ふねしゅーの地球紀行
    2001年5月
               



2001年5月31日

 キャントウェルから50?ほどでデナリ国立公園の入口に着く。
 入口にはビジターセンターがあり、基本的に全ての観光者はここでの手続が必要になっている。日本の上高地みたいに一般車の乗り入れが制限されており、シャトルバスあるいはキャンプ場などの予約も全てここが窓口になっているからだ。
 極北の地に位置するデナリでは5月下旬から9月中旬しかシャトルバスが運航せず、かつ5月末の時点では、まだ7つあるキャンプ場のうち奥の2つが営業をしていなかった。そこで奥から3つめのテクラニカリバーキャンプ場を2泊予約する。
 入口から14.8マイル地点までは舗装路、初めのうちは急勾配でのぼる。あるところで森林に覆われていた景色から木々が消え、見晴らしがよくなる。森林限界、タイガとリンドラの境界だ。しかし雲が多くマッキンリーまでは見えない。
 14.8マイル地点のサベージリバー検問所、ここでキャンプ場の予約証を呈示する。自転車はこの先も通行が可能だ。しかし未舗装道路、景色は一段とワイルドになる。赤茶けた丘が延々と続き、遠くには白い山並みが連なって見える。残雪が多く、まだ春になっていない寒々とした眺望だ。くねくねと縫うように走る一本道にはわりと頻繁にバスが通る。バスの運転手の2人に1人は手を挙げて挨拶してくれる。
 入口から29.1マイル、標高2580フィート(800メートル弱)にて泊。
2001年5月30日

 昨日同様、今日もデナリを目指して走る。走りながらふと考えた。アンカレジからデナリまでというとアラスカ的には普通のアプローチのように思えるが、日本におきかえてその距離を考えると、東京から蔵王よりもさらに遠い。栗駒くらいか。走りながらため息が出た。
 しかも昨日が村落の点在する平坦な道のりだったのに対し、今日はぐんと坂道が増えた。道の脇の林には雪が残っているのが見えるようになり、さらに高度が上がると、吐く息が白くなった。
 夕方に寄った売店で次の町(キャントウェル)までの距離を尋ねたら、疲れているならうちのキャビンで$15で泊まれる、と言われ、少し心が動いた。だが結局キャントウェルまで走る。郵便局の裏に勝手にテントを張った。
2001年5月29日

 本格的な走り初めの日、デナリ入口まで382?と遠く、その半分は到達したいと考えていたが、長距離走行はかなり久しぶり。120?をすぎてからペースが落ちた。他の場所なら日没を理由に今日はここまでと判断できるのだが、白夜のアラスカではずーっと明るいため逆に難しい。振り返ってアンカレジまで98マイルの標識を過ぎたところで見つけた川沿いのキャンプサイトに泊まることにした。
 ここまでの道、おおむね路肩は広く走りやすい。アラスカ一の幹線ということもあってか、交通量もそれなりにあった。

2001年5月28日

 本屋で『IRON CHEF』という料理の鉄人のofficial bookを見つけた。ニューサガヤという大きなスーパーには米や醤油はもちろん、海苔やふりかけ、レトルトカレーから冷凍のシュウマイまで売っていた。この日は地図、キャンプ用品、食糧などの買い出し。
2001年5月27日

 アンカレジでの主目的は自転車を買うこと。この日はまずREIという大きなアウトドアの店に行った。入口からずうっとMTBが並び$400くらいのものから$1500以上のものまで揃っていた。値引きになっていたランドナに魅かれたが、蝶のようなハンドル形状をした$750のマウンテンバイクを選んだ。
 アンカレジは人口25万ほどの小さな町だが、土地が広々と使われており、徒歩ではちょっときつい。自転車を得て行動開始、鉄道駅や観光案内所などダウンタウンを回る。天気は晴れ。風がいくぶん強いが日差しが暖かく、半袖姿の人もいる。一部のホテルなどをのぞいて建物はせいぜい3階建てで、カラフルな屋根ごしに白い山脈が望めた。

