ふねしゅーの地球紀行
    2001年11月
               



●2001年11月30日

 アンタルヤ(0km )
 今日も朝のうちは雨。この後の天気にもたぶん期待はできないだろう。ということで走るつもりを変更。シリア国境に近いアンタクヤまで、同方面に行くコーシさんと一緒にバスで移動してしまうことにする。トルコのバスはとても立派、自転車をバラさずそのまま乗せられるから楽なのだ。
 どうするか迷っていた他の3人も、同じく今日出ることに。アニイと千川チャンはロードス島への拠点マルマリス、そして大沢さんはイスタンブールへ。

●2001年11月29日

 アンタルヤ(0km )
 いい加減出発のつもりだったが雨。「どうせ出ないでしょ」とは大沢さんやコーシさんの弁。
 夕方から強烈な雨になる。ちょうど食事が終わったころ、とんでもなく凄まじい雷雨、閃光と轟音が同時に真上でハジけた。一瞬、心臓が止まったかと思った。たぶんすぐ間近の落雷だったのだろう。地震・雷・火事・親父とはいうが、雷を本当に怖いと思ったのは生まれて初めてだ。

●2001年11月28日

 アンタルヤ(0km )
 郵便局とインターネット屋に出かけたのみ。コンヤにいたときより何もしていないかも。ここアンタルヤで日本語を教えているという女性、青森出身で正月に帰る以外はここ数年ずーっと旅をしているという男性らを交えて話す。

●2001年11月27日

 アンタルヤ(0km )
 宿に置いてある日本の雑誌など読みながらボーっと過ごす。もともとコンヤで風邪がはやり始めていたのに加え、ギョレメの宿が内装工事で空気が悪く、喉を痛めたらしい。なんとなく嫌な体調だ。
 昨日と釣り場を変えたらしく、アニイと千川チャンと一匹だけだけれどタイの一種らしい魚を釣ってきた。刺身と鍋物というなんとも豪華な夕食だ。

●2001年11月26日

 アンタルヤ(0km )
 海沿いの町アンタルヤ。ここに来た目的は魚を手に入れ魚料理を食べようという点にあった。アニイは釣竿を持って旅行をしており、海辺へ釣りに出かけた。岩場で捕らえた貝を餌にし針に付けて垂らす。地元トルコ人たちも、みな暇そうにぼうーっとそうしている。周りも釣れてそうには見えなかったが、結局僕らも釣れず、残念だった。
 代わりに市場で魚を買ってくる。また、ここアンタルヤでも日本人宿なのだが、他の宿泊客たちが朝から舟を借りて釣りに出かけていたらしく、その成果をあわせ、夕食の献立となった。

●2001年11月25日

 カッパドキア(0km )
 1日のんびりと過ごす。人によって、ネットカフェに行ったり、土産物を買ったり。そして夕暮れ。まず、アンカラ経由でサフランボルへ向かうイトウくんを見送り、夕食。店内オヤジさんだらけのチャイ屋で時間をつぶしたあと、イスタンブール戻り組、マサト、ツグ、アオ、ユキコちゃんの4人と別れの時が来る。日本での再会を約すが、今の予定で帰国が最も遅いのはどうやら僕のようだった。残った5人、大沢さん、コーシさん、アニイ、千川チャンと僕はさらに10時半まで時間をつぶし、アンタルヤ行きのバスに乗る。

