ふねしゅーの地球紀行
    2001年6月
               



2001年6月26日

 スポケン〜リビングストン→ガーデナー 93.24km
 明け方の6時頃。何度目かの停車で起こされる。黒人の係員がbicycleと叫び僕を呼んでいる。寝ぼけ半分で聞くと、どうやら荷物が満杯でお前の自転車があぶれたから、次のバスに載せると言っているようだ。その次のバスというのは隣に停まっていたが、どのくらいの時間差で着くのか訊いても、答えはI don’t know.眠くて頭が回らなかったが、下手をするとこのまま自転車とはぐれかねない不安が募り僕は再度抗議した。アメリカ人は親切な人は親切だけれど、えてしてこうゆうところの係員は、いざ自転車とはぐれてしまったとき、何もしてくれない恐れがあった。なんとか荷物を積めてもらい、どうにか僕の自転車は元どうり載った。
 近くの席に座っていた陽気なスキンヘッドの黒人がむかついた時にはこうしてやればいいんだと中指を立てる仕草をし、また無事走り出したあとには親指を立ててグッドの合図をしてくれた。
 ともあれ13時リビングストン着。強い追い風に恵まれ、上り坂にもかかわらずイエローストーン入り口のガーデナーへ19時前に着いた。オランダ人カップルのサイクリストがいて、アフリカや南米を回ってきたと話していた。
2001年6月25日

 シアトル〜スポケン17.68km
 3泊したシアトルを後にする。昼間は郵便局へ行ったり、大学の図書館へ出かけたが、ここでも日本語の声を多く聞いた。日本人はいつも日本人同士で群れてばかりいるとよく批判的に言われるが、ふと思うのは英語を母国語にしている人たちは言葉に対する飢えを感じることがあるのだろうか?またアルフアベットを使っている人たちー仏語・独語その他含めてーは、文字に対する渇きを覚えたことがあるだろうか?ということだ。中国の奥地で漢字しか通用しない場所へ行けば分かるのかな?ユースホステルを後にするとき、田中さんが文庫本を一冊くれた。一冊あれば次誰か日本人に会った時に交換できますよ、と。
 グレイハウンドシカゴ行の出発は19:20。この旅初めての輪行(自転車を分解してバスや列車に乗せること)だ。
2001年6月24日

 シアトル(14.55km)
 おととい、昨日と二日連続で夜更かしで喋ってしまい、 朝の行動が必然的に遅くなる。
 一緒に野球に行ったメンバーは、自転車でロサンゼルスから北上してきた田中さん、ワーキングホリデーでバンクーバーに住む高久さん、 グレイハウンドバスで全米周遊の2人組、自転車ツーリングも好きな 長谷川さんと、人はみかけによらずと自分でいっていた生け花をする という佐藤さん。サイクリスト率の高さは驚きだが、旅の話はもちろん、英語の難しさや日米の風土の違いについてなど、ビールで酔っていたせいもあるのか、延々と話し込んでしまった。
 今日は高久さんはバンクーバーへ帰り。長谷川さん、 佐藤さんの2人はサンフランシスコへ。僕は2人を見送りがてらグレイハウンドの乗り場で明日の時刻を確認する。 昨日紀伊国屋書店で、地球の歩き方『アメリカの国立公園』を 立ち読みし、また地図でアメリカ縦断の距離を図った結果、シアトルからイエローストーン公園の入り口まで走ったら1週間かかりそうな 道のりをバスで行ってしまうことにした。
 夕方、紀伊国屋で今日は辞書を買う。アメリカ人向けの日本語の 辞書で和英はローマ字引きになっている。また隣の日系スーパーでは 納豆2パック99セントを売っていて思わず買ってしまった。