2001年5月26日

アラスカはハワイより近いらしい。だがロス・シアトル経由という非常な遠 回りをしたため、20時間以上という長旅になった。
 22:30横5列の小さな飛行機はアンカレジ国際空港へ降り立った。この時期の東京でいえば夕方6時ぐらいの明るさだろうか。広がる緑の森林の向こうに白い雪をいだいて並ぶ山脈が見えた。,
 ようやく周囲が暗くなってくるのは深夜0時を回ってから。正に白夜だ。
2001年5月26日

 子供のころ家族でよくキャンプに行った。せいぜい3日間くらいの 短い旅行だったけど、とても楽しかった。
 子供のころSFとか冒険の物語が好きだった。そこで描かれているような 旅は、絵空事だとわかってはいてもずっと憧れだった。
 学生時代に経験した自転車旅行や、海外旅行は、予期せぬトラブルが あって、いろいろな出会いがあって、その中を自分の力で進んでいくという、 昔夢に見た世界が具現化されていた。
 地球上に何十億という人がいて、いまそんな旅行ができるのは、 たぶん恐ろしいくらいの贅沢だろう。隣の町へさえ、自由に歩いていけない 人だっている。
 旅立てることを、その環境を作ってくれた家族、親戚、そしてすべての 友人に感謝します。
2001年5月25日

 遂に出発前日になった。この3日間は、親戚への挨拶と、そして旅行保険 や物資の購入であっという間にすぎた。ただ、どちらかというと今日までは、 長かったという印象のほうが強い。会社を辞めてからもう半年が経つ。
 いざ前日になってみても、夜になってやっとザックに荷物を詰めたり し始めても、旅に出るという実感はあまりない。
 どちらかというとこの気持ちは、新生活を始める前の心構えに近い。 たとえば学生生活が終わって明日入社式だというとき、あるいは札幌への 転勤の前、そんな感じだ。実際、1〜2年の旅行になれば、それは一つの 新しい日常の始まりみたいなものだ。
 荷物は極力減らそうと思ったのに、結局ザック一つに収まりきらず、 サブザックもいっぱいになった。
 ひとまず、アンカレジに着くまでが遠いな……
2001年5月23日

 八王子の甲州街道沿いに「荒井呉服店」という老舗の呉服屋がある。ユーミンこと松任谷由美の実家として有名(?)だ。先日たまたま銀行に用事があってその近くを通りかかったところ、店のシャッターがおり、貼り紙らしきものが貼ってあるのが見えた。
 駅周辺の開発が進み、昔ながらの商店街が衰退を始めてすでに久しい。呉服店になどまったく縁がないし、それほどユーミンが好きなわけではないが、つぶれてしまったのかと思い少し寂しくなった。
 実際シャッターの前まで足を運んでみると、なんのことはない、ホテルでの展示会のため本日は休業します、との貼り紙だった。
 拍子抜けしながらアーケード街をさらに歩いていくと、一帯が巨大な工事現場になっている場所があった。どんなテナントが入るのかは知らないが、再開発ビルと地下駐車場を建設していた。駅前に対抗すべく、商店街としても必死なのだろう。
 そして工事現場の端にまた小さな貼り紙をみつけた。
 「慶長年間よりこの場所で営業を続けて参りましたがこのたび再開発事業のため、やむなく・・・・・   21代目店主 00」

2001年5月22日

 小泉内閣の支持率が、一部マスコミによると90%を越えたという。 NHKの国会中継の視聴率も、かつてないほどに高まっているらしい。 たしかに、他のつまらない番組を見ているよりは、よっぽど政治ニュースが 面白く感じられる最近だ。理念ばかりで具体策がないとの批判もあった 小泉首相だが、まずは道路特定財源の見直しを掲げ、論議を巻き起こして いる。
 残念なのは、来週からはその続きを見られなくなること。ひとまず、 たまに見た日本発のニュースが首相交代なんて報道ではなく、 明るい話題であることを期待したい。
2001年5月19〜20日

