒勢力とキリスト教勢力の対立から発生した内戦で、市街地はことごとく破壊された。現在の市街地はハムラと呼ばれる地区で銀行、スーパー、商店などが並んでいる。シリアでは見かけなかったマクドナルドやケンタッキーフライドチキンもこの国には存在する。ベール姿の女性はトルコより少ないほどで、クリスマスの飾りつけも目立ち、アラブというよりはヨーロッパの雰囲気に近いくらいだった。
 そしてかっての旧市街は現在復興中。ところどころ穴のあいた壊されたままのビルもあり、また近代的人工的で生活感のないやたらキレイにされた通りもあった。
 この町で念願の国際学生証を入手する。これでバカ高い入場料ともおさらばだ。

●2001年12月14日

 ダマスカス 〜 ベイルート(0km )
 自転車とザックをアルハラメインホテルに置き、デイパック1つで今日からレバノンだ。中国から旅を始めこの先アフリカを目指すという林くんと一緒にベイルート行きの乗合タクシー(175シリポン)に乗った。
 だらだらと小道を上り国境。レバノン杉をあしらった国旗がはためいている。
 ベイルートへ向かう途中で天気は雨に変わる。宿がバスターミナルから至近で助かった。ここの宿タラルス・ニューホテルもまた各地の情報ノートに推薦されていて、日本人2人、ハルキくんとカオリさんに会う。林くんも含めた4人ともイスタンブールではコンヤペンションに泊まっており、ハルキくんとはコンヤ以来の再会だった。
 雨のためほとんど出かけることもせず、だべったり情報ノートを読んですごす。ここに69泊(!)もした人の膨大な書きこみや、どこの情報ノートにも必ず足跡が残されているコンヤの生活向上委員ノブさんの書きこみを見つける。

●2001年12月13日

 ダマスカス(0km )
 4000年の歴史を誇るという古代都市ダマスカスの旧市街を歩く。生活雑貨、金物屋、衣類、文房具など扱う品物(職種)ごとにスーク(市場)がかたまっている。すれちがうのも大変な人ごみの中、自転車やバイクはもちろん通りによっては車も入りこんでくるから恐ろしい。新約聖書にも登場するという 'まっすぐな道' もそんな猥雑とした小道の一つになってしまっていた。
 旧市街の中にはまた、世界最古のイスラム寺院として第4の聖地とされるウマイヤドモスク、そしてアラブの英雄サラディンを祀ったサラディン廟といった見所があった。
 4時半の日没を境に街の雰囲気はガラリと変わる。店という店はシャッターを閉じ道路の交通量はガタッと減り、代わりに食堂が混雑するのだ。
 シリアは果物が安い。日本のものとほぼ同じみかんが1kg10シリアポンドで売っている。柿も売られているのには少しびっくりした。

●2001年12月12日

 マアルーラ → ダマスカス(56.97km )
 泊まったマアルーラの町はキリスト教徒が多数を占める町で、人々の話す言葉はなんと、イエス・キリストが使っていたものと同じアラム語だという。聞いていてアラビア語との区別がつかないが、そう考えると、他のシリアの町とは教会が多いこともあって、とても違った雰囲気に感じられた。
 おおむね下り坂でダマスカス着。高層アパートが立ち並び、車は渋滞し、警笛がやかましかった。
 アルハラメインホテルにはまた日本人がいる。これまでは少なく思えた欧米人の旅行者も大勢いた。8日ぶりにネットカフェを訪れたら(1時間75シリアポンド)10通以上メールが溜まっていて返信だけで1時間を費やしてしまった。

●2001年12月11日

 ホムス → マアルーラ(95.73km )
 深い朝もやのたれこめたホムスを発ち、道はゆるやかに、しかしひたすら上がっていく。片側2車線の広い道の外側には植林されたものと思しき10メートル幅程度の緑地帯があり、そのさらに外側は沙漠、赤茶けた遠くの山並みまでひたすら荒涼とした乾いた景色が広がっている。季節が夏でなくてよかったとふと思った。
 ところどころ小さな村、工場や発電所、そして軍の施設が点在する。そんな所には決まってアサド大統領の巨大な肖像が飾られたりしているのだが、その碑の前に座りこんで休んでいたら、ここに座るなとやってきた兵士に怒られた。
 ナアブクという町に着き、そこで泊まろうとホテルを探し始めるが、たちまち集まってきた男たちがここにホテルはないという。そばにいた果物売りのオヤジが荷台を示しそこに自転車を積めと示した。
 家に泊めてくれるつもりなのだろう、そう解釈して自転車ごとトラックに乗ったが違った。車は十数キロ南に走ったところで停まり、僕は分岐で降ろされた。結果として、マアルーラには高いホテルしかなく、そんなところには泊まれず、人に訊き、僕は教会の一室に泊めてもらうことになった。

●2001年12月10日

 ハマ → ホムス(46.34km )
 朝から太陽が射している久しぶりのいい天気だ。ハマからホムスまでは半日足らずの距離。午後少し雲が出てきたが寒くはなく、自転車にとってはむしろ理想的な気候だ。
 雨がちだったアレッポに比べると、ホムスの町はネオンも明るく、女性のベールの着用率は低く、気のせいかもしれないが街並みが垢抜けて見えた。