2001年6月23日

                                     シアトル(0km)
 メジャーリーグを観た。シアトルマリナ−ズ対アナハイムエンジェルス。券はすべて売り切れ、一緒に行った日本人は昨日は入れなかった と言い、今日はダフ屋から$6の席を$39($1値切って)で買う。 日本人も確かに多いけれど、首位快走のため、地元人気で埋まってまっているようだ。 あとで別の日本人に聞いた話だと$30の席を$90で買っか、、、。
 アメリカの球場はフェンスが低く、練習をしている選手との距離が とても近い。佐々木とイチローがライトを守っており、僕たちはすぐ間近でそれを見ていた。 と、鋭いライナーがこっちへ飛んでくる。一緒にいた佐藤さんが捕ろうとして手に当てたが打球が強すぎてボールはグラウンドに撥ね返る。それを拾った大魔神佐々木がなんと「だいじょうぶ?」と僕たちに声をかけてからボールを放ってくれた。小学生みたいにはしゃいで喜ぶ僕ち、周りの地元の人たちも拍手だった。
イチローの活躍を騒いでいるのは大方日本人ばかりだと思っていたが、 地元人気もすさまじかった。背番号51のユニフォームを着たファンの姿は数多く、'GO ICHIRO' と書かれた手書きの応援ボードを掲げる子供もいた。
試合は2対1でアナハイムがリード、9回裏一死一塁で打順の回って きたイチロー、このときの球場全体に轟くイチローコールは、その日一番の大合唱だった。残念ながらイチローは凡退してしまい、次の打者に対する応援は明らかに沈んでしまっていた。結局シアトルは敗北、イチローは無安打、佐々木の登板は無く、また、あるいはと期待したアナハイムの長谷川も故障中とのはなしで見かけることができなかったが、$39は十分取り返した満足の一日だった。

2001年6月22日

 ベリンハム→シアトル(160.29km)
 少し強引なたとえかもしれないが、アラスカは北海道に似ていたと 思う。北に位置し広大な土地と自然が広がり、そしてまた、 先住民族の文化が色濃く残っている。 ベリンハムに着いて船内から見える丘を埋め尽くすような建物の 密度に、僕は早速アラスカとの雰囲気の明らかな違いを感じた。 海に沿った坂が多い林の中の道をしばらく進むと、 牛馬の姿の目立つ田園風景になった。 片道1車線の狭い道には、日本の東北地方の田舎道でも走っている かのような感覚があった。
 50kmほど手前から、シアトルの都市圏が始まる。道はいつのまにか ステートハイウエイと呼ばれる、日本の国道のような道になり、 アラスカでは一軒も見かけることのなかったコンビニを見た。 そして、高層ビルの立ち並ぶシアトル市街へ。
港のそばのユースホステルでは、最初満室だと言われ唖然としたが、 TVルームにマットレスを敷いて泊まっていいと言われほっとする。 この旅で初めて日本人の旅行者に会った。 フェアバンクスで会ったおじいさんと交わした数言を除けば、 まともに日本語を話すのはほぼ一月ぶりのことだ。

2001年6月21日
C カナダ沿海(0km)
 一日に何回か、船内の正面展望室で講聴会が開かれる。アラスカの自然や先住民の文化についての説明で、当然英語のみだが、暇なのでその大半に参加した*ただ座っているだけ。あまりに聴きとれないときは外の景色を眺める。
 昨夜の題目だが、Eagle and Ravenという話があった。クリンケット族にはクランと呼ばれる階級があって、そのうちの二大重要クランがEagle とRavenという2種の鳥であるらしい。説明をしてくれる女性は、私のクランはEagleなのに、あるとき町を歩いていたら後ろからCについてこられて困ったことがあると笑って話していた。Eagleは鷲だがRavenが何だか分からず(カラスはたしかクロウだし)、そのあと尋ねたら、カラスより大きくてくちばしが尖り、尾の形も違うやつだと教えてくれた(『地球の歩き方』のページをいろいろ探すと、Raven=ワタリガラスと日本語訳が載っていたのを、さらに後になって見つけた)。
 講聴会のほかは、手紙を書いたり、本を読んだり(日本語の小説なら3時間あれば読み終わる。英語だと3日間かなと思ったら、まだ全体の6分の1・・・)。ぶらぶらと甲板を散歩していたりして過ごす。たまに誰かが歓声を発するので見やると、鯨が泳いでいるのが眺められたりもする。ホエールウオッチングなんて、もっと高い金を払ってわざわざする贅沢な観光だと思っていたが、州営フェリーから見られるなんて、アラスカ・カナダの海は素敵だ。

 日本を発ってひと月弱。明朝のベリンハム着で旅の序章「アラスカ・カナダ編」は終了だ。前半の山と自然、中盤の人との出会い、そして後半の海と文化、いずれをも堪能できて良かった。実のところ、北米への興味は他大陸に比べて薄く、かつ日本を出て間もない時期の方が逆に精神的には孤独感があって辛いだろうとは思っていたが、ホワイトホース以降、身体の中に旅のリズムが刻まれてきた感じだ。
 第ニ章「アメリカ」、そして目指せメキシコ!

