ふねしゅーの地球紀行
    2001年7月
               



2001年7月31日

 ヴァジェ・デ・グアダルーペ→ラゴス・デ・モレノ先(111.05km)
 昨日の前言撤回。今日の道は路肩がほとんどなく、交通量は多く、上り坂も多く、景色は良いのだけれど楽しむゆとりがなく、疲れた。頂きが1kmくらいの幅で平らになっているテーブル状の山があって、それだけ面白かった。
 夕方、あと40km走ってレオンという都市まで行こうと気合いを入れ直した矢先、雷鳴が轟き雨になる。前の町まで引き返すのは嫌なので小さな集落があるだろうと思って走り続けるが現れない。途中ぽつぽつと店や建物があり尋ねると、この辺りに宿はなく(その時点で)30km先のレオンまでないとの答だった。
 さいわい雨は止んできて、日暮れまでには着ける時間だったが、雨に濡れて気力は失せており、かの「電波少年」でドロンズがよくお世話になっていたガソリンスタンドを見つけ、聞いてみると、なんと、裏手の階段脇の空間でなら寝てもいいと言ってくれた。やらせが多いなんて陰口もあったけれど、見ていてよかった「電波少年」。知識、情報、経験というものは、ほんと、どこで役に立つか分からない。 

2001年7月30日

 グアダラハラ→ヴァジェ・デ・グアダルーペ(111.05km)
 サンディエゴ通過の日以来、11日ぶりの長距離走行。グアダラハラ都市圏を1時間ほどで脱すると、おおむね路肩もあって意外と走りやすい高原の道が続いた。
 アメリカでは内陸が酷暑、カリフォルニアの海沿いが温暖だったが、逆にメキシコでは海に突きでたバハカリフォルニア半島が暑く、標高の高い内陸が涼しい。眺望の開けた畑や牧場地帯は瑞々しく緑が豊かだった。
 地図記号によると人口5000人以下という小さな村に泊まる。宿代は70ペソと安く、5分も歩くと村を回れてしまう。驚いたのはインターネットカフェがあったことで、中をのぞくと6台ほど並んだパソコンのほとんどが若年層の客で埋められていた。こんなメキシコの片田舎で、日本人が訪れることなんて1年に1度もないのではないかと思える所で、そのカフェの中のパソコンだけは確実に日本とつながっているのだと考えると、時代の進歩の不思議を感ぜずにはいられなかった。 

2001年7月29日

 グアダラハラ(10.36km)
 メキシコには世界遺産が21か所と日本の倍もあって、この街にもガスティバス文化機関という19世紀の建物が登録されている。日曜は入場無料ということで今日訪れた。スペインのメキシコ侵略を描いた壁画など見応えはあったけれど、正直な所16世紀に建てられたという同じ市内中心部のカテドラルのほうが、よほど立派で趣があるように思えた。
 中心部から4kmほど離れた鉄道駅へ自転車で、アメリカの影響か、独自の理由もあってか、メキシコもまた車社会で、居合わせた係員いわく、テキーラへの観光鉄道をのぞけば廃線状態とのことだった。
 午後から夕方は自由市場界隈でまたぼーっとする。インターネットでは参院選の速報をやっていて、小泉自民党が勝利したことを知った。帰国のときまで総理でいられるかな?

2001年7月28日

 グアダラハラ(13.60km)
 メキシコ第2の都市グアダラハラ。午前中のうちに宿を確保した僕は、小さくまとまっている中心部の見どころをのんびりと回る。古びた建物に囲まれた噴水が多く、風情のある公園には、多くの人々や露店商が集まっていて華やかだった。修学旅行とおぼしき子供たちの団体や、ソンブレロや赤青のマントを羽織り、大小の弦楽器で曲と踊りを披露するグループなど、とても賑やかだ。
 とりわけ飽きないのが、自由市場と呼ばれる3階建ての巨大市場。1階は主に土産や生鮮食品、2階は屋台、食堂がずらりと並び、3階は衣料や電化製品の店が人がすれ違うのが困難なほど密集していた。
 雑然とした屋台や市場を不潔とか治安が悪そうと敬遠する人もいるかもしれないが、店主の目の届きそうにないところまで品物が溢れ、中庭広場で子供たちが縄跳びなどして遊んでいる様は、僕にはこの街が平和で居心地の良い所のように思えた。

2001年7月27日

 マサトラン〜グアダラハラ(0km)
 少し遅れて到着したマサトランはなんと土砂降り。この旅でまともな雨を見たのはアラスカで一回、ソルトレイクで短い夕立、おとといのラパスと数えるほどしかなかったが、考えてみるとこの時期、基本的にメキシコは雨季なのだ。
 今日は走らずマサトラン泊にするかと悩むより前に、フリオが僕に言った。この雨で走るのかい? バスでグアダラハラまで行こうぜ、と。
 意志の弱い僕は、降りしきる雨をもう一度見て、グアダラハラへの同行を決めた。
 バスの中でも互いに日本語とスペイン語を学び合う。前の席に座っていたおじさんも気さくな人で、途中停まったテキーラの町で、なんと3本もテキーラの瓶を買ってきて、それぞれ一口二口飲ませてくれた。
 時差をこえ夜10時。グアダラハラのバスターミナルは中心部から10kmほど離れている。フリオと別れた僕は、この時間の移動はやめ、待合室に泊まることにした。