●2001年12月9日

 ハマ(0km )
 ハマには一泊のみのつもりだったがもう一泊。することはなくだらだらと過ごす。
 トルコからシリアに入った当初は、ラマダンの守られ方も女性のベールの着用率も、さすがにかなり高いように思ったが、町をいろいろ歩いていると、だんだんと意外といい加減であることが分かってきた。昼でも食べ物の調達には困らないし、タバコを平気でふかしている人も見かけた。
 夕食は巨大な鶏肉(1個600gほどのを5個で200シリアポンド)を買ってきてポトフ風の煮こみを作る。米を炊きすぎていささか満腹。

●2001年12月8日

 マアッラーナマン → ハマ(64.80km )
 3日間お世話になったバシルに別れを告げ数多くの水車で有名なハマへ。
 ハマの宿はリヤドホテル。各地の情報ノートに絶賛されていたが、実際スタッフは丁寧親切で、かつ台所、手洗いなどの設備はおよそ安宿には似つかわしくない綺麗さだった。
 ここリヤドホテルでユーコさん、ケンさん、ミホさんに再会。ほかにも日本人2人がいてさながら日本人宿の様相だ。偶然であるとは思うが全員北(トルコ)からの旅行者であり、南(ヨルダン)から来る人に会わないのはなぜだろうと話す。シリア・ヨルダンの国境が閉じられた、みなイスラエルの入国印を押されてしまってシリアに来られなくなったんじゃないかなんて冗談も出た。

●2001年12月7日

 マアッラーナマン(0km )
 一泊だけのつもりが引きとめられ引きとめられ3泊目。今日は金曜日、イスラム教徒にとっての休日は今日で、バシルは、全てのムスリムはモスクに礼拝に行く、と言った。実際、日没後に訪れたモスクには100人以上の男たちがズラーッと並び、顔を床にこすりつける祈りの動作を繰り返していた。女性の姿は見えず、こんなところでも男女は分けられているらしい。
 バシルの家にテレビはなく、バイクで数キロ離れた親類の家に見に行く。テレビの中の女性はベールを被らず西洋式の格好をしていたりもする。また、大河ドラマみたいなサラディンを主人公にしたドラマをやっていた。
 友人宅に移って、また宗教論議、政治論議をさせられたあと、0時を過ぎて家に帰ってくる。2人になったとき、バシルが悲痛ともとれる真面目な顔で言った。日本へ行ってみたいが、仕事あるいは留学という形で行くことはできるだろうか、と。実際、日本には中東から来ている人たちが少なくはないが、僕の知る限り、日本は査証発給について最も厳しい国の一つであり、容易ではないだろう。シリアは貧しいからとバシルは悲しそうに呟いた。
 エリフは来年2月に日本へ行くと話していた。彼女にとっては初めての外国旅行らしいが、それでも彼女は '行ける' のだ。同じイスラムの隣同士の国でもその差が大きい。まして日本との隔たりにはなんと答えてあげればいいのか、返す言葉が見つからなかった。

●2001年12月6日

 マアッラーナマン(0km )
 10時すぎの起床だったが朝食を供された。バシルたちは断食だから見ているだけ。一人で食べるのはいささか食べづらかった。
 バシルの家族は男兄弟10人、女姉妹3人だという。ずいぶん大家族だと思ってきていると、バシルの父には妻が2人いて、それぞれ別に住んでいるとのこと。バシルの家にいるのはバシルのお母さんとその子供たちだ。ただ、僕が会うことができるのは彼の3人の弟たちのみで女性家族と顔をあわせることはできなかった。手洗いにいくときも、わざわざ彼に断って、バッタリ会ってしまうことのないようにしなければいけなかった。
 昼間、バシルのスズキのバイクに乗って近郊のバラ遺跡へ。思ったよりも規模の大きな、ローマ、ビザンティン時代の遺跡だった。
 夕食そして夜。バシルや彼の友人たちと話していると決まって話題にされるのは、アメリカ好きか? オサマ・ビン・ラディンは好きか? という政治的問題と、仏教て何だ? なぜムスリムにならないんだ? という宗教の話だった。アメリカを嫌いと答えるのは簡単で、ラディンを支持できないことを伝えるのは難しく、仏教は日本の伝統で、自分はその伝統を大事に思っているからムスリムにはなれないと答えた。バシルや友人たちは、日本は広島に原爆を落とされたのになぜアメリカに反撃しないんだと疑問をぶつけ、ビン・ラディンは正しい、悪いのはイスラエルだと言い、イスラムは素晴らしい、ぜひムスリムになるべきだと繰り返し勧めてきた。