2001年6月20日

アラスカ沿海〜ケチカン〜国境沿海(9.62km)
4日前まではシトカのあとケチカンという町に降り、次の船でカナダのプリンスパートへ行こうと思っていた。でもその後の交通手段や日程そしてバンクーバーやビクトリアにはかつて訪れたことがあることも考え合わせた結果、ベリンハムに直行しようと予定を変えたのだ。
 ところが、その割愛したはずのケチカンに寄ることができた。そこでの停泊時間が3時間以上と長くかつ町の中心部まで5km弱と近かったためだ。これは予期せぬ幸運で、閉じこめられっぱなしとおもっていた船から抜け出せて気分転換にもなった。
 アラスカの南端に位置するケチカンはトーテムポールの町として有名で、遺産センターでは先住民の村から集められたという元来のトーテムポールを見ることができた(街角でよく見かけるトーテムポールは近年観光のために作られたものが多い)それでもせいぜい160年ほど昔のものにすぎないらしいが、飾り気のおさえられた木の古い感じが、日本でいえば古いお寺の柱や仏像みたいで味があった。
 時間的には前後するがケチカン到着前に一人の男性と話をした。このあと3年かけて世界を回ると言っていた彼は鷹の羽がたくさん付いた杖を持ち、何かの骨か違うのかは分からないが腕輪や首飾りを身につけ、僕らがイメージするいわゆるアメリカインデアンのいでたちをしていた。彼は同じモンゴロイドの僕に親近感があったのか、海賊の帽子のようなマスクをくれ、僕はお礼に折り鶴をJapanese fortune symbolだと言って渡した。
2001年6月19日

 シトカ〜アラスカ沿海(15.0km)
午前中はシェルドン・ジャクソン博物館という小さな博物館へ。先住民族のお面や笠や籠のような入れ物などが並べられていたが、なまはげみたいなお面があったりして日本のものに近い雰囲気が感じられて面白い。
 午後からは長い船旅の始まり。ワシントン州ベリンハム到着がなんとしあさっての朝の予定だ。船内の食事は高そうなので食料を大量に買い込み、ご飯を3合位炊いて弁当も作り、さらに暇つぶしと勉強をかねて読書に挑戦しようと一冊洋書まで買った(ジュラッシックパークで有名なマイクル・クライトンの"タイムライン"邦訳も出ていたはず。少なくとも内容が面白くないと絶対に読めるはずがないので自分なりの安全パイを選んだ。
2001年6月18日

 ジュノー〜シトカ(25.13km)
 ジュノーのメンデルホール氷河で会った自転車ツアーの女性ガイドが、シトカは素晴らしい。行くべきだと強く勧めていた。そのシトカは、ロシア人が築いた町で、アラスカがアメリカに売却されたのちもしばらく州都として栄えた(アラスカの中では)古都である。ロシア軍がクリンケット族を制圧した古戦場や、売却後初めて星条旗が翻ったとされる城跡などが残されていて興味深い。当時のアメリカ世論はアラスカ買収に大反対で、国務長官は巨大冷蔵庫を買った男として非難されたらしいが、のちにソビエトの某政治家が返せと言ってきたときには保管されていた当時の証書を持ち出して突っぱねたそうだ(ジュノーの博物館にそのときの新聞のマンガが展示されていた)。
 そんなシトカの町は、橋を渡った対岸にヤポンスキー島という小さな島があったり、さらにその向こうにシトカ富士の異名をもつ富士山によく似た山があったりして面白い。州営フェリーのシトカを紹介するページにも‘volcano Mt.Edgecumbe rises 3200feet from the sea, resembling Japan`s Mt.Fuji’なんて書かれている。
 またシトカは、ジュノーやスキャグウェイと違って外洋に近く面していて、津波が起こり得るらしく‘TSUNAMI’を警告する標識をあちこちで見かけた。思わずサザンの曲が頭に浮かんでしまったが、津波という日本語は「TOFU」や「NINJA」と並んで数少ない国際語なんだなと(しかも日本固有の文化ではなく!)少し感動した。
2001年6月17日