2001年7月26日

 ラパス〜(コルテス海)(18、70km)
 6日間行動を共にした小島さんとまたどこかでの再会を約して別れ、市街からやや離れたピチリンゲ港へ。そこから一晩の航海でマサトランへ向かった。
 久しぶりの孤独を味わうのも束の間。同乗のメキシコ人達に話しかけられ、仲良くなった。英語のほとんど出来ないルイスは最初聞き違えとすら思ったのだが、いくつか日本語の単語を知っていて、実際彼のノートにはいくつかの日本語がローマ字で書かれていて勉強しているようだった。またラパスに住み、グアダラハラの奥さんのところに行くというフリオは多少英語が分かり、やはり日本語に興味をもって、船上 はしばし僕と彼らの語学教室の場となった。夜空に光る点を指差し、僕は『hoshi』と言い、彼らは『estrella』と答え、互いにその言葉のメモを取った。
 フェリーは空調完備、夕食券も付いていてなかなか快適だった。

2001年7月25日

 ラパス(0km)
 アメリカには99セントショップがあったが、この町には全商品一律10ペソ(約140円)の10ペソショップがあって、レジは行列していた。地元のおじさんが電卓を手にし、これが10ペソだなんて、と僕に向かって驚いていた。
 ちなみにメキシコでは通常10ペソまで硬貨で、20ペソ以上が札になる。ただ地球の歩き方によると『ほとんど見かけることはないが20ペソ硬貨も存在する』とあり、僕は幸いにも(?)お釣りでその20ペソ硬貨を手にする機会を得た。ごく個人的にお目にかかった中では、日本の500円玉、ドイツの50マルクコイン(約350円)に次いで世界第3位の高額硬貨になり、僕は妙なところでメキシコに感心した。
 この夜、これから使えなくなるテントや壊れたカメラ、上着一式を捨てる。テントなどは日本に送ることも考えたが、安物で穴も空いて きているので捨てた。すぐそのあとおばさんがゴミ箱の中身を確認していたが、使ってくれるのなら、それはそれでうれしいことだ。

2001年7月24日

 ラパス(0km)
 今日は明日以降への準備の日となった。
 フェリーの切符売り場は混んでいて、整理券をもらって30分ほど待つ。僕はマサトラン行き、小島さんはロスチモス行きを買うが、ロスチモス行きの安い席が金曜まで満席とのこと。宿代との差額を考え、彼女は金曜発を選び、僕もバスでの寝不足や用事がたまっていたので明日発のつもりを木曜発(あさって)に変えた。
 人口18万人のラパスはのんびりとのどか。声をかけてくる土産物屋の客引きもなく、ただここまで南にくるとさすがに暑い。沖縄あたりの緯度だ。
 この前転んだとき以来調子の悪かったカメラがやはり壊れてしまっていて、買い替える。そのほか、自転車のタイヤ、パンク修理具、メキシコの地図などを買った。
 夕方、突然のスコール。雨はすぐに止んだが、道路は水びたしで川と化した。まるで洪水のようで、宿のほうへ戻り夕食を考えていた僕らはしばし空腹のまま足止めをくった。  

2001年7月23日

 (ゲレーロネブロ)→ラパス(10.02km)
 この旅最大の事件発生! バスに乗り遅れた!
 あと3時間ほどでようやくラパスに着くという途中の町。休憩で小島さんはトイレに行っていて僕は建物の中で待っていた。そしてバスへ戻ろうとすると、なんとバスの姿がない。周りの人にきくと、すでに行ってしまったとの仕草だった。
 しばし唖然とする2人。貴重品こそ身につけているものの、あとの荷物は全てバスの中だ。終わってみればいい笑い話になるよ、なんて言ってはみるものの、次のバスで後を追って、果たして荷物はラパスのバスターミナルにちゃんとあるのだろうか。
 さいわい30分くらい後にラパス行きのバスがあり、他社だったが、小島さんの手元に残っていた和西会話集を唯一の頼りに交渉し、どうにか乗せてもらった。
 ラパスまで、荒涼とし、フォークを逆さにしたような巨大なサボテンが並んでいたバスターミナルに着くと、僕らの乗ってきたバスは見当たらない。バス会社によってターミナルが違ったら、スペイン語でどう尋ねればいいのだろう、などと考えながらバスを降りる僕の前に、青い自転車の輪行袋と小島さんの大きな赤いザックが見えた。
 ターミナルから市街まで2kmのはずの道を迷って5kmも歩き、ヘトヘトに疲れ果てて宿に着いた。 

2001年7月22日

 ティファナ〜(ゲレーロネブロ)(0km)
 昨日調べたラパス行きのバスターミナルは中心部から遠く、メキシコ初タクシーとなる。米ドル$3くらいを予想していたが、タクシー運転手の答は$10。どんなに値切っても$5にはならず、結局$6で乗った。数字のやりとりは英語のsix,sevenではなく、スペイン語のsois,siete。これが大変だ。
 そして長いバス旅。バスが古いせいか、道もくねくね曲がっていて険しく、けっこう揺れる。途中のリゾート地までは英語の標識をけっこう見かけた。

2001年7月21日

 ティファナ(0km)
 昼すぎにナツコさんをロスへ戻るバス停へ見送ったあと、昨日バスで来たら、どこで入国手続きをすればいいのか運転手がまったく教えてくれずツーリストカードをもらいそこねてしまったという小島さんと、再び国境へ行く。
 いったんアメリカへ戻り、メキシコに再入国。たった一日前のアメリカが、車も建物も道の鋪装もみなキレイに思え、国境独特の面白さを感じる。
 男女2人で歩いていると声をかけられる日本語も違っていて面白い。「シンコンサン」「チビマルコ!」。小柄な小島さんはチビマルコと呼ばれるたびに憤慨していた。
 明日のバス時刻を調べるために、2つのターミナルを転々とする。32時間の強行でグアダラハラまで行くことを考えていたが、小島さんとラパスまで行き(それでも24時間)、そこから船でマサトランへ渡ってから走ろうと決めた。