  ●2001年11月24日

 カッパドキア(0km )
 朝9時過ぎの行動開始。おとといのギョレメの屋外博物館より規模の大きいセルヴェ屋外博物館を訪れる。垂直にそそり立つ岸壁にたくさんの窓があいている。中はくり抜かれて部屋や通路や階段が複雑に巡っていて、まるで立体的な迷路のよう。地上5階くらいの高みにあいた窓を目指して、どこからどう登れば辿り着けるか、みんな子供のようにハシャイで駆け回る。一番走り回っていたのはアオちゃんで、いつの間にか高い所に登っていたのは千川チャン。そして積極果敢に縦坑をするすると上っていくエリフ。女性陣のほうが元気だった。一方の男性陣は、その次に訪れたキノコ岩が林立する一帯で、一部異常に慶んでいた。
 キノコ岩地帯から、荒野の丘をいくつも越えて、結局ギョレメまで歩きとおす。道なき道、風が強く吹きつけるところ、なぜか白い犬がずーっとついてきて、楽しかった。バックパックをかついで旅をしているような連中は、なんだかんだいってみんな体力がある。最後は、マサト、アニイ、千川ちゃんと4人でなぜか、向こうの木までの短距離走をしてしまった。
 都合により1日早くイスタンブールへ帰るエリフとアキヒトを見送った。

●2001年11月23日

 カッパドキア(0km )
 今日はワゴン車運転手付で借り切って、まさに団体ツアー。12人で80サバ、一人600円以下だからかなり安い。大人数とトルコ人エリフのお陰だ。
 8時出発。イスタンブールでの朝寝坊生活に慣れきっていた面々どうにか起きる。車の中でジャムとバターを回してパンを食べる。「まるで試合に出掛ける部活みたいだ」と誰かが言う。
    まず、カイマクルとデリンクユ、二つの地下都市を回る。迷路のような階段、通路が入り組んでいて、背をかがめないと歩けないところも多い。当時は2万人ないし4万人が住んでいたというから驚きだ。
    続いて訪れたウフララ峡谷、断崖に挟まれた川沿いの道を4kmほど2時間かけて散策する。雪はなく枯葉が敷き詰められていて晩秋の趣きだ。時々人数確認が必要だが、ここはきっと1人で来ても寂しいだけでつまらなかっただろう。歩き終わった村で先回りしていた車が待っていてくれる。ここで昼食。昨日はラマダンをしていたエリフも今日は皆と一緒に食べた。
    昔の隊商宿の跡、小山一つをお城にしたような岩窟宮殿、そして岩山の頂きに築かれたウチヒサールの町へ。本当はここで終わりの予定だったが、運転手さんの計らいで窯業の町アヴァノスに連れて行ってもらう。足でろくろを回し粘土をこねるという伝統手法にツグちゃんとアオちゃんの二人が挑戦していた。
    宿に戻り、夕食は自炊。小さなギョレメの町では食材も限られるが、料理人大沢さんの腕が冴える。カッパドキア名産のワインを飲みながら夜は更ける。

●2001年11月22日

 カッパドキア(0.61km )
 イスタンブールを自転車で発ち、カッパドキアへ寄ってシリアまで走る、とそもそも考えていたが一緒に行こうと誘われまた人数集めをしているうちに、12名という団体旅行になってしまった。しかも宿主、エリフまで誘って添乗員付きだ。
 カッパドキアはトルコ中央部の高原地帯に広がる大奇岩地帯。景色が素晴らしいほか奇岩や洞窟を利用して造られた洞窟都市や教会の跡が残されている。
    洞窟の中に部屋を造った洞窟ペンションにチェクインの後歩いて近郊のギョレメ屋外博物館へ出掛ける。途中の道端には雪が積もっていて、突発的に雪合戦が始まる。
 屋外博物館には博物館と呼ぶよりむしろ遺跡で、10世紀前後の教会や住居が残されていて、中を見学して回る。宗教壁画、台所や食堂そして死体安置所?と思しき穴だらけの空間がある。
 ギョレメの町に戻り、高台から奇岩や峡谷の広がる夕焼けの景色を眺め、宿に帰る。山小屋みたいな共有の空間は貸切状態で、12名もいるとまるで部活の合宿みたいな雰囲気だった。 