 ジュノー(45.28km)
 やられた。フェリーの時刻が変わっていた。19時が深夜の1時。乗り遅れたわけではないからまだマシなのかもしれないけれど、市街から20kmも離れたフェリー乗り場まで来て、周りには店の一軒もないし、僕はしばし途方に暮れた。明日のシトカの昼の観光もできなくなってしまうし・・・。
 ともあれ、時刻変更は仕方のないことで、フェリー乗り場の待合室を21時にまた開くからと追い出された僕は、5kmほど来た道を引き返し、郊外型のショッピングモールで日の暮れない長い夕方を過ごすことにした。
 乗船は日付けも変わる0時すぎ。アンカレジ以来、カナダ国境のビーバークリークで一度だけ深夜0時の燃えるような夕焼けを見たが、緯度の違いだろうか、この旅初めて、真っ黒な夜空(曇っていたけれど)を見た。
2001年6月16日

 ジュノー(0km:すべて徒歩)
 アラスカには道路で外界とつながっていない、いわゆる‘陸の孤島’的な場所がたくさんある。それはイヌイットたちの多く住む内外アラスカの村だったり、あるいは一方を氷河の山脈、一方を海によって隔てられた東南アラスカの町だったりする。アラスカの州都であるジュノーも、そんな船か飛行機でしか訪れることのできない町だ(州都のくせに不便だと思うのは日本的思考なのか?)。
 そんな険しい地形に位置するジュノーは坂の町だ。地元の観光案内紙には「サンフランシスコのような」と形容されていたが、僕は神戸の異人館界隈を彷佛とした。とくにユースの周りは急坂で、さして広い町でもないので、歩いて観光することにした。
 人口は3万人弱、その半数は国や州の行政機関に関わる仕事(とその家族)らしいが、巨大なクルーズ船の停泊する港を中心に数多くのレストランや土産物店が並び、華やかな印象だ。行政都市というより、観光都市の顔だ。
 午前中は博物館、午後は図書館、夕方は街をぶらぶらと散歩する。図書館ではせっかくだから英語の勉強でもするかと思い、辞書を探したが、日本語の辞典は一冊も見当たらなかった。小型の英和・和英辞典を持ってくればよかったと思う。
 代わりといってはなんだが、先住民について調べてみた。アラスカの先住民は文化や言語から大きく4つに分類されるらしいが、全人口61万人に対し、先住民族は合わせて10万人の約16.7%。これが全米だと2億5千万に対し196万の0.8%。とりわけジュノーあたりに暮らしていたクリンケット族と呼ばれる人々はより成熟した社会を形成していたらしく、その分都市化しているのか、通りを歩いているとモンゴロイドの人をよく見かけた。
2001年6月15日

 スキャグウェイ〜ジュノー(44.8km)
 今日からしばらく船旅が続く。その出だし、なんとも間抜けな考え違いで僕は一人朝から焦っていた。なぜかと言えば、正しいはずの船着き場に、正しい時刻の40分も前に着いていたのに、それらしき船はまったく来ず、同じ便に乗りそうな他の乗客の姿も全く見当たらなかったからだ。しかも、周りの船乗りに訊くと、この場所であっている、8時だ、と答えるばかり。天気も雨だ。
 原因が分かったのは、ようやく他の乗客たちがやってきた頃、船は遅れているのかと尋ねる僕と彼らの返事はまったく噛み合わない。当たり前だ。そのとき時刻は7:30、出航予定のようやく30分前。僕はなんと昨日までいたカナダ・ユーコン時間で計算していて、すでに8:30だと思いこんでいたのだ・・・。
 ともあれ無事に乗れたジュノー行きの高速船(実はいざ乗船の際も、予約なしだったため、あやうく満席だと断られるところだった)。旅行客相手の観光クルーズの面が強くいささか値段は高かったが、岩壁に寝そべるアシカの大群や潮を吹くクジラの姿など観ることができて有意義だった。
 船内で相席になった親子が僕が広げていた『地球の歩き方』の日本語に興味を示し、娘たちは自分の掌に「アラスカ」「ヘインズ(彼女たちの住んでいる町。船はそこに寄港した」と片仮名を見よう見まねで書き写していた。うち一人は「ヘイソス」と間違えて書いていたけれど・・・。
 ジュノーのフェリー港は、市街から北へ20km以上も離れたオークベイという別の町にあり、そこからメンデルホール氷河というけっこう大きな氷河に寄り、そして市内に向かった。ユースホステルには大勢の旅行者が泊まっていて、日本人とおぼしき3人組もいたが、外見がそっくりなだけで英語ペラペラのアメリカ人だった。
2001年6月14日