2001年7月20日

 チョラビスタ→ティファナ(18.98km)
 ついに念願のメキシコ入国。朝の9時すぎには国境へ。
 ほとんどの人は72時間以内の国境地帯のみの特例で、入国審査なしに通過している、と『地球の歩き方』に書いてあったが、見る限り、ほとんどどころか僕以外の全員が素通りだった。僕は係員に尋ね、ツーリストカードを入手、$21の税をとられ、いつどこから出国するなどの面倒な質問は一切なく、あっさりと入国スタンプを手に入れた。
 国境を越えると、とたんに街は雑然とちらかり、混沌として騒がしいメキシコになる。白人観光客と英語の看板が目立ち、「トモダチ、チョットマテ」「ミルダケタダ」「キムタク」「ホトンドタダ」「アントニオイノキ!」などとさまざまな日本語で声をかけられた。
 街を歩いていると、なんと、次に会うのは東京などと言ってロスで別れた長谷川さん、佐藤さんとバッタリ再会した。似た背格好でまさかと思ったら彼らで、長谷川さんの彼女が一緒にいて、予定が変わって日帰りでティファナまで来たと言っていた。
 彼らを国境で見送り、夕方また街をぶらついていると、今度はベニスビーチの宿で会った小島さん(ともう一人、日本人の女の子、ナツコさん)と再会。
 地球はときに案外狭い。

2001年7月19日

 サンクレメンテ→チョラビスタ(138.09km)
 サンディエゴを訪れるのは小6のとき以来2度目になる。ラホヤという地区のカリフォルニア大の施設に泊まった記憶があり、ちょうど通り道だったのだが、これだ!と覚えている景色には巡りあわなかった。
 サンディエゴのユースは満室、案内所で聞いた南のチェラビスタという町のキャンプ場は$31と法外に高く、海辺の園地を探し、野営。昨日で終わりと思っていたが、しばらくはこれでキャンプは最後になるだろう。
 途中よった図書館の前で、生まれて初めて人が手錠を掛けられる瞬間というのを見てしまった。はじめパトカーが停まって女の人と警官がなにやら話していたのだが、しばらくしていったん図書館から出てくると、ちょうどその女が両手を後ろにまわされ、警官が手錠をはめている場面だった。逮捕の理由は分からないが、女はパトカーに乗せられてなお口汚い言葉でさかんに罵っていた。   

2001年7月18日

 サンタモニカ→サンクレメンテ(132.18km)
 小学校1年か2年の国語の教科書だったと思う。3匹のカニの兄弟が海を見つめ、その向こうに何があるのだろうと考える話があった。朝日の昇るのを見たカニは「お日さまの国」といい、昼間船の行くのを見たカニは「外国へアメリカへ行くんだ」といい、夜月の沈むのを見たカニは「お月さまの国がある」と言った。
   子供のときに最初に覚える国の名前はアメリカで、外国=アメリカという図式がここにある。
 アメリカは世界一の国だと言われ、アメリカ人はAmerica as No.1であることが大好きで、僕は正直なところアメリカのそんな部分は大嫌いで、だけど世界大2位の経済大国と言われる日本の2位というポジションは実はけっこう心地よいものなのかもしれないと、ふと思ったりもする。いずれにせよ、近世以前は中国、近現代においてはアメリカが日本に最も大きな影響を与えた(与えている)国であることは間違いなく、そんなアメリカのどこがすごいのだろうとアラスカあるいはシアトルあたりから探してきたけれど、はっきりした答は見つからなかった。
 今日の行程は巨大なロス都市圏を抜けてサンクレメンテという小さな町まで。

2001年7月17日

 サンタモニカ・ロサンゼルス(0km)
 華やかなサンタモニカに比べ、多国籍な出店やタトゥ屋なんかが並んでちょっと妖しげなベニスビーチ。欧米人ばかりに思えた宿にも日本人がいて、以前アメリカから足を伸ばしてメキシコにちょっと寄ったら面白かったから、今回は本格的にメキシコから中米を回ってみようと思ってきた、と話していた。
 図書館で再び長谷川さん、佐藤さんと待ち合わせ。ロスのダウンタウンへ。サンタモニカ市はロサンゼルス市とは別の町で、鉄道交通がおそろしく貧困なここでは、バスに揺られて小一時間の旅を強要される。混雑っぷりに普段は文句ばかり言っている東京の充実した鉄道網がとても羨ましい。
 カリフォルニアの海沿いを下ってくるにしたがい、町にヒスパニック系の人口が増えてくるのを感じたが、ロスのダウンタウンの通りは、スペイン語の看板が目立ち、品物が雑然と並べられ、ぶらさげられていて、長谷川さんも「メキシコシティはきっとこんな感じじゃないですか」と話していた。
 小銭をせがむ人、タバコをせがむ人、夕方になりダンボールの家を組み立て始める人。「そろそろやばくなってきた」僕らはそう言って、帰りのバスに乗った。

2001年7月16日

 レオ・カリロ→サンタモニカ(59.13km)
 午前中のうちにサンタモニカに着き、デリクと別れる。彼はこのあと先のハンティントンビーチまで走ると言った。
 泊まるつもりだったサンタモニカのユースホステルは満室。とりあえずメールを確認しに図書館に向かった。ロスの知人宅のところに昨日着いているはずの長谷川さん、佐藤さんから、たぶんメールが入っているだろうと思ったからだ。僕は逆に、サンタモニカのユースに泊まるつもりだとの連絡を2人に入れていた。
「16日の11時から12時の間にサンタモニカのユースに行きます」  メールを開いた時刻は11時すぎ。僕は再びユースに戻り、待ち、そして2人とシアトル以来の再会を果たした。
 彼らから、2kmほど離れたベニスビーチの宿情報をもらい、宿を確保したあとは、午後をのんびりと、旅の再会を祝いつつ、サンタモニカのビーチと街で過ごした。