●2001年11月21日

イスタンブール(0km )
 今日もまた、天気は悪くないが寒い。みんなの溜まり場が中庭から暖房のある受付脇に移る。午前中タキシムからガラタ橋への道を歩いていると、ついに初雪が舞うのを見た。
  ラマダンのこの時期、町の何箇所かで日没後の食事配給がなされている。本来は貧しい人々のためのものなのだろうが、旅行者にも振舞ってくれる。ご飯にスープなど4品ついて、かなり立派な献立になっていた。
  夜8時、迎えのバスが来る。カッパドキア行き11名。ツグちゃん、アオちゃん、マサト、エリフ、大沢さん、コーシさん、イトウ君のほか元漫才師でテレビに出たこともあるというユキコちゃん。カップルで旅行しているマコトアニキとチヅちゃんを加えた団体旅行だ。さらに現地で、2日前にチェックアウトしパムッカレなどを回ってくるアキヒトが合流し、12名となる予定である。
  トルコのバスはとても立派。アメリカのグレイハウンドは言うに及ばず、日本の高速バスなんかよりもキレイで大きく、広い荷物室には自転車がそのまま載った。
  10泊したイスタンブールをついに発つ。途中寄った休憩所では雪が積もっていて氷点下の寒さ。カッパドキアの気候が少し心配になった。

●2001年11月20日

イスタンブール(0km )
 朝から1日ずっと雨。中庭では昼間から麻雀が行われ、僕もマンガを読んでぼーっとしていたら、何もしないうちにあっという間に夕方になった。
 夜、宿代を精算する。トルコ経済はインフレ率が高く、宿代は5ドルと米ドル建てで決まっている。サッカーの試合後、そのご祝儀景気なのか若干リラ高ドル安に振れていて、支払いとしては少し得をした感じだ。
 ちなみに、桁数が多く100万、1000万という数字がややこしいトルコリラに対し、コンヤ内では 'サバ' という通貨呼称単位が使われている。名物のサバサンドが100万トルコリラであることから1サバ=100万トルコリラとして勝手に呼んでいるのだ。冗談といえばもちろんそうなのだが、今日の夕食代1人1.5サバとかカッパドキアまでのバス代14サバのように感覚的にとらえやすく、みな普通に使っていた。そのうちまたインフレが進みサバサンドが値上げされたらどうしようなんて心配もしながら。  

●2001年11月19日

イスタンブール(0km )
先日のサッカー、テレビに映っていたという話は耳に入るものの、実際にその映像を見ていない。ぜひVTRが見たいということでマサトと一緒にバスで出掛けた。タキシム周辺からさらにずっと北にいったところに高層ビルが林立するところがあり、TV局もそこにあった。だが忙しく対応できないという理由で断られ、見せてもらうことが出来ず、残念だった。
 ツグちゃんやアオちゃんとカッパドキアへ行こうと話す。自転車で行くつもりだったが、すでに降雪があったと聞き、みんなと行くことにする。マサト、大沢さん、そして明後日で試験が終わるエリフも誘う。添乗員とシェフを引き入れたことで参加者が増え、10名を超えそうな勢い。エリフはそんなにたくさんチェックアウトしたらダメですと苦笑しながら文句を言っていた。

●2001年11月18日

イスタンブール(5.30km )
サッカー観戦の翌日にシリアビザを取得し、あとはここにいる必然性もなく、イスタンブールに滞在している。週明けには出るつもりで昼過ぎ自転車屋に出かけ部品の交換と工具の補充をした 。
 夕食は新シェフ大沢さん指揮によるミートパスタ。そしてノリさん、シンゴちゃん、カワネくん、先代シェフチャリダンIの4名の見送り。夜行でブルガリア、ルーマニア方面に向かうのだ。
 サッカー観戦組が減り、新しく来た人が増えて、だんだんと古参になっていく。