カークロス→スキャグウェイ(114.0km)
 1泊したカークロスの町は、湖のほとりのひなびた小さな村だったが、廃線沿いに古い建物が残り風情があった。しかも、なんだかお祭りというか、レセプションをやっていて、昨日の夜はタダで飲食ができて幸運だった。
 北緯60度の線を越え、カナダ―アメリカの国境を再び越える。標高約1000mの峠付近は風が強くて寒く、流れる川は半分凍ってまるで氷河のようにも見えた。
 急坂を一気に下ると湾に面したスキャグウェイの町。先住民の言葉で風の場所という意味のこの町は、人口わずか800人。しかしゴールドラッシュ当時は2万人が住んでいたという。そのころの古い街並み、まるで西部劇に出てくるような家並みが残っていて、人口をはるかにしのぐと思われる観光客で混み合っていた。
2001年6月13日

ホワイトホース→カークロス(82.43km)
 デビッドや奥さんのロバータとはこの4日間色々な話ができた。たい がいどこかの宿や観光地で誰か(外国人)と話す機会があってもWhere are you from?程度の会話しかできないことが多いが、日本とカナダの文 化の違い、宗教の違いからジョエルの教育についての問題まで、本当に、たくさんの話ができた。つたない英語力で自分でもよく喋れたものだと思う。
 昼食をご馳走になって、最後でかけようという時、仕事先のデビッドから電話があった。その時電話口の僕にロバータがある言葉を言ってくれと横で話した。その言葉は耳慣れない単語で(残念ながら忘れてしまったが)僕が発したその言葉を聞いたデビッドは愉快そうに笑った。
 あとで訊くと、ロバータは、それは私達の言葉で‘ありがとう’だと答えた。
 最初にキャンプ場で会ったときから、顔立ちがアジア系だなとは思っていた。出身がカナダのさらに北の方だと言っていたので、元々は先住民族の人なのかなとは感じていた。ただなんとなく、理由はないけれどはっきりそうとは尋ねづらい気がして、聞かずにいた。
 博物館や史蹟へ行っても、白人がやってくる前の時代は、先史時代のような扱われ方しかしていない。白人は先に住んでいた人々から、土地を奪い、文化を奪い、言葉を奪い、宗教を奪った。でも、普段は100%英語を話し、普通の都市生活を送る彼女にも、ちゃんと祖先の挨拶は受け継がれていたのだ。
 もう少し、そんな話題にも触れてみればよかったかなと、ホワイトホースを発ちながら思った。デイビッドならきっと嫌がらずに答えてくれただろう。
2001年6月12日

 ホワイトホース(15km)
スキャグウエイに向けて走り出すつもりが、朝もう1日泊まっていけと言われ、その言葉に甘えてしまう。急ぐ旅ではないしこうゆう機会は滅多に得られるものではないだろう。
    たぶんデビッドの家はカナダではごくごく平均的な生活なのだろう。テレビがあり、ビデオやCDコンポがありコードレス電話があり電子レンジがある。ジョエルの部屋にはニンテンドウ64があった(初めてプレイした)。これからは国や地域の違いよりも、世代の違いのほうが大きい時代になっていくと、日本を発つ前のいつかの新聞で読んだ。日本とカナダを見るかぎり、たしかにどんどん接近している感じだ。ある意味つまらないことだと言えるのかもしれないけど。
 この日ジョエルは午後から学校へ行った。その間僕はユーコン大学へ出かけた。
 夕方、デビッドは仕事から帰り近くの公園に遊びに出かけた。キャンプ場で一緒だったジョエルのいとこたちも来ていた。