2001年7月15日

 リフュージュ→レオ・カリロ(140.07km)
 デリクは、Bicycle Touring Mapなる専用の地図を持っていた。「カリフォルニアコーストその3」という地図は、サンタバーバラからサンディエゴまでの海沿いの道案内になっていて、ここで州道101号に入れとか、ここからHarbor Blid.を進めというように、地図上赤い線で示してある。
 デリクに訊くと、一般書店では扱っておらず、自転車協会のようなところから取り寄せるらしい。キャンプ場や安宿情報も載っていて便利。このややこしいハイウェイを地元サイクリストがどう旅しているのかの謎も解けたが、しかし、カリフォルニアコーストルートという決まりきった一本の経路にしか対応していないのはどうかとも思う。バスや鉄道の旅と違って、自由に好きな道を選べるのが自転車の魅力でもあるのに。
 関係ないが、デリクは大阪から広島まで国道2号をママチャリで走ったことがあると話していた。
 今日で走行4000km突破、地球一周の10分の1だ。

2001年7月14日

 ピスモ→リフュージュ(134.09km)
 キャンプ場で一緒になったデリワというシカゴ在住のアメリカ人サイクリストと同行することになった。彼は大阪で2年間中学の英語教師をしていたといい、「行キマショウカ」とか「危ナイ」など片言の日本語を話す。
 一日の走行距離は少ないと言っていたわりにデリクの走る速さは速い。荷物の少なさや車輪の細さもあって、上り坂ではたいてい引き離された。その置いていかれる感覚が学生時代以来で、自分の中で妙に懐かしかった。
 ロンポクという町のタコベルで昼食。タコベルとはメキシカンのファストフードでデリク曰く、日本には唯一長野荷しかないらしくわざわざタコスを食べに日帰りで大阪ー長野を往復したことがあると笑っていた。
 夕方、デリクと僕は交互にパンク。どちらも同じ植物のトゲが原因だったが、ぼくは昨日もパンクをしている。磨り減ったタイヤがそろそろ限界なのかもしれない。

2001年7月13日

 ゴルダ先→ピスモ(130.30km)
 昨日の三陸のような険しい地形から、オホーツク沿いのようななだらかな道に変わる。サンルイスオビスポという町がありユースホステルがあることを知っていたので田舎町で宿をとるのもたまにはいいかなと考えていた。
 ところがユースは夕方16:30からの受付。図書館で15分制限のメール確認と、商店街を土産物屋をぶらつきながらの散策と、スペイン人が最初に建てたという古い教会などを観光していたら、16時でおおかた見終わってしまった。余力があったのでロスまでの距離を縮めようと結局さらに先まで走る。

2001年7月12日

 サリナスリバー→ゴルダ先(157.84km)
 海沿いのアップダウンがひたすら続く。海岸線の複雑さは日本もひけをとらないだろうが、集落密度の低さと、赤茶けた山の感じと、舟影の全く見えない海上と、トンネルがなく高い崖の上を延々と行く道が、なんとなく日本とは違う。
 夕方の下り坂、背後から迫る自動車をよけようとして路肩から転落、肘と膝をケガしてしまった。小さなバンソウコウしかなく、血を流しながらウロウロしていると一台の車が停まってくれ包帯を頂いた。大怪我でなく自転車が壊れることもなくほっとする。
 地図上のキャンプ場が道路から遠く、山の中にあることが分かり、森林局の無人だった管理小屋の敷地内にテントを張らせてもらう。
 広い太平洋、日の沈もうとしているその遙か向こうに日本列島がある。この辺りはたぶん東京と同じくらいの緯度だ。

2001年7月11日

 オークランド〜サンノゼ→サリナスリバー(124.34km)
 以前見たとあるホームページで、アメリカ大陸自転車横断を断念した人の言葉として「アメリカは自由の国と聞いていたが、こと自転車については自由じゃなかった」と書かれていた。
 日本の場合、高速は自転車不可、一般国道は可と単純だが、アメリカの道はインターステートハイウェイ、USハイウェイ、ステートハイウェイと種類が多い上に、同じカリフォルニア1号線でも区間によって自転車可だったり、ある地点から突然自転車不可になって、○○Stというようなごく普通の町なかの道を迷いながら進まなくては行けなくなったりして非常にややこしい。
 昼間、州道17号という道を走っていたら白バイに止められ、この道は危険だからこっちへ行けと曲がりくねった狭い山道を教えられた。
 今日はオークランドからサンノゼまでアメリカの鉄道に載ってみたくて使ってみた。自転車専用のラックが会って感動した。このあたり、自転車に優しいのか、走りにくいのか、いまいちよく分からない。

2001年7月10日

 オークランド(13.07km)
 メジャーのオールスターが今夜だと気付きもう一泊おじゃますることにした。昼間はオークランド市内をぶらつく。漢字かハングルの集まる東洋人街の中心にはアジア図書館なる施設さえあった。
 新聞ではかなりの頁数がオールスターの当日特集にさかれていて、地元SFジャイアンツのボンズと並んでイチローが大きく扱われているのに驚いた。試合前の選手紹介のとき、佐々木は手を合わせるお辞儀のポーズでおどけていた。グレイハウンドで同乗した黒人が僕に向かって手を合わせて笑っていたが、この仕草はアメリカでもわりと知られているのだろうか。途中イチローの打席のとき、池袋駅前で街頭ビジョンに注目する日本人の姿が中継された。アメリカのテレビ局の東京支局がわざわざそんな風景を取材に行っているのだ。
 野球を見ながらお寿司をご馳走になる。カニとアボカドが海苔で巻かれたウワサのカリフォルニアロールを初めて食べたがなかなか美味だった。古くはアンパン、最近ではテリヤキバーガーやタラコスパゲティなど和製洋食はけっこう多いけど、逆の洋製和食というのも、馬鹿にしがちだけれどけっこう面白い。