●2001年11月17日

イスタンブール(0km )
昨日朝5時まで起きて飲んでいたせいで二日酔い。水分を摂らずにはいられずラマダンは中止。
 午後からはまたまた団体ツアーで軍事博物館へ。前にイスタンブールに来たときも、ここには来なかったが、館内の小劇場で昔の民族衣装を着た楽隊によるコンサートが聴け面白かった。その帰り道に寄ったアイス屋でエリフは日本人の団体を連れてきたツアーガイドと思われたのか料金をタダにしてもらっていた。
 夜は鍋物。コンヤへ来て以来毎晩食事が充実している。昨日チェックアウトのつもりだったカワネくんは結局今日もノリさんやシンゴちゃんに明日一緒に出ようと誘われそそのかされ「この夕食がよくない」とこぼしつつ再チェックインを決めていた。

   ●2001年11月16日

イスタンブール(0km )
 今日からイスラム暦では断食月ラマダンが始まる。エリフとノブさんはラマダンを守り日中は食事をしていない。他のみんなは関係なくパンなどを食べている。僕は起きたのがわりと遅めなこともあったが、ひとまず今日はラマダンに挑戦した。
 夕方4時半すぎのアザーン(お祈りの声)でラマダン終了。そのあとたまたま宿泊客総出でトルコ料理店そしてボーリング大会に出かける。昨日と今日で宿泊者が増え、なんと22名。5レーンを占拠してボーリングなんかしていると、ここが外国であるという感覚はほとんどなく、まるで日本でなんかのサークルの親睦会にでも参加しているかのように思えた。

●2001年11月15日

イスタンブール(0km )
 宴から一夜明けて、空は雨模様の肌寒い一日。すでに昼近い時間、まだ眠い目をこすりながら中庭に出て行くと「新聞見た?」とさっそく声をかけられた 。
 Starという二番目に有名らしい全国紙。10ページほどにわたってサッカーの特集記事が組まれていたのだが、そのうちの1ページにでかでかと写真が載っていた。スタンドに広げられた日の丸、大きくバンザイをしているアオちゃんの姿、そしてトルコ国旗のTシャツを着て肩を組む赤組の中に僕も写っていた。
 この日一日コンヤはその余韻に浸っておかしな雰囲気。新聞を買い込みに出かけたり、テレビにも映っていたという情報に盛り上がったり、スタジアムで脳に吸い込まれた応援歌を歌ったり、今日新しく泊まりに来た人にはちょっと気の毒だったほどだ。大学の試験中だったエリフは数学の試験「ダメでした」と笑ってボヤいていた。
 ほかに飾る場所がないという理由で日の丸は中庭の天幕にはられたが、まるで右翼団体の本部みたいになってしまう。「これじゃヨーロピアンや韓国のお客はひくぞ」と誰かが笑う。ノブさんは「新しいアルバムを買ってきて(新聞記事を)貼りますよ。これはバックパッカー界の大事件です」と言った。たしかに貧乏旅行者が新聞に載るなんて通常は犯罪にまきこまれて死亡したときぐらいしか有りえない話だ。「今トルコで一番有名な日本人になった」と僕らは笑った。