●2001年12月5日

 アレッポ→マアッラーナマン(0km )
 小雨が降ったり止んだりする悪天の中、出発。雨そのものは大したことがないが、大きな水たまりがあったり、路面が泥だらけだったりするため、ズボンの裾があっという間に汚くなる。日本出発以来、夏の短パンでいたときを除いて履き続けてきたものだが、おしりのところが破れ始め、そろそろ寿命だ。
 3時ごろ、マアッラーナマンという小さな町でホテルを探そうとする矢先、バイクの男につかまった。彼バシルいわく、この町にホテルはないからウチに泊まれ、とのこと。ここが他の国ならウサン臭くも思えるが、アラブ人の旅行者への親切心はおおむね信用できる。
 通りから脇道を少し入ったところ、石造りの簡素な家。入口入ってすぐの部屋は8畳ほどでじゅうたんが敷かれ、靴を脱いであがることになっている。部屋のはしに本棚とクッションが置かれて、あとはガランとしている。バシルの弟やいとこと紹介された少年たちが集まってくる。バシルは大学生で片言の英語を話すが、他の少年たちはアラビア語のみだ。
 日没のアザーンが響くと夕食の時間。ホブスと呼ばれる丸く平たいパンが主食。肉だんご、揚げじゃが(フライドポテトに近い)、ヨーグルトなど並ぶ。そして食後には甘く砂糖の効いたチャイを飲む。
 夜、バシルと一緒に近所のモスクでサラート(礼拝)に付き合い、そのあと彼の友人宅についていくと、なんとそこでは10代半ばの少年からおじさんまでが集まってコーランを読み上げる勉強会をしていた。シリアの人々の信仰心の厚さを目の当たりにした思いだった。

●2001年12月4日

 アレッポ(0km )
 朝、より料金の安いユーシさんの泊まっている宿に移動する。ここにはもう一人日本人がいた。もともとは僕の泊まった宿におそらくはみんな来ていたのが、最近はより安いこちらへ宿泊客が流れてきているようだ。どちらも地球の歩き方には載っておらず、口コミや情報ノートの影響力の強さを感じてしまう。季節を問わずやって来て、しかもつるむことを好む日本人旅行者の動向は、宿の経営を左右してしまうんじゃないか、そんなふうにも思えた。
 曇天の中、アレッポ城、スーク(市場)、大モスクなど観光名所をざっと巡る。アレッポ城は前10世紀ネオ・ヒッタイトの時代に端を発し、十字軍やモンゴル、チムール帝国の攻撃にも耐えたといわれる巨大な城塞だ。
 夜、宿のテレビにはCNNのニュースが入る。言論統制が現在も厳しく、町「じゅうに大統領の巨大な顔写真が飾られているシリアだが、CNNなんかが見れてしまうらしい。イスラエルがパレスチナ(ガサ)を攻撃したというニュースが報じられていた。

●2001年12月3日

 レインハル → アレッポ(68.75km )
 小雨のパラつく嫌な天気の中、国境へ。トルコ側の出国手続のときに大雨になり、食堂、売店などある建物の中でしばし足止めとなる。
 シリア側の入国手続。イスラエル入国履歴がないか確認しているのだろうか。けっこう長く待たされる。
 トルコからシリアへ入り感じたことは、メキシコからベリーズ、グアテマラへ抜けたときの印象とどこか似ていた。道は狭く、舗装は悪く、雨の影響で泥だらけ。走っている車は汚くて排気も臭い。たまに立派なバスが通り過ぎていくが、それはみなトルコのバスだった。
 雨、上り坂、逆風に悩まされつつも、日暮れぎりぎりにアレッポ到着。シリア第2の都市とはいうけれど、シャッターの閉じた店が多くて、薄暗くて、湿気ていて、気分が冴えない。
 と、たまたま入った食堂でバッタリ昨日別れたばかりのユーシさんと再会した。

●2001年12月2日

 アンタクヤ → レインハル(45.33km )
 20人以上がいたイスタンブールから12人のカッパドキア、5人のアンタルヤ、2人のアンタクヤときて、3週間ぶりに1人になる。まともに自転車に乗るのも久しぶりだ。
 シリア国境まで10kmほどのレインハルの町に泊。小さな町食堂で夕食をとっていたら店内にいたトルコ人たちに囲まれた。こんな田舎町に外国人が寄るなどとても珍しいのだろう。英語はほとんど通じないが、そのあと4時間ほど彼らに付き合い、田舎のトルコ人の素朴(?)な夜の遊び方を体験する。
 彼らの家におじゃましてチャイをごちそうになったり、ルールがよく分からなかったがトルコ麻雀を見学したり、ビリヤードを楽しんだり。 最後、ホテルの前まで送ってくれたバイクの4人乗りはいささか恐かったけれど。

●2001年12月1日

 アンタクヤ(0km )
 昨日寄った休憩所ではほぼ満月の月が見えていたが、アンタクヤに着くとまた雨が降っていた。ほとんど宿の中で、文庫本を読みつつ過ごす。コーシさんも昼寝か読書だ。
 ネット屋で、サッカーW杯の抽選結果を知る。先日のサッカー観戦の後、本番のトルコの試合でまた集結しよう、なんて話していたが、トルコは韓国での試合となるようだ。夕食をとった食堂のテレビもそのニュースをやっていて、トルコ人たちはその話題で盛り上がっていた。