2001年7月9日

 オークランド(27.0km)
海外では日本人は狙われやすいから気をつけろとよく言われる。どこへ 行っても比較的安全なのは現地の人に溶け込んでしまうことであり、東洋系住人の多いサンフランシスコでは割と容易だ。小さなザックで自転車にまたがって走っているとそうそう旅行者には見えまい。
 ただ、話しかけられると途端にボロが出る。スーパーの列に並んでいたら前に並んでいたおばさんに話しかけられた。店員とのやりとりで返品払い戻しの手続きをしているらしいことは分かったが、何を喋っているかは聞き取れず、適当に相槌を打つしかなかった。もっとも英語を話せない人口も多いときくから、そんなに怪訝には思われなかったかも。
   サンフランシスコからオークランドに戻る地下鉄、夕方の混雑時は自転車不可で18:15まで待たされた。東京みたいに20時台までラッシュでなくて良かったけれど。

2001年7月8日

 サンフランシスコ→オークランド(8.0km)
小学生のとき、うちにしばらくアメリカ人の男の子(セッポ)が日本人の母親と泊まっていた。サンフランシスコから湾を挟んだ場所のオークランドへ。自転車をバートと呼ばれる地下鉄に乗せて訪ねていった。
 17年ぶりで面影もほとんど覚えていないが、セッポは少し太っていて韓国人のガールフレンドと二人暮らしをしていた。コンピュータ関係の仕事をしているそうで、あとで彼女に聞いたのだが、アメリカ版シーマン(セガのテレビゲーム)の制作スタッフに彼の名前が加わっていて驚いた。
 夕食は日本人のお母さんに迎えられて、ちらし寿司とおでんという日本出発以来初めての 'まともな’日本食をご馳走になる。
 電子メールを確認すると、シアトルで会った長谷川さん、佐藤さんの二人から15日にロスアンゼルスに行くとの連絡あり。ここからロスまで自転車で1週間弱だろうからうまくするとそこで合流できるかもしれない。

2001年7月7日

 サンフランシスコ・ソノマーナパ(0km)
サンフランシスコの郊外にナパあるいはソノマと呼ばれるカリフォルニアワインの有名な産地がある。ゴールデンゲートブリッジを越えてまもなく景色は荒涼とした田舎道になる。
やがてブドウ畑が目立つようになるとソノマ。チーズの試食とワインの試飲ができた。ワインは有料でためらっていると、タダにしてやるから少し飲んでいけと、二種類の違ったワインをついでくれた。
 3日前の独立記念日からつなげて休みを取っている人が多いらしく、ワイナリーも店もどこも観光客で賑わっている。
 ナパから少し奥にいったカリストーガは温泉地で僕たちは温泉につかることを期待して訪れたが、値の張るマッサージエステ付きコースが主流で、しかも混んでいたため19時以降の温水プールしかあいていないと言われた。
 サンフランシスコに帰り休憩。テレビでは日本語放送をやっている。一日遅れのNHKニュースや少し前のドラマ。CMも日本人向けでエッチアイエスの広告が流れていたのには驚いた。
 夜は湯本さん推薦のものすごくボリュームのあるステーキレストランへ。これぞアメリカンサイズといわんばかりの、でも味はわりと日本人好みがする。一月半ぶりに肉をたんのうした。

2001年7月6日

 (リノ)〜サンフランシスコ(26.60km)
 サンフランシスコに朝8時に着き、まず空気の涼しさに驚く。夏でも肌寒いとは旅行会社の知識で知っていたが、まさにそうだ。タイヤの空気が少し抜けている気がしたのも、あるいは気温差のせいか。
 丘のつらなる市街を荷物を積んだままの自転車で、1周半もする。急斜面を登ってくるケーブルカーを坂の向こうに望める海の景色は、さすが絵になる。
 16時をすぎて先輩(湯本さん)の家へ。大学時代の2コ上で1年間の研修できているとのこと。奥さんは他大だけれど、こちらは僕と同期でやはり友人だ。霧にかすむゴールデンゲートブリッジを案内してもらったあと、イタリアンを御馳走になる。

2001年7月5日

 ソルトレイクシティー〜(リノ) (2.01)km
 ソルトレイクで3泊もとったのは、たっぷり休養し、再び南へ走り出す体力を養うためであったが、学生時代の先輩と父の知人がサンフランシスコに住んでいると分かり、砂漠地帯を逃れようという気持ちもあり、再び太平洋側へ出ることを決めた。旅の予定が電子メールのやりとりによって変わってくるというのは、一昔前までは考えられなかった旅行形態といえるかもしれない。
 朝チェックアウトしようとすると、入れ違いにチェックインに来た日本人(溝口さん)がいて、その人と一緒に街をぶらつくことにした。帽子から短い金髪がのぞいて、はじめ男かと思ったら女の子で、自分でも、この方が安全だろうと思って出発前に切ってきたんですと話していた。
 夕方、溝口さんと別れて、グレイハウンドの乗り場へ。前回自転車の積みこみで面倒があったので、今回事前に自転車のある旨申告したら、15ドル余分にとられ、しかもバスは余裕をもって空いていて、損をした気分になった。