2001年6月11日

 ホワイトホース(14.14km)
 ホワイトホースはユーコン準州の州都、べーリング海峡に注ぐ大河ユーコン川に沿って開けた都市だ。人口2万3千人は決して多くはないが、政治、経済そして観光の拠点として賑わっている。これはカナダのどの町でも同じだけれど、役所関係の標識や観光案内は必ず英語とフランス語の併記になっている。市の図書館に置かれた3台のパソコンのうち1台はフランス語対応(キーボードも少し違う)になっていた。
 昼は町の中心部を散策。マックブリッジミュージアムという小さな博物館を見学した。ユーコンの自然やゴールドラッシュ当時の生活や社会の様子が展示されていた。アラスカにせよユーコンにせよゴールドラッシュというのは、町や交通網の形成における最も重要な出来事になっているようだ。裏を返せば、もし金の発見がなければ全く異なる地図ができあがっていたのだろう。
 夕方、家に戻ってジョエルの落書き遊びに付き合う。間もなくデビッドが仕事から帰ってくる。たいがいは定時に帰ってくるらしく、しかも通勤時間は車でわずか数分。このあたりがカナダ流といったところなのだろうか。この後家族揃ってやや郊外のベリンジアセンターという氷河期の生活や生物を扱った博物館へ連れていってくれた。

2001年6月10日

 この日記をホワイトホースの民家の居間で書いている。なんと昨夜会った家族の家にそのまま泊めてもらうことになったのだ。
 37歳の父親ディビッド、母親ロバータ、息子のジョエル、犬のベラ。そして、いとこのもう一家族。彼らと一緒に自転車ごとキャンピングカーに乗せてもらい、自転車なら丸一日の距離を2時間たらずで、コーコンの州都ホワイトホースに着いた。
 ホワイトホースの中心部からコーコン川を渡ってわりとすぐのところにディビッドの家はあった。1階に居間と台所、2階には3部屋ほどあり、日本でのごく普通の3LDKという感じだ。ジョエルのほかに、その上の息子と娘がいるが、2人ともなんと、チェコのプラハの学校に通っているのだという。
 車はキャンピングカーのほかにもう一台、後ろがトラックになった車(軽トラを一周り大きくした感じで座席は2列あり6人乗れる)があったが、フロントガラスにひびが入っているのには驚いた。小さくて高性能な車が多い日本と、オンボロだけど大きな車が走り回っているカナダ。国土の広さ、そして国民性の違いだろうか。
 昨日寄った売店で、日本で発生した事件のことを聞いた。男が小学校に押し入り、ナイフで子供を殺したという事件。新聞を見せてもらうと、1面のindexに見出しが載っており、カナダでも大きく報じられている用だった。英文で読んでも、酷いニュースは酷い。悪いニュースのほうが大きく扱われるのが常とはいえ、久しぶりに耳にした日本の話がこういう話題だと悲しくなる。日本をよく知らないこっちの人には、ますます日本が不可思議な国に思われてしまうのかもしれない。
2001年6月9日

 走ってもキャンプ場にいても、やっかいなのが蚊だ。北米の蚊は大きいうえにその数が問題なのだ。これがイナゴだったら全身食い尽くされてしまうのではないかと思えるほど大群で集まって来る。平らな道や下り坂ならいいが、速度の出ない上り坂を走っているとき、とりわけ日が射している時は最悪だ。虫よけスプレーもあまり効いているきがしない。
 不思議なのがアンカレジからデナリまで五月中はほとんど蚊に遭わなかったこと。蚊に悩まされるようになったのは6月2日のネナナからだ。それまでは冬眠していて一斉に活動を開始したのだろうか。
今日はここ数日では短い130kmほどの道のり。左手にクルワン湖という細長い湖、右手には世界遺産に指定されている氷河地帯をその奥に抱える白い山脈がみえた。
 途中の工事区間、ここでこの旅初めて自転車以外の乗り物に乗った。交互通行になっていて自転車ごとトラックで運ばれたのだ。アンカレジから続いてきた自転車走行の意外なところで最初に途切れた。(少しも残念ではないけど)
 泊はへインズジャンクション。これまた小さな町だが、ミュージックフェステバルという小さなお祭りをやっていた。(ただし入場料$15のため見ず)
 ヘインズジャンクションのキャンプ場で隣のサイトにキャンピングカーで来ていた男性と仲良くなった。子ども連れ(兄弟でなくいとこだと言っていた)で、ホワイトホースに住み、電話会社で働いているという。これからアメリカを経由してメキシコへ行くと言ったら、メキシコはとて4もナイスだと嬉しそうに話した。彼のふるまってくれたコロナビールはメキシコ産だった。
  2001年6月8日