 愛知県の常滑から新潟県の糸魚川まで約400km、人間の足だけで日本を横断した。とはいってももちろん一人でではない。今年の40周年を記念した東北大サイクリング部の、有志による企画だった。
 出発は19日午前0時。みんな時報で腕時計の時刻を合わせ、秒読み、 そしてスタート。深夜の道は暗く、伴走車のライトが頼り。2?ずつを1 区間とし、各自の走行力や地形に合わせ、1〜4区間ごとにたすきを つないでいった。
 初めは要領がつかめず、交替地点に次の走者がいなかったり、他の車への 連絡が上手くつかなかったりと、のっけからローテーションの狂うことが 多かったが、みんなのペースは予想以上に速く、順調に距離が進む。
 豊田を通過し、長野県との県境に近い足助へ。このあたりで空が明るく なる。逆に眠気との戦いが始まり、交替で睡眠をとらないとならず連係が 難しい。自分が走らないときも、車を運転したり、ナビをしたり、走者を 応援したり、なにかと忙しいのだ。
 アップダウンが続き、日が昇るにしたがい気温も上昇する。個人的には 長野県南、飯田の手前を担当して走ったあたりが一番きつかった。 社会人になってからも人並み以上には運動を続けていたつもりだったが、 ランニングはほとんどしておらず、足がついていかない。
 駒ヶ根の温泉にてしばしの休息。露天風呂からは南アルプスが望める はずだが少し雲がかかっていて残念。いつもならここで一杯といきたい ところだが、そうはいかないところが辛い。そうしている間も誰かが たすきをつなぎ走っているから、交替に行かなければ。
 温泉の効能か、足が慣れてきたのか、はたまたにわか雨で気温の下がった おかげか、次に辰野あたりを走ったときは、自分でも以外に楽で、 まだまだ走れそうに思う。ただ、日本海までの道のりはまだ残り半分。
 塩尻、松本で先輩2名が合流、ここで17名全員が揃う。すでに夜、予定 より早いペースで進んでいることもあり、睡眠不足と夜間走行の危険性を 考慮した結果、大町まで走り、そこで約3時間の全員休憩をとる。
 翌朝、昨日は星空しか見えなかったが、今日は北アルプスの山容が望めた。 この好景色が、疲れているはずのみんなの足取りを快調にした。とりわけ 青木湖を過ぎ白馬に至る途中、道の前方に遮るものがなく雪化粧をした 山脈だけが見える様は白眉だった。
 南小谷を経てトンネルの連続する新潟県との県境が最後の難所。それでも ペースは落ちず、いよいよゴールへ向けて全員の気勢が上がる。愛知から 新潟までなんて、車でも一日で走ろうと思ったらかなりつらい。それを、 人の足だけでつなぐ。
 午前11時すぎ糸魚川着。途中の全員休憩を除けば、平均してフルマラソン 3時間という速度、そして無事故。
 卒業以来、最大にして最高の想い出となった。
2001年5月18日

 この前、高校時代の友人に会った。中には卒業以来初めて、ざっと約十年ぶりに出会ったやつもいたが、顔を見ればすぐにそいつだとわかった。
 2年ほど前、会社で偶然、小学校時代の同級生に会ったことがあった。そのときはさすがに、申込書に書かれた氏名と実家の住所を見るまでは、そうだとは気づかなかった。
 年月と共に外見や雰囲気が変わるかどうかというのは、個人差によるところも大きいだろう。「痩せたんじゃない?」とか「少し丸くなった」なんてのは、ほんの数か月会わなかっただけでも、よく交わされる挨拶の類だ。年単位という久しぶりの再会になると、口に出してはなかなか言えないが、相手が老けたというか、年相応の顔になってきたなあと思うことが、たまにある。
   1〜2年も旅行して、密かに恐れていることは、その間自分が急速に老け顔になっていたら嫌だなあということである。 
2001年5月17日