●2001年11月14日

イスタンブール(0km )
三日前にコンヤに着いたとき、唐突に「サッカー好きですか?」と訊かれた。話をきくと、ワールドカップの欧州予選が大詰めで、この日イスタンブールで行われるトルコ対オーストリアの試合にトルコは勝つか引き分けで50年ぶりの本大会出場を決めるのだという。
 コーシさん、マサト、部長(というあだ名の)3人が中心になって入場券の購入と応援団の参加者集めをしていて、結局当日、宿泊者のほぼ全員という大集団で競技場へ乗り込むことになった。
 昼間布問屋と仕立て屋を回り4mx3mという巨大な日の丸を作る。これが予想以上の出来映えで、コンヤの中庭で広げたところ全員からどよめきが起きた.その日の丸に「日本へようこそ」の意味を表すトルコ語[JAPONYA'YA HOSGELDINIZ]を黒マジックで書き入れる。w杯開催国の日本からトルコへ向けた歓迎の応援メッセージだ。バスの出発時刻ギリギリ夕食用のオニギリを作る組と日の丸の文字を書く組に分かれてのドタバタの作業に誰かがまるで文化祭の前夜みたいだと言った。
 日本人、トルコ人混成の大応援団はサッカーおたくの首脳3名のほか、宿の管理人をしているノブさん、香取慎吾似のシンゴちゃん、俺の人生ホームレスだと言うノリさん、シェフをつとめるチアリーダーI,大城さん、買い物好きで毎日バザールを巡っている女の子二人組アオちゃんとツグちゃん、物静かなイトウくん、いつもサンダル履きのカワネくん、今日チェクインしてきた中華の鉄人大沢さん、宿主の娘で日本語も達者なエリフ、その弟のエリシン、それぞれの友人一人ずつ、それに僕を含めた総勢18人で結成された。
 バスが遅くタクシーと地下鉄を乗り継いで競技場へ。ものすごい人だかりと厳戒の警備。投げる恐れがあるからとコインを没収される身体検査を受けて観覧席に入場する。怒号の轟くスタジアム、スタンドの通路にやってきた僕らになぜか盛大な喝采が浴びせられる。おそらくは開催国でもある日本人のグループだと分かったからであろうか。席に陣取り、用意した巨大日の丸を広げた時点で周囲のボルテージはさらに上昇、僕らも負けじとトゥーキィエ!トゥーキィエ!の大合唱に和した。
 そして試合開始。観客みな総立ちで叫び歌い吠えている。大半が男たちだが、女や子供の姿もちらほら見かけた。オーストリアがボールを奪った時は殺気すら感じるほどのブーイング。トルコが得点を決めた時には、狂喜の大歓声はもちろん発煙筒までがたかれていた。ときおり上の二階席から水やボトルが降ってくるのには参ったが、この壮絶すぎるほどの盛り上がりの熱気はそうそう経験できるものではないだろう。
 試合は5対0というトルコの一方的な勝利。純粋な試合としてはつまらないともいえたが、点差が開いた後半はウェーブもおきるお祭り騒ぎで、安心して観る事が出来た。
 スタジアムを後にし、地下鉄で新市街の中心タキシム広場へ。あちこちで旗が振り回され、トゥーキェ!の合唱がされ、道行く車もクラクションを鳴らしまくっていた。僕らは再び日の丸を広げ周りのトルコ人たちに取り囲まれて大騒ぎ、テレビや新聞のカメラもきていて僕らはポーズをとった。
 タキシムからガラタ橋を通りコンヤまでまるで凱旋パレードのように歩いて宿に着いたときはすでに午前1時近くなっていた。

●2001年11月13日

イスタンブール(0km )
シリア大使館へ査証申請へ。51歳の老練バックパッカー大城さんと出かける。沖縄出身の大城さんは、みんなからお父さんと呼ばれていたが、なんと沖縄がまだアメリカに占領されていた時代(つまり日本に来るのにパスポートが必要だった)から旅行を続けていると話していた。
 夜はカレーライスの夕食。コンヤにはもう一人チヤリーダーがいて、彼はシェフとも呼ばれていて、料理に詳しく、小麦粉やカレー粉からルウを作っていた。
   コンヤではまたテッサロニキで会った日本人大崎さんと再会した。他の宿に泊まっているという日本人も含め5人が夜行バスでカッパドキアへ向かうのを見送った。

●2001年11月12日

イスタンブール(0km )
 そもそもはトルコの次はイランと考えていたが、東部山岳地帯はすでに雪が降り始めて寒いという情報があり、シリアへの南下を検討する。シリアビザの取得には日本領事館からの添え状が必要であり、荷物の受け取りも兼ね、午前中は領事館へ出かける。
 午後宿へ戻ってきてからはひたすらパン粉作り。昨日の夜今夜はコロッケを食べようという話が持ち上がったのだが、パン粉なるものが売っていないらしく、なんとパンを手作業で砕いて作ることになったのだ。
 昨日来た時はたいした人数が泊まっているようには思わなかったが、実のところ15人以上の日本人が泊まっていて、交代でコロッケを揚げ、交代で食べる夕食となった。
 夜近くのオリエントコースでベリーダンスが無料(実際は飲み物一杯)で観られるとの話を聞き、5人集まって出かける。お腹のちょと出かけた年増のダンサーだったけれど、水パイプにも挑戦してなかなか面白かった。