2001年7月4日

 ソルトレイクシティー4.27km
 地図帳の世界の宗教分布図でソルトレイクだけ周りの北米地域と異なる色で塗られていることがある。ここがモルモン教の総本山ダカラダ。モルモン教というと、自転車に白いヘルメット姿でまたがり宣教活動をしているというイメージしかないが、テンプルスクエアという町の中心に位置する教会の施設群では博物館や映画上映が全て無料になっており、モルモン教のなんたるかを色々と知れるようになっていた。モルモン書によるとキリストは古代アメリカにも姿を現しているらしく、映画の中ではメキシコのピラミッドに降り立つキリストと教えを乞う先住民の人々が描かれていた。
 日本人の多分僕より若いと思われる女性ガイドが2人案内をしてくれた。『神様について考えたことがありますか』などと見つめられながら問われると戸惑うが、色々話しをしていると、イトーヨーカドーでバイトをしていましたとか、日焼けをしてしまって困るとか、ごく普通の会話もあって面白かった。ガイドあるいは宣教活動は一切ボランテイアでアメリカへの渡航費、生活費は全て自分もちなのだという。貯めたお金で1年半片や宗教活動に身を捧げ、片や自転車こいで世界を回ろうとしている。他人から見たら『どうして?』と思われる点ではある意味共通しているのだろうか。
2001年7月3日

 ソルトレイクシティー 28.11km
 午前中からすでに日射しは容赦なく照りつけ暑い。空荷で走っても暑く、昼間は冷房の効いた図書館で手紙を書いたりメールを送ったりして過ごす。
 この街には市の図書館と別にFamily History Libraryというもう一つ別の図書館があった。家族歴史図書館とは何だろうと思って訪れると、モルモン教会の運営で世界中の家系図や人名に関する情報が膨大に集められているところだった。係員に日本人がいて、その人に尋ねると、私たちは何より家族のつながりを大切にしています、日本の場合戸籍あるいは家紋などが大きな手がかりとなり、ここに集められています、との答だった。『日本人名事典』『珍名・奇名の話』『家系図を作ろう』なんて日本の書籍がずらりと並んでいる様子には唖然とすらした。
 夜日が落ちた頃に宿に戻ると今朝イエローストーンへ出かけたはずの韓国人(バスを逃してしまったらしい)とドイツ人が同室にいて、3人で色々話し込んでいると深夜になった。韓国人の彼はイエローストーンで2ヶ月程仕事をするのだと言い、ドイツ人の彼は来年のワールドカップをぜひ見に行きたいよなどと話していた。


2001年7月2日

 ウエスビル→ソルトレイクシティー127.25km
 暑い、尋常なく暑い。高原から平地に下ってきたぶんもろに暑い。東京のような蒸し暑さではなく、日射しがとことん苛烈だ。ワイオミングでもそうだったけれど、いたるところ午前も午後も夕方までスプリンクラーが働いているのは、この時期滅多に雨が降らないからだろうか。去年の夏札幌にいてつい10日ほど前までアラスカにいたせいかもしれないが、暑さへの抵抗力が弱まっている感じだ。
 ソルトレイクの街は思ったよりこじんまりとしていて巨大なビルが教会のオフィスビルと書かれていたのには驚いた。
 ここのユースホステルは空いていて、しかも少しオンボロだった。エアコンの代わりにファンが回っていて中庭があって、強い日射しが差し込んできて、どことなく東南アジアにありそうな安宿の雰囲気だ。
 ユースにいても涼しくないので、市の図書館へ逃げる。メールが10通ほどもきていてちょっと嬉しい。
2001年7月1日

 モントペリア→ウエルスビル141.59km
 朝起きて手洗いに行こうとするとキャンピングカーの窓からコーヒーを飲んでいかないかと声をかけられた。日本の三沢に住んでいたことがあるというおじいさんとどうやら再婚同士らしかったがその奥さん、三沢ときいてすぐにピンときたが、海軍にいたそうで、なんとその退職後の報酬として日本への国際線がたった10ドルで利用できるそうだ。僕は思わずうちから成田空港へ行くより安いですよと言ってしまった。
 個人的にいうと在日米軍は好きにはなれないが、こっちで会った日本在住経験者の何人かは軍の元関係者で、そして非常に親日的だ・十和田湖のキャンプ場で会った日本人のグループと辞書を仲介に通訳として、日本酒をもらったり、代わりにジンやビールをあげたことがあるなどと懐かしそうに話していた。
 ベア湖という湖沿いに、2002年冬季五輪の看板が揚げられたユタ州へ。いまのところ一番きついのではと思われた峠、上り以上に、直射日光と壊れた扇風機みたいな生ぬるい風に始終さらされる延々50kmほどの店の一軒もない下り坂の方がむしろ身体にこたえた。
 ウエルスビルという小さな村でその先の上り坂に挑む気がせず、住民に尋ね近くの川沿いの公園へ。釣りを楽しむ家族連れなどが多くいて、彼らが帰っていくのを待ってテントをはった。
2001年6月30日

 ホバックJct先→モントペリア  158.27km
 今日一つの約束をした。約半年後の約束。
 ワイオミングからアイダホにいたる道の途中で向こうから走ってくるサイクリストに会った。彼はスペイン語訛りの英語で、少し前にタカシという日本人に会ったとか、このあとどこへ行くんだいと話しかけてくる。僕がメキシコ、そして南米へ行くと言うと、彼の表情がとても嬉しそうになった。出身を尋ねると、彼はアルゼンチン、それも南米最南端のウシュアイアに住んでいるという。10月には帰っているから、ウシュアイアまで来た曉には、必ずうちに泊まっていけ、と。
 せいぜい10分ほどの立ち話の約束が年末ごろに果たされるかまったく分からないが、はるか遠い南米大陸のそれも最南端フェゴ島を目指す意欲が、湧いた。
 今日泊まったキャンプ場は、値段は高かったがなんとプール付きで快適だった。