 腕時計を失くしてから、自転車の速度計を時計代わりにしている。ただ時差が面倒なので、ずっと日本時間にしている。たとえば朝、自転車をこぎ始めるころ、メーターの時計は午前1時すぎを示す。夕方そろそろ目的地に着くか、あるいは昨日のようにまだ数十kmを残しげんなりしているころ、メーターは正午になろうとしている。すると、そろそろ「笑っていいとも」の時間だな、なんて思って、頭の中にオープニングメロディとタモリの顔が浮かんできたりするわけだ。「笑っていいとも」といえば、かつて1回だけタモリが私用で休んだことがあるという噂を聞いたことがあるけど、いったいそのときは誰が代役を務めたのだろうか? なんてくだらない連想も膨らむ。ちなみに今日は金曜、日本は土曜だから、よく考えると「いいとも増刊号」の日だ、とか。
 本日の特記事項、それはついに熊に出会ったこと! すぐ脇の草むらでガサッと音がして見やったら、薮の中に走り込む熊の後ろ姿が見えた。さすがにびびった。そのまま通りすぎ、ややあって後ろを振り向くと、さっきの熊が草むらからのそっと現れ、悠然と道路を渡りだした。ちょうど車の通りはなかった。人が熊を恐れている以上に熊は人間を恐れているというから、その熊はたぶん、人や車が通らないときを見計らって道を渡ろうとしていたのだ。そうしたら突然自転車にまたがった僕が現れ、むしろ熊のほうがびっくりしていたのかもしれない。
2001年6月7日

 トワからカナダとの国境へ向けて、上り基調の坂道が続く。ここで2人の徒歩旅行者に出会った。彼らは荷物満載の巨大なリアカーを引いて、アラスカハイウェイの起点であるドーソンクリークから9週間かけて歩いてきているのだと言った。最終目的地はフェアバンクス、僕が3日で来た、車なら半日足らずの道のりを彼らはおそらく2週間以上をかけて進んでいくのだ。
 それまで好天だったのが、なぜか国境付近の数kmだけ雨雲に呪われていた。国境上にはアメリカ側の施設しかなく、カナダ側の入国手続きは20マイルも先だと言われた。時刻はすでに19時。しかも時差のオマケがついて20時になった。
 カナダの入国審査にはおばさんの係員が一人だけいた。「いつ日本に帰る?」「1ヶ月後です」「カナダから出国するのか?」「アメリカから」「帰りの航空券は予約済みか?」「ハイ」そして僕のパスポートにはカナダ入国の印が押された。
2001年6月6日

 今日は2つの経験したくなかったことを経験した。
 1つはパンク。せっかく追い風で道も平らで快調に進んでいたのに、休憩のあと走り出そうとしたら後輪のタイヤがへこんでいた。気分もへこんだ。
 2つめは雨。前方に明らかにそれと分かる雨雲が浮かんでいて嫌な予感はしていたのだが、一本道で避けようもない。走っているときに降り、またテントを張っているときにも降られた。
 この日泊まったのは現地の言葉で「平和」を意味するというトワ、人口1250人ほどのごく小さな町だ。それでもハイウェイの分岐として交通の要衝になっており、宿泊や買い物、給油や観光案内など旅行者にとって必要なものは一通りなんでも揃っている。日本ではそんなことは当たり前だが、ここではそういう町がFUll Service Communityと呼ばれ、より小さな村落と区別されている。
2001年6月5日

 再び走り始める。ずーっと自転車はやめ、大平洋に面したヘインズを目指し、そこからは船に乗ろうとすでに決めた。そこまで約一週間だ。
 フェアバンクスから20kmでノースポールという小さな町。『地球の歩き方』には載っていない「北極」という名のこの町はサンタクロースを売り物にしていて、サンタクロースハウスなどという名所があった。
 しばらくは平坦路、アイルソン空軍基地の横を通り、ゴールドラッシュで賑わったというネナナ川に沿って徐々に坂道の割合が増えてくる。途中の工事現場で旗を振っていた女性に「気をつけて」と日本語で言われたのには驚いた。
 160kmほどを走り、アラスカハイウェイの本来の終点とされるデルタジャンクションに到着。ふと気づくとハンドルに巻き付けていたはずの腕時計が落ちてなくなっており、ショックだった(千円程度の安物だけど)
2001年6月4日