 出発まであと10日を切った。最近の海外旅行はいつも、前日か、 下手すると当日にならないと実感が湧かないが、今回もなんだか そんな感じだ。
 でも、ドラマを見ながら、ふと思った。来週話は見られるとしても、 再来週は見ないんだなあ、と。
2001年5月16日

 運転免許の更新をした。いつもは1月生のため12月に行く。 12月は正月休みの影響で混んでいる。5月は空いているだろうと 思ったら雨にもかかわらず混んでいて、駐車場に入るのに30分かかった。 あの狭さは東京都の人口にまったく適していない。
 期間前更新になったが、手続的に面倒なことはまったくなかった。 旅券(パスポート)を見せ、渡航先と期間を適当に告げるだけ。あとで 渡された冊子を読むと、失効後6か月以上たっても、海外へ行っていた という理由があれば手続はできたようだ(ただし3年経つとダメ)。
 途中で更新したため、有効期限を1年損した。仮に丸2年旅行に行って いたとしたら、帰ってきて半年したら、また更新じゃないか。
2001年5月14日

 どうするか迷ったが、結局北斗星にて帰ることにした。前から一度は 北斗星に乗りたいと思っていたが、時間的制約でいつも飛行機を選んで しまっていたからだ。
 豪華な個室がウリのカシオペアとは違い、しかも一番安いB寝台のため、 期待していたほど立派という感じではなかった。札幌ではガラガラに空いて いたが、苫小牧、室蘭、函館と停車するに従い、徐々に混んできた。 札幌からの乗車が大半だろうと思っていたのだが、むしろ航空機の便の よくない地域のほうが、北斗星への依存度が高いようだ。2点間のみの 移動に限らないところが、列車の強みだろう。
 札幌を出発してから16時間弱、列車は上野駅に到着した。
2001年5月13日

 野球をした。ほぼ半年ぶりの野球だ。
 久しぶりに自転車に乗るときはたいして緊張もしないのに、 久しぶりにバッターボックスに立つと緊張するのはなぜだろう? そんなときは、ただのファールチップでもほっとする。
 2打数1安打1打点2四球。しょぼいライト前ぽてんヒットを打った だけだけど、数字にするとそこそこに見えるから不思議だ。
 午後は河原の緑地に移動してジンギスカン。運転でないのをいいことに、 二日酔いならぬ三日酔いのくせに、たぶん一番飲んでいた。

2001年5月11日

40日ぶりに札幌へ来た。日本航空50周年記念で、なんと片道5000円という 破格だ(帰りの日程未定のため、復路未購入。買っとけばよかったと いま後悔..)。
千歳に着陸する直前「羽田と千歳では気温差が約十度ございます」と アナウンスがあった。さすがに涼しい。
空港から市街、電車よりも200円ほど安いバスに初めて乗ってみる。 途中見えた札幌ドームはほぼ完成していた。札幌駅前は工事が進み、 様子が少し変わっていた。2年後3年後にはまたがらりと違って いるんだろうなあ。
2001年5月10日

 バイト先(派遣会社)にたまっている給料を取りに行ったら、その会社 が入っているはずの雑居ビルの該当階は、もぬけの殻だった。部屋の扉に 貼り紙がしてあった。
『○○○へ移転しました。電話番号はそのままです』
 一瞬、夜逃げされたのかと焦った。
2001年5月9日