●2001年11月11日

チョルル→イスタンブール(128.8km)
 アラスカを発ってからおよそ5ヶ月半。ついに通算走行距離が一万キロに達した。巨大なイスタンブール都市圏に突入し、国際空港の付近をすぎ、中心部まであと少しという地点だった。
 まもなく道の前方に大城壁が迫る。かつてのコンスタンチノープルを一千年間守り続けた城壁だ。ついにイスタンブールに着いた。
 4年半前に来たときに泊まった宿にまた泊まろうと考えていたのだが、名前は覚えておらず、場所の記憶もおぼろげで、しばらくさまよったものの結局見つからなかった。
 代わりに見つけたのが実は有名らしい日本人宿のコンヤだった。 

●2001年11月10日

 エディルネ → チョルル(129.01km)
 朝もやに包まれ、モスクの円形ドームもミナレットもかすんで見えないようなエディルネを出発。平坦を想定していたら、等高線に反映されないであろう丘の連なりが延々と続く。
 ギリシャやブルガリアとは比べものにならないほど、車や途中の町村の人々から声をかけられる。とくに子供たちがまるで犬のようにやかましく騒ぎながら追いかけてくるのはおかしかった。My name is ? と疑問調で言ってくる英語は、きっと What's your name ? と訊きたいのだろう。
 民族による正確の違いなんてあまり信じない方だったけど(どの民族だって明るい人もいればそうでない人もいる)、やはり特性はあるのだなあと思った。
 イスタンブールまで残すところ100kmあまり。地理的には未だ欧州だが、気分はすでにアジアだ。

◎2001年11月9日

 ハルマンリ → エディルネ(64.92km)
 待望のトルコ入国。国境警備員までが馴れ馴れしく話しかけてくる。エディルネはギリシャ、ブルガリアにほど近い人口10万強の都市。コンスタンチノープル陥落まで押すマントルコの首都が置かれていた町。大きなモスクが林立している。一番大きなセリミェ・ジャミイはアャソフィアより大きいらしい。
 4年前の春にトルコに来たとき1円がちょうど1000トルコリラだったことを覚えている。店頭では0が3つ省略されて書かれていることが多く、そのまま日本円で考えられるので楽だった。
 今回インフレはさらに進行し、さらに0が一つ増えた。1円が1万トルコリラよりさらにもう少し高い。宿代が600万、ご飯とおかず付の夕食で150万、りんごとみかんを買って65万、国産ビール500ml缶が95万。とりあえずお金をおろそうと機械で引き出した額はなんと3億リラという数字になった。

★2001年11月8日

 プロブディフ → ハルマンリ(118.14km)
 平原のまっすぐ単調な道。ソフィアから標高が下がっているせいか心なしか暖かい。国境まで50kmほどを残しハルマンリの町。ホテルは改装中で改装を終えた部屋がとてもきれいだった。
 CNNのCMでいろんな国の人たちが順番に登場して一言ずつ喋っている。これはきっと日本語も出てくるだろうと思って見ていると、なんと黒柳徹子が登場して驚いた。ユニセフ関連の広告だったらしい。

☆2001年11月7日

 パサルズィク → プロブディフ(41.37km)
 ブルガリア第二の都市プロブディフ。紀元前からの歴史をもつ古い町で、旧名トリモンティウム(3つの丘の町)と呼ばれ、立体的に入り組んでいる。中心部のスタンボリスキ広場には数多くの絵画の露店が並んでいて青空画廊といった趣だった。
 ここでは民宿(プライベートルーム)に泊まろうと思っていたが、紹介をしてくれる旅行者が移転してしまったのか場所がわからず、ラマルティース博物館という古い屋敷の一室(これも一応プライベートルームだが)に泊まる。アジアのように安宿の文化が定着していないのか東欧は物価のわりに宿代がかさむ。