2001年6月29日

 ルイスレイク→ホッバックJct先  153.48km
 イエローストーンから南接したグランドテイトン国立公園、そしてさらに南の町へ。下り基調で楽だとたかをくくっていたが、前半は上りも多く、後半、景色が一気に広がり平坦になった道では強烈な向かい風に泣かされた。グランドテイトンでは4000km級の山脈の眺めが鮮やかだった。
 イエローストンでは日本人に会わなかったが、グランドテイトンでソルトレイクに住んでいる日本人に会った。自転車を止めてカメラを構えていたら、突然日本語で声をかけられてびっくりした。  19時過ぎに着いた国有林内のキャンプ場、すべてのサイトが埋まっていて、人数の少なそうなとことにシェア(共有)してもらえないかたずねたが、最初の2組には断られた(うち1人は、自転車に乗って他を探せばいい、などと言ってきた)。シアトルで開いたディビットからのメールに「アメリカはどうだい?カナダ人の方がアメリカ人より親切だろ?」とあったのをはからずも思い出してしまった。3組目の夫婦は構わないと言ってくれ、僕はやっと寝床を確保することができた。

2001年6月28日

 ノリス→ルイスレイク 110.39km
 山並みや峡谷の景観が中心だった昨日と変わり、今日の行程は温泉地帯が続く。硫黄の臭いがどこか懐かしくて、高々と噴き上げる間欠泉や煮えたぎるマグマの池も、日本によくある地獄巡りを、幾らか大規模に点在させたような印象である。何軒か建つ豪華ホテルに露天風呂の一つでも造れば、さぞかし素晴らしいのに、と思わず考えてしまう。
 昨日に続いて今日も峠をいくつか越え、ルイス湖畔のキャンプ場へ。ここのキャンプ場の良いところは、車用のサイト$10に対し、徒歩および自転車用は$4と良心的に安くなっている点だ(ひどいところは$20近くして腹が立つこともある)。支払いはセルフ方式で、入口に封筒と箱があり、サインをして札を入れ、投函する仕組みになっている。今まで何度か知らんぷりしてテントを張っていたら、管理人が回ってきて徴収された(そんなときは、英語の苦手な日本人を振る舞う)。
 アラスカ、カナダではずっと長袖の行動だったが、イエローストーンに来て、初めて半袖になった。上腕から肩への日焼けが痛い。
2001年6月27日

 ガーデナー→ノリス113.12km
 アメリカ本土のガイドブックを持たない僕はイエローストーンが世界の国立公園で間欠泉が有名らしいという程度の予備知識しかなかった。あとはHISに勤めていた頃にイエローストーンの問い合わせは、国内線もホテルも混雑してとりづらく苦労させられたという、あまり好ましくない記憶があるだけだった。
   途中で手に入れた園内の地図を頼りに8の字をした道路をSの字を反転させた方向に進むことにした。荒涼としていたデナリとは好対照に緑の絨毯が敷きつめられたような広大な景色が続き、さすが知名度が高いだけのことはあると感嘆させられる。道はしっかり舗装されているが上り坂はきつく、ガーデナーの町1620mから最も高いダンラーベン峠2700mまで実に標高差は千を越えていた。
2001年6月26日

 スポケン〜リビングストン→ガーデナー 93.24km
 明け方の6時頃。何度目かの停車で起こされる。黒人の係員がbicycleと叫び僕を呼んでいる。寝ぼけ半分で聞くと、どうやら荷物が満杯でお前の自転車があぶれたから、次のバスに載せると言っているようだ。その次のバスというのは隣に停まっていたが、どのくらいの時間差で着くのか訊いても、答えはI don’t know.眠くて頭が回らなかったが、下手をするとこのまま自転車とはぐれかねない不安が募り僕は再度抗議した。アメリカ人は親切な人は親切だけれど、えてしてこうゆうところの係員は、いざ自転車とはぐれてしまったとき、何もしてくれない恐れがあった。なんとか荷物を積めてもらい、どうにか僕の自転車は元どうり載った。
 近くの席に座っていた陽気なスキンヘッドの黒人がむかついた時にはこうしてやればいいんだと中指を立てる仕草をし、また無事走り出したあとには親指を立ててグッドの合図をしてくれた。
 ともあれ13時リビングストン着。強い追い風に恵まれ、上り坂にもかかわらずイエローストーン入り口のガーデナーへ19時前に着いた。オランダ人カップルのサイクリストがいて、アフリカや南米を回ってきたと話していた。
2001年6月25日

 シアトル〜スポケン17.68km
 3泊したシアトルを後にする。昼間は郵便局へ行ったり、大学の図書館へ出かけたが、ここでも日本語の声を多く聞いた。日本人はいつも日本人同士で群れてばかりいるとよく批判的に言われるが、ふと思うのは英語を母国語にしている人たちは言葉に対する飢えを感じることがあるのだろうか?またアルフアベットを使っている人たちー仏語・独語その他含めてーは、文字に対する渇きを覚えたことがあるだろうか?ということだ。中国の奥地で漢字しか通用しない場所へ行けば分かるのかな?ユースホステルを後にするとき、田中さんが文庫本を一冊くれた。一冊あれば次誰か日本人に会った時に交換できますよ、と。
 グレイハウンドシカゴ行の出発は19:20。この旅初めての輪行(自転車を分解してバスや列車に乗せること)だ。
2001年6月24日