 またまた山へ行ってきた。この2週間で4つめだ。
 登ったのは甲武信岳。埼玉・山梨・長野の三県境に位置している山で、 特に北側の谷は雪に埋もれていた。
 連休明けで登山客はほとんどなく、とりわけ暇そうだったのが山小屋で、 一人いた管理人は二日ぶりの客だと言っていた。「お酒飲みますか?」と ただ酒を振る舞ってくれたのは、たぶん話し相手に飢えていたからだろう。
 話を聞くに、山小屋というのはかなり儲かるらしい。普通のホテルや旅館 であれば、何十人という従業員を抱え、温泉とか、あるいは送迎バスのよう な設備やサービスを維持する必要がある。それに対し山小屋は、一人ないし 二人の従業員で、ときには百名近い客をさばく。寝る場所とレトルトカレー のような食事、あとは市価の倍額のビールを売っていれば成り立つ。だから とても楽らしい。
 ただ、その人はもうすぐ辞めると言っていた。たしかにお金にはなるが、 それだけで山にずっと籠もっているのは(たびたび下山はできるようだが) 大変なようだ。
2001年5月7日

 公衆便所といえば、かつては、暗く汚く臭いのが相場だった。汚物に 虫がたかり、耐え難い臭いが充満しているのが普通だった。
 いつの頃からか、駅や、公園や、観光地の駐車場のトイレに、きれいで 設備の整ったものが目立つようになった。自動扉や、赤外線センサーに よる水洗など、もはや珍しくもなんともない。学生時代の自転車旅行の際は、 (水の確保が保証されているため)宿泊場所の候補にすらなった。
 日本は清潔な国だと言われるが、公衆便所を見る限り、まさにそうだろう。 海外旅行のガイドには、その国のトイレ事情が説明されていることが 珍しくない。裏を返せば、外国のトイレに抵抗を感じる日本人が少なく ないということだ。
 先日訪れた屋久島の山中に設置された公衆便所は、久々に昔ながらの汚い トイレだった。登山と海外旅行は違うけれど、トイレの不便さ不快さ という点では、案外共通するところがあるのかもしれない。
2001年5月6日

 父の単身赴任先である長野から足を伸ばし、飯縄山へ登った。 標高1917mは先日訪れた屋久島の宮之浦岳とほぼ同じであったが、 ふもとから2時間ほどという楽な行程である反面、山頂付近や北側の 斜面には雪が多く残り、さすがは豪雪地帯近くの山であることを 感じさせた。
 話によると、長野県内では数日前に降雪があったらしく、実際、 下山した戸隠中社の村落では、民家の脇に雪が残るのを見ることが できた。
 スキー場でバイトしていたのがかなり昔のことのように思えるが、 札幌国際は本日5/6までの営業のはずである。雪はもったのかな?
2001年4月28日〜5月3日

 屋久島へ行った。計六日間の旅行だった。

 学生時代の先輩後輩あわせて四名。神奈川の久里浜に集合し、 秦野中井から高速に乗り、そこから長い道のりが始まった。
「ゴールデンウィークに屋久島へ行くって(会社の人に)言ったら、 『飛行機はもうとったの?』って言われたの」
 鹿児島までは約1500?。たしかに普通なら空路を選ぶ距離かもしれない。 静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、大阪、兵庫、そして岡山に着く頃には すでに日が暮れていた。
 岡山には先輩の家があり、そこに一泊させていただく。
「今回の旅のメインはここだ!」
 市内の某焼き肉屋で飲む。脂のしたたり落ちる上ホルモンが印象的 だった。
 問題はその帰り。汽車で20分ほどの行程のはずだったのだが、気がつくと 全員、終点の総社駅にいた。飲みすぎてすっかり眠りこけていた三人と、 起きていたのに降りるべき駅に気づかなかった二人。当然のように、 岡山方面に戻る列車はなかった。
「敗北だ!」
 しかし、乗り過ごしてしまったことを、なぜか楽しそうに喜ぶ面々が いた。