●2001年11月6日

 ソフィア → パサルズィク(130.56km)
 ギリシャのときと同様いつのまにか高速にはいってしまうが、工事区間を除いては片側二車線以上、路肩も完備で、快適な道だった。
 トラキア平原西端のパサルズィクという町。安ホテルがなく困っていると、タクシーの運転手が、1泊10レヴァ(700円弱)のホテルがある。2レヴァでそこまで連れて行ってやると言う。あからさまな嘘とは思えず、また他のホテルが25ドルと非常に高かったことから信じてみる。
 歩いて行ける程度の距離だったが、住宅地の路地をはいったところにあり、これはちょっと自転車で探し回っても見付からなかっただろうと思う。料金も10レヴァであっており、情報料として考えると2レヴァは妥当だった。
 部屋は決して悪くなく、テレビ付で、CNNが入った。ラマダン期間中も空爆を続けるべきか?のインターネット投票、60%以上が反対票だった。

◎2001年11月5日

 ソフィア(0km)
 またまた凍える朝。さっそく中心部に出てはみたものの寒くて歩き回る気がしない。そんなとき、バーニャ・バシ・モスクというイスラム寺院の裏手に飲用の温泉が湧き出ている所があり、その温かさに感激した。みな容器持参で汲んでいたが、僕も早速手持ちのペットボトルに汲み、飲むよりむしろ、カイロとしてそのあと持ち歩いた。
 ソフィアの市内は路面電車網が充実していて一日県レヴァ(13円ぐらい)と安い。証明が暗く陰気臭い中央駅やかっての共産党関連の異常に巨大な建築物などが社会主義時代の面影を感じさせる反面、欧米資本がつぎ込まれ小洒落た店構えの並ぶ繁華街は'西側'と変わらなくなってきている。
 そんなブルガリアの特徴は一つはキリル文字発祥の国であり、看板や標識は当然キリルであること、そしてもう一つ、首の振り方が逆さということだ。肯定のとき首を横にふり、否定のときうなずく。噂にはきいていたものの、実際まのあたりにすると、これはかなり戸惑う。人と人の意思疎通においては、言葉よりむしろ仕草や表情の占める意味が大きいというから、その仕草が逆だというのは、ほとんど本能的に混乱してしまう感じだ。

●2001年11月4日

 リルスキ・マナスティル → ソフィア(123.22km)
 昨日上ってきた道、今朝約20kmの長い下り坂。地獄のように寒い。スキー場の寒さに近い。昨夜寒さしのぎに買ったウォッカの残りをあおりながら下ったが、あまり効果がなかった。
 凍えながら下ったあとは、ゆっくりと上り基調の道。ソフィアもまた標高550mという高所にある。ブラジェフグラッドで見た天気予報によると、アテネの気温22度に対してソフィアはなんと7度だった。
 ソフィアの治安は民主化以降悪化しているという話。もともとイスタンブールと並んで睡眠薬強盗のメッカとして悪名高いが、昨年はさらにスキンヘッドの若者集団によるアジア人外国労働者を狙った暴力事件が発生しているという。
 そんな負の前印象しかない首都到着。ユースホステルは団地の置くの非常に分かりにくい小道沿いにあり、大学の寮みたいなオンボロの建物だった。