 シアトル(14.55km)
 おととい、昨日と二日連続で夜更かしで喋ってしまい、 朝の行動が必然的に遅くなる。
 一緒に野球に行ったメンバーは、自転車でロサンゼルスから北上してきた田中さん、ワーキングホリデーでバンクーバーに住む高久さん、 グレイハウンドバスで全米周遊の2人組、自転車ツーリングも好きな 長谷川さんと、人はみかけによらずと自分でいっていた生け花をする という佐藤さん。サイクリスト率の高さは驚きだが、旅の話はもちろん、英語の難しさや日米の風土の違いについてなど、ビールで酔っていたせいもあるのか、延々と話し込んでしまった。
 今日は高久さんはバンクーバーへ帰り。長谷川さん、 佐藤さんの2人はサンフランシスコへ。僕は2人を見送りがてらグレイハウンドの乗り場で明日の時刻を確認する。 昨日紀伊国屋書店で、地球の歩き方『アメリカの国立公園』を 立ち読みし、また地図でアメリカ縦断の距離を図った結果、シアトルからイエローストーン公園の入り口まで走ったら1週間かかりそうな 道のりをバスで行ってしまうことにした。
 夕方、紀伊国屋で今日は辞書を買う。アメリカ人向けの日本語の 辞書で和英はローマ字引きになっている。また隣の日系スーパーでは 納豆2パック99セントを売っていて思わず買ってしまった。

2001年6月23日

                                     シアトル(0km)
 メジャーリーグを観た。シアトルマリナ−ズ対アナハイムエンジェルス。券はすべて売り切れ、一緒に行った日本人は昨日は入れなかった と言い、今日はダフ屋から$6の席を$39($1値切って)で買う。 日本人も確かに多いけれど、首位快走のため、地元人気で埋まってまっているようだ。 あとで別の日本人に聞いた話だと$30の席を$90で買っか、、、。
 アメリカの球場はフェンスが低く、練習をしている選手との距離が とても近い。佐々木とイチローがライトを守っており、僕たちはすぐ間近でそれを見ていた。 と、鋭いライナーがこっちへ飛んでくる。一緒にいた佐藤さんが捕ろうとして手に当てたが打球が強すぎてボールはグラウンドに撥ね返る。それを拾った大魔神佐々木がなんと「だいじょうぶ?」と僕たちに声をかけてからボールを放ってくれた。小学生みたいにはしゃいで喜ぶ僕ち、周りの地元の人たちも拍手だった。
イチローの活躍を騒いでいるのは大方日本人ばかりだと思っていたが、 地元人気もすさまじかった。背番号51のユニフォームを着たファンの姿は数多く、'GO ICHIRO' と書かれた手書きの応援ボードを掲げる子供もいた。
試合は2対1でアナハイムがリード、9回裏一死一塁で打順の回って きたイチロー、このときの球場全体に轟くイチローコールは、その日一番の大合唱だった。残念ながらイチローは凡退してしまい、次の打者に対する応援は明らかに沈んでしまっていた。結局シアトルは敗北、イチローは無安打、佐々木の登板は無く、また、あるいはと期待したアナハイムの長谷川も故障中とのはなしで見かけることができなかったが、$39は十分取り返した満足の一日だった。

2001年6月22日

 ベリンハム→シアトル(160.29km)
 少し強引なたとえかもしれないが、アラスカは北海道に似ていたと 思う。北に位置し広大な土地と自然が広がり、そしてまた、 先住民族の文化が色濃く残っている。 ベリンハムに着いて船内から見える丘を埋め尽くすような建物の 密度に、僕は早速アラスカとの雰囲気の明らかな違いを感じた。 海に沿った坂が多い林の中の道をしばらく進むと、 牛馬の姿の目立つ田園風景になった。 片道1車線の狭い道には、日本の東北地方の田舎道でも走っている かのような感覚があった。
 50kmほど手前から、シアトルの都市圏が始まる。道はいつのまにか ステートハイウエイと呼ばれる、日本の国道のような道になり、 アラスカでは一軒も見かけることのなかったコンビニを見た。 そして、高層ビルの立ち並ぶシアトル市街へ。
港のそばのユースホステルでは、最初満室だと言われ唖然としたが、 TVルームにマットレスを敷いて泊まっていいと言われほっとする。 この旅で初めて日本人の旅行者に会った。 フェアバンクスで会ったおじいさんと交わした数言を除けば、 まともに日本語を話すのはほぼ一月ぶりのことだ。

2001年6月21日
C カナダ沿海(0km)
 一日に何回か、船内の正面展望室で講聴会が開かれる。アラスカの自然や先住民の文化についての説明で、当然英語のみだが、暇なのでその大半に参加した*ただ座っているだけ。あまりに聴きとれないときは外の景色を眺める。
 昨夜の題目だが、Eagle and Ravenという話があった。クリンケット族にはクランと呼ばれる階級があって、そのうちの二大重要クランがEagle とRavenという2種の鳥であるらしい。説明をしてくれる女性は、私のクランはEagleなのに、あるとき町を歩いていたら後ろからCについてこられて困ったことがあると笑って話していた。Eagleは鷲だがRavenが何だか分からず(カラスはたしかクロウだし)、そのあと尋ねたら、カラスより大きくてくちばしが尖り、尾の形も違うやつだと教えてくれた(『地球の歩き方』のページをいろいろ探すと、Raven=ワタリガラスと日本語訳が載っていたのを、さらに後になって見つけた)。
 講聴会のほかは、手紙を書いたり、本を読んだり(日本語の小説なら3時間あれば読み終わる。英語だと3日間かなと思ったら、まだ全体の6分の1・・・)。ぶらぶらと甲板を散歩していたりし