 翌朝、しばし先輩の子ども(一歳児)と遊び、二日酔いを醒まし、そして 出発。
 広島、山口ときて関門海峡を見おろす壇ノ浦SAにて昼食休憩。いよいよ 九州だ。もともとは先に四国へ渡る予定だったのだが、前日調べた天気予報 の結果、先に屋久島へ向かうことに決めていた。
 福岡、佐賀、熊本、そして鹿児島到着は夕方の六時。鹿児島港のフェリー ターミナルはすでに窓口が閉じており、翌日の出航時刻と料金の確認だけを 行う。この時点でまだ船の予約は確保しておらず、
「もし乗れなかったら(後輩の実家がある)松山に行って飲むか」

 関東を発ってすでに三日目の朝、超満員のフェリーは屋久島へ向けて 出航した。船内の案内板には乗客定員が四百何十名と書いてあったが、 どう考えてもそれを遥かに上回る人数が詰め込まれていた。通常の船室は おろか、スクリーンを備えた劇場室も乗客用に解放され、さらにあふれて 通路という通路に座りこむ人たちのために、乗務員によってござが配布 されていた。
 山用に買った"麦"がさっそく空いていく。
 そして曇り空の屋久島に到着。港近くに停まっていたバスに尋ねると、 GW期間中の特別運行なのか、ガイドブックにはタクシーでと書いてある 場所までバスで行けるらしく、これ幸いと即座に乗り込む。同じように 大きなザックを背負った人々で、たちまち車内は混雑していった。
 海沿いを四分の一周ほどしたあと、バスはいよいよ山の中へ入っていく。 屋久島は円周百?超の円形の島だが、一歩海岸線から離れると、その風景 はもはや島という雰囲気ではなかった。九州最高峰の宮之浦岳を擁し、 ひと月に35日雨が降ると言われるほど湿潤で森が鬱蒼としており、まるで 信州の山奥にでも迷い込んだかのような感じだった。
 道端には猿の親子が見えた。狭い崖沿いの道、対向車をぎりぎりの ハンドルさばきでよけていく。大型バス同士が見事すれ違ったときには 車内に拍手がおきた。
「こんな道、自分の車でもバックしたくないな」
 バスを降り、しばらく舗装路を歩き、宮之浦岳の南側からの登山口である 淀川入口に辿り着く。雨が小降りに降っていたが、当たり前のように土砂 降り想定される土地であるから、小雨程度ではあまり気にしていても仕方 がない。むしろ、前日は大雨で道が通行止めになったという話を聞き、 さらに明日は天気がよくなるだろうという話を聞き、期待感を持つ。
 40分ほど登り、淀川小屋そばの幕営地にてキャンプ。映画「もののけ姫」 の森林は屋久島の山をイメージして描かれたそうだが、あちこちに水たまり やせせらぎがあり、葉を盛んにつけた木々が所狭しと生い茂り、根っこや 苔類が地面を埋め尽くすさまは、植生の豊富さを感じさせた。
 さすがゴールデンウィークということもあり、小屋の中は満杯、テントも 至るところに設営され賑わっていた。

 山の朝は早く、早朝4時に起床。朝食をとり、テントなどを片付け、 明るくなってきた5時半過ぎに出発をする。天気は、なんと晴れ!
 関東を発ってから二日半をかけての移動、そして昨日の午後もたいして 歩いてはおらず、本格的な行動はこの日からである。ところどころ休憩を はさみながら快調に進む。花之江河と呼ばれる庭園のような湿地帯を見、 黒盤岳という小峰に登る。さすがに山頂はガスがかかっていたが、ときおり 晴れ、周囲の山々や西側の港までを眺めることができた。海が見えたこと で、かろうじてここが島であることを認識する。
 そしていよいよ、最終目的地といっていい宮之浦岳を目指す。杉林や 湿った笹の葉が生い茂る亜熱帯の山道が、背の低い灌木ばかりの亜寒帯 の植生に変わり、いくつかの尾根を越え、そして山頂に着く。山頂付近は 百名とまではいかないまでもかなりの数の登山客であふれ、すぐ隣の岩塊 の上に陣取ることにする。辺りにはガスがかかり、残念ながら眺望はなか なか効かなかったが、昼食を食べ、寝転んだりしながら、のんびりと晴れる のを待っていたら、周囲の雲がすぅっと引き、西隣にそびえる屋久島第二の 高峰永田岳の全姿を望むことができた。
 午前中は好天を保っていたものの、正午を過ぎて雨が降り始める。そんな 雨の中、北へ向けて下山を開始、新高塚小屋の周囲にて今夜はキャンプと なる。雨足は徐々に強まり、テントの壁面から浸水し、居心地はよくない。 昨日船からバスにすぐに乗り換え、"睡眠薬"を補充できなかったことが 悔やまれたが、どうにか眠りについた。