◎2001年11月3日

 ブラゴエフグラッド → リルスキ・マナスティル(46.53km)
 午前中アセンと再び会ってカフェでしばらく話したあと、別れる。サムライはレジェンド(伝説)じゃないのか?なんて訊かれる。逆に日本人はみなカンフーの使い手だと思われていたり、21世紀になってもまだまだ日本は知られざる国のようだ。
 今日の目的地はブルガリア正教の総本山といわれるリラの僧院。トルコの支配時代もここでの進行は黙認されていたというその僧院は標高1147mというとんでもない山奥にあった。はじめはそういう色の土壌なんだろうと思っていた白いものが、実は雪であることに気付いてその高さを痛感した。
 城壁を思わせるような4階建ての回廊にぐるりと取り囲まれ、鮮やかな宗教画で彩色された教会と塔が建っている。中に入ると薄暗いところで低くゆったりとした祈りの声が響いてくる。正教会の雰囲気はもとよりカトリックやプロテスタントとは異なるが、祈りの調子がどこかお経のようにも聞こえ、そう思うと一面の画が曼陀羅のようにも見え、不思議な感じだった。
 泊まったのはレストランの階上にある部屋なのだが、広い部屋にベッドが並ぶだけで何もなく、その簡素な造りが寒さのためもあって山小屋を彷彿とさせた。

●2001年11月2日

 オマロ → ブラゴエフグラッド(72.94km)
  昨日の少年が朝早くにまた来てくれ、彼に見送られギリシャを後にする。国境の手前ではトラックがおよそ1km以上の長蛇をなしていた。国境を越えて余ったドラクマをブルガリアのレフに両替すると額面がずいぶん小さい。どうやらここ数年のうちに千分の一くらいのデノミがおこなわれたらしい。
 強烈な向かい風に苦しみながらヨロヨロと進んでいると、途中の小さな町で一台の車が停まった。母親と息子の二人組(はじめ夫婦かとすら思った)で息子のアセンは英語を話し、よかったら乗っていかないかと言ってくれる。ユカタン以来の逆ヒッチハイクだ。
 アセンは経済学を学ぶ学生でなんと17歳。自分でも、誰も年齢を信じてくれない、I don't know why? と嘆いていたが、ちょっと貫禄がありすぎだろう。
 今日は金曜だから金曜の夜はパーティだという彼に誘われ、ホテルに荷を下ろしたあと夕方6時に待ち合わせる。連れて行かれたのは日本にもあるような音楽のガンガンにかかったアメリカンスタイルのバー。狭い町なのか、顔が広いのか、彼は店にやって来る若者たちとたびたび挨拶を交わし楽しんでいた。
 彼はまた休憩みたいな感じで家にも招いてくれたが、11歳という弟が簡単な英会話をこなすことに驚いた。パソコンやオーディオも揃っていて、コノ国ではかなりのお金持ちな感じだった。 

◎2001年11月1日

                         テッサロニキ → オマロ(132.78km)
テッサロニキからブルガリア国境への道がマケドニア国境のすぐ近くを通ることに気付き、せっかくだから出入国だけしに行くかと軽いノリで寄ってみた。
 ギリシャの出国からマケドニアの入国検問所までは鉄条網に囲まれた細い道。一時間ほど滞在してまたギリシャ側へ戻ると言ったら怪訝な対応をされた。しかもまずかったのは、中米でもおとがめがなしだったから大丈夫だろうと通り過ぎたあとに国境の写真を撮ろうとしたこと。厳しい調子で呼び止められ、牢屋行きだぞと怒られた。フィルムを没収されなくて幸い。
 マケドニアの村の小さな個人商店でドラクマが使えるか尋ねたところオーケーで1000ドラクマでパンとヨーグルトを買うとお釣りが120という額できた。さらにスナックの袋が10.4年半前に訪れたときの記憶でお札に見覚えはあったがレートはさっぱり覚えておらず、ただ安いとしか分からなかった。
  ギリシャへ戻り、夕刻、ブルガリア国境へほど近い村へ。パンク修理を始めた僕に一人の少年が話しかけてきて、手伝ってくれる。何を喋っているのかもちろん分からないのだが、東洋人の自転車旅行者が珍しいのだろう。そのあと、ウチに泊まりなよと仕草で言われるが、これは残念ながら母親の承認がおりなかったようでダメだった。結局公園泊なのだが、彼はそのままついてきて食事の作業など手伝ってくれる。全然成り立っていないのだけれど会話を楽しむ。こういう'旅人'と'少年'という構図はなんとなく好きだ。