今日は休養日。郵便局とアラスカ大学へ行って終わった。郵便局では昨日現像した写真を日本に送る。$14,90.絵はがき1枚70セントだからけっこう高い。ここで後ろに並んでいたおじさんに話しかけられた。日本語が少し話せるその人は退役軍人で、終戦直後に名古屋か岐阜のあたりにいたらしい。駐車場に止めてあった彼の車のナンバーには”パールハーバーの生き残り”などと書かれてあった。「昨日は昨日 今日は今日」なんて笑っていたけど。
 午後、日本語が可能なインターネットが使えるところがあるかと観光案内所で尋ねたら、いくつか調べてくれたあとに、アラスカ大学の図書館を紹介された。町の中心からは少し離れているが、どうせ自転車だし観光ついでに出かける。アラスカ大学フェアバンクス校はオーロラの研究で有名らしく、部外者の旅行者でもただでインターネットができてかなり親切だった。
 夜、宿主のアレンに頼まれ新しいつい立てを打ち付ける日曜大工仕事を手伝う。第一印象は無愛想な感じだったが、だんだん仲良くなって夕食を分けてくれたり、隠された扉の中のパソコンを見せ、使わせてくれた。(昨日言ってくれればアラスカ大学まで出かける必要がなかったのだが・・・・・)
2001年6月3日

 ネナナからフェアバンクスまで、楽勝の道のりと思っていたら、まるで信州の峠道のような厳しいアップダウンの連続。右手には川沿いの平原が広がっているのに、なんだって尾根づたいに道路を造ったのだろう。
 ようやく着いたフェアバンクスの街は日曜のせいもあるかもしれないが閑散としてパッとしない。アンカレジの都市規模を旭川(より小さいが)くらいとしたら、さしずめ稚内くらいの雰囲気だ。ゴールデンハートパークという小さな広場にも観光客は一組ぐらいしかなく、青空教会のような聖書でも読み上げているらしき集団と、暇そうなおじさんたちが座りこんでいるだけだった。
 ちなみに、おとといビジターセンターでメモした情報だと、日の出3:57,日没23:52とのこと。ずーっと明るいわけだ。
2001年6月2日

 今日も晴れ。デナリを後にする。久しぶりの舗装路が楽ちんだ。誰かが言っていた。自転車は環境に優しいとよくいうが、整備された道路を走っているかぎり、少なからず環境破壊の恩恵を受けているのだと 。
公園入口のビジターセンターで1人のおじさんに話しかけられた。「昨日チャリに乗っていたクレージーガイはお前か」と言われた。その奥さんは日系の人で母親が岡山の出身だと言っていたが、日本語は話せなかった。そういえば、アンカレジからここまで日本人にはまだ一人も会っていない。これだけの観光地で全く会わないというのは珍しいことだ。
 この日は向かい風に悩まされつつネナナという小さな町までいく。8$のキャンプ場は無料シャワーなどあって快適だったが、土曜の夜のせいか周りで音楽が鳴っていて夜中までうるさかった。
2001年6月1日

晴れた! 晴れた!マッキンリーがデナリが見えた!デナリとは先住民の言葉で偉大なものという意。かつては国立公園の名称もマッキンリー国立公園と言っていたのを最近になってデナリ国立公園と改称したらしい。
 低い山は茶色く、少し高い山はところどころ白く、さらに高い山は白い中に黒い岩肌が目立つ。さらに奥にそびえ立つマッキンリーはほぼ完璧に真っ白だった。
 マッキンリーの姿が見え隠れしながら砂利道は続く。白い羊ドールシープや北極りすを見かける。幸か不幸か熊には遭わない。
 快晴だった天気も昼すぎから曇りがちになる。道はさらに奥へ続くがマイルソンビジターセンターまででおしまいとする。ここからマッキンリーまでは53km。雲の中から一瞬山頂がのぞく。八王子近辺から見える富士山よりははるかに近い印象だ。ビジターセンターの内外は多くの観光客で賑わっていた。あと半月もして、風景が草花の色彩に飾られるようになると、たぶんもっと混むのだろう。センター内にはマッキンリーにまつわる様々なデータが展示してあり、最初の単独登頂者としてNaomi Uemuraの名前もあった。1993〜99年の間、登頂を試みた人22546人に対し、成功した人はわずか11341人とのことだ。