 屋久島の名を有名にしているのは、宮之浦岳があるからではない。 縄文杉を筆頭とした樹齢二千年を越える名だたる巨杉の存在、そして近年 人気のある世界遺産の登録地とされるからである。
    雨が多く、斜度の険しい登山道は、ところどころ沢になっていて歩き にくい。そんな道に、まだ真新しい木道が整備されていた。建設中の住宅 のような材木の香りが残っていたり、材料番号を示すシールが貼られたまま だったり、そしてまさに造り途中の資材が脇に積まれていたりと、とりわけ 麓から縄文杉に至る道が歩きやすいようになっていた。世界遺産になって 予算が潤沢につくようになったのだろうか? もっとも木道には、登山者が 歩きやすいというだけではなく、道をはずれた場所を踏み荒らされない ようにという環境保護の目的もあるのだろうから、ゴミが捨てられたりと いうことさえなければ、よいことなのだろう。
 間近で見る縄文杉は、高層ビルを真下から見上げるのに似て、巨大だ。 一説によると7200年という樹齢が計算されているらしい。縄文杉本体の 幹や枝から、それこそまるで高層ビルに間借りするテナントのように、 青々とした(杉とは異なる木の)若い小枝が寄生して伸びていた。仮に 7200年という年齢が正しいとした場合、果たしてそれより高齢な存在が、 地球のどこかにあるのだろうか。ふとそんなことを思った。そういう意味 では、まさに世界遺産の名に相応しいといえた。
 登山客ではない観光客も大勢訪れる縄文杉であるが、そこからの下山も かなり厳しい道のりだった。再び降り出す雨と、峠道と、午後のフェリーに 間に合うかという時間に追われつつ、白水広場という北側登山口にて 二泊三日に及んだ登山は終了した。
 一転して快適だったのが帰路の船。空一面の青空(それでも洋上に見える 山は雲がかかっていたが)と心地よい風、すっかり濡れびたしになった 合羽や、靴や、その他衣類を乾かすことができた。
 鹿児島に着き、市内の温泉に入り、ラーメンを食べ、夜9時、いよいよ 再び1500?の道のりに挑む。高速に乗ってすぐ、
「次のPAまで何?ある?」「10?くらいです」 「もたない! すぐに停めてくれ!」
という路肩に緊急停車の一幕もあったが、その後は比較的順調で、九州道 から中国道へ入る。

 吹田から名神に入ったのが午前6時すぎ、京都の手前から渋滞が始まる。  一番ひどかったのが一宮から名古屋にかけての中京で、一時は夜になっても 東京まで辿り着かないのではないかと心配したが、静岡からは小さな渋滞 だけでほぼ問題なく流れ、夕方には横浜町田ICに到着した。
 思えば日本国内、4日間以上の旅行をしたのは学生時代以来のことだ。 日本に秘境と呼べるところが残っているとすれば、たぶん北の知床と、南の 屋久島だけではないかと思うが、その屋久島へ行け、しかも登山の要所で 晴れを見ることができたのは、とても有意義で、かつ楽しい旅